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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:あやまつなら われあり。わたしは存在である。)
あやまつならわれあり。
このQ&Aのポイント
- あやまつならわれあり。わたしは存在である。
- もしわたしは欺かれているとしよう。欺かれていると気づいたわたしは存在している。
- わたしは欺かれることを欲していない。存在としては何ものによっても欺かれない。
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noname#205880
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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- kurinal
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お礼
ご回答をありがとうございます。 総じて言って――前回にわたし自身の理解のためのよすがをしるしましたが―― いわゆる観念論哲学に分類される。かも知れないですね。《理念》論と言いましょうか。方向性・志向性は いっしょだと考えるものですが。 ううーん。 ★ 私の言う空論は、精神というもののあり方を示しています。それは、言葉を超えた言語作用であり、例えば犬や猫に空観が起こりえるかというと、ちょっと難しいのでは無いかと思います。そういう意味で、私は人であるというのは一つの条件と成り得ます。 ☆ 確かに志向性においてそのとおりだと考えます。しかも それなら 《言語の使用》ということでよいのではないか? ★ 言葉を超えた言語作用 ☆ これが ですから確かに《精神というもののあり方を示している》と同じく考えますが たぶんわたしなら《言葉を超えたところで 互いにその思いや心を通わせるマジハリのあり方》にしても それも 広く言語使用の問題として つまり《言葉を話すひと》という性質として捉えればよいのではないか? ううーん。どうでしょうかねぇ。 そう言えば この《空》論については これまでにまだうかがったことがなかったように思うのですが?・・・ ★ 全体性によって担保された個我は一種の確かさを持っています。故に、生命史や人類史に比べて僅かな時間かもしれないが、そこには永遠ともいうべき存在の仕方が内包されている、ということなのです。それは観念ではないのかという問いに対しては、これは精神の有り様について述べたものであると答えることになるでしょう。 ☆ この点は おおむね一般にも言われているところだと思います。 ただし 一般には《精神の有り様》としてと言うよりは ホモ・サピエンスの生命〔ないし生命の具体的形態〕のあり方としてであるようには感じます。人間にとっての天与の条件として そのように《生命存在において 個の有限性と類の永続性》といったかたちで。 言いかえると これをさらに《空》論として打ち出すかは わたしはいま何とも言えないですね。 空は シューニャターにもとづくとすれば もともとは《空っぽ》という言葉だそうですし。 命名の由来を問い返されるかと思います。 ★ [・・・]私の空論によれば、個は一種の絶対性を(内包する全体性により)持っているのであり、内側を通じて他者と等しいと言えるのです。然るに外的な要因、例えば社会の有り様や、意見の擦り合わせ、などのことによって担保される等さとは異なる等さによって、異なる主観を以ってしかも存在としては等しいと見るのです。 ☆ (1) おそらく経験合理性にもとづこうとする特にプラグマティズムのような哲学の立ち場からすれば もっと簡略に ○ 人びとがそのマジハリをとおして 見解の一致を見る場合 それはヒトとしての存在の類としての同等性・同質性にもとづくのだと捉える。 くらいにとどめるのではないかとは思います。内面は重要ですが そこへ根拠を持って行かないと言いますか そういう方向もあるかと考えます。 (2) 存在に《内包する全体性・互いのあいだの共通性》を初めに前提しているならば それだけで共同主観は潜在していると捉えられるでしょう。 (3) もう少し形而上学に片向くならばと言いましょうか 神学をも交えるとすれば これは単純に一切衆生が悉く有すると言われるブッダター(仏性)の仮説にもとづき 内面における主観の共同性をすでに作業仮説のごとく前提することが考えられます。 ほかでもなく そういうハタラキを持つアートマン(霊我)のことだと見られます。 神の霊がやどる神の神殿がわれらが《身と心とから成る自然本性》だと 想定において 言われます。 あるいはつまり フッサール関係で《相互主観性 Intersubjektaet 》というふうにも呼ばれるかと思います。 微妙と言えば微妙ですね。 取りあえずわたしのほうからは こんな感じです。