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あやまつならわれあり。
- あやまつならわれあり。わたしは存在である。
- もしわたしは欺かれているとしよう。欺かれていると気づいたわたしは存在している。
- わたしは欺かれることを欲していない。存在としては何ものによっても欺かれない。
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質問者が選んだベストアンサー
私の言う空論は、精神というもののあり方を示しています。それは、言葉を超えた言語作用であり、例えば犬や猫に空観が起こりえるかというと、ちょっと難しいのでは無いかと思います。そういう意味で、私は人であるというのは一つの条件と成り得ます。 全体性によって担保された個我は一種の確かさを持っています。故に、生命史や人類史に比べて僅かな時間かもしれないが、そこには永遠ともいうべき存在の仕方が内包されている、ということなのです。それは観念ではないのかという問いに対しては、これは精神の有り様について述べたものであると答えることになるでしょう。 共同主観と言うものについて。 我々は個別バラバラであるかのように思ったり、逆に何がしかの元に同位であると思ったりしますが、私の空論によれば、個は一種の絶対性を(内包する全体性により)持っているのであり、内側を通じて他者と等しいと言えるのです。然るに外的な要因、例えば社会の有り様や、意見の擦り合わせ、などのことによって担保される等さとは異なる等さによって、異なる主観を以ってしかも存在としては等しいと見るのです。
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- a_hona
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お礼ありがとうございます。先ほど語った私の論は抽象論であるので、具体論となると、また別のことを述べることとなります。確かに私の論を空論と位置づけて良いのかどうか定かではありません。まさしく形而上学を語っており、そういう意味では観念論と見られるでしょうが、おそらく、言葉を超えた言語作用という表現が引っかかっておると思います。例えば、「見る」と「観る」の間に差異があるように、普通に言語を使用することと、この言葉を超えた言語作用は、やはり差異があると言っておかねばならないと思います。人が何かを語る場合、言葉で語り、言葉を語るわけですが、その言葉自体のシステムは裏に控えていて表には出てきません。したがって、その言葉自体のシステムをどうこういう時には、語られる以前の言葉、言語作用が働くと、便宜上述べることになります。個我を超えているということも同様に、全体について言うのであれば、空によって個我と全体を言葉の上で並列することによって、語り得ると思っていただければよいかと思います。ここはわかりにくいところと思います。 ですから、ブッダターと言われるものとは少し違うのかなと思います。その全体性は全体性であるだけであって、慈悲や某といった表現では表せるものでもないし、仮に指し示されるものでもなく、ただ、個我を超えているというだけで、個我に安定をもたらすということです。 繰り返しになりますが、全くの抽象論ですので、具体論を語るならば、この話はおそらく出てこないのでないかと思います。 私からの持論の注釈はこんなところとなります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ その全体性は全体性であるだけであって、慈悲や某といった表現では表せるものでもないし、仮に指し示されるものでもなく、ただ、個我を超えているというだけで、個我に安定をもたらすということです。 ☆ そうだと思いますよ。 ブッダターという言葉にまとわりついた倫理的な意味合いが 困るのだと思います。 アートマンなら そのハタラキが現われればそれは まさにこの質問の主題であるところの《わたしがわたしであることの成就》なのだと捉えます。 倫理的な問題を入れて考えるのは そのあとだと思うんです。 神の霊という場合も 道徳関係につながりやすいですね。 せいぜい 基本は 《元気に成ること》だと捉えるとよいと思います。 《個我を超えている》ということは 人間関係の善悪ないし倫理学をも超えているということだと考えます。 ★ 繰り返しになりますが、全くの抽象論ですので、具体論を語るならば、この話はおそらく出てこないのでないかと思います。 ☆ そうですか。つまり 具体論はもしそれがあるとするなら 一人ひとりの考えによる応用の問題である。といったところでしょうか。 総論を提出しておいて われわれはそれぞれ具体的な情況と場面とにおいて 考えよ そして行動せよ。といったところでしょうか。 観念論・理念論でよいのだと。 言語作用論について もう少し考えてみたい気持ちがありますが またの機会にとっておきましょうか。 ほかの回答者で ペンディングなやり取りは 無いようですから 次の主題へすすみましょうか。 いつもですが あ_ほなさん そしてみなさん ありがとうございました。
一回捨てちゃったらば・実験的に捨てちゃう前に色んな可能性を理論として組み立てておこうとするのもりかいできなくはないけれど、その期間が長すぎても特別とくなことはないだろうし、もう新しいところに踏み出してみては。今まで考えてきたことの答えあわせなり・役に立たせて。要はそれが健康的だと思います。回答という回答ではないけれど。
お礼
そうですね。ご回答をありがとうございます。 もう少し具体的に説明して欲しいところです。 もしこれだけで応答するとしたなら たぶんその答えは: 念には念を入れることに 長すぎるということはない。 と考えます。言いかえると それは 念を入れるその人の感覚の問題ではないでしょうか。 言いかえると ほかの人から見れば 長すぎたり短すぎたりしているというふうに見えるのではないか。 基本的には そのようなほかの人の見方にはかまっていられない。というのが ふつうの振る舞いではないでしょうか。 と思うのですが。 あるいはつまり この主題と問題に もしそちらから見て長く居続けていると見えたなら 同時並行してほかの主題をあつかうことは出来ますから そう言ってもらえば 出来ることはやりますが。 ★ 今まで考えてきたことの答えあわせなり・役に立たせて。 ☆ といった課題について もう少し具体的に言ってもらえませんか? つまり 問題意識というのは 同じ主題を扱っても 人によって違ってくると考えますから 今まで扱った主題の吟味検証と言っても わたしの問題意識とみなさんのそれとでは 一人ひとり違って来る。のではないでしょうか。 といった感じなのですが。
- a_hona
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生活実感として、欺かれたり欺かれなかったりしながらも、私はある、ということですね。了解しました。 また、我の存在や相互理解を懐疑する場合に対する議論が趣旨というともOKです。 空についての補足ですが、私の言う空においては、個我を仮とは見てません。まさしく個と見るのであって、その個性が、内包する全体性によって担保されている、という事です。伝統的な仏教観における、空観とは異なるかもしれません。この世は夢幻の如くであるという見方はどちらかというと無常観から来ていると考えられます。空観はあくまで、我執などの固着を取り除くためのツールと私は思っています。無常故に悲しむことのないように、という事だと思うのです。 また何かあればお礼欄や補足欄にてどうぞ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 生活実感として、欺かれたり欺かれなかったりしながらも、私はある、ということですね。了解しました。 ★ また、我の存在や相互理解を懐疑する場合に対する議論が趣旨というともOKです。 ☆ 一致しましたね。めでたし めでたし。 あと残る問題は: ★ 私の言う空においては、個我を仮とは見てません。まさしく個と見るのであって、その個性が、内包する全体性によって担保されている、という事です。 ☆ これは 言ってみればめづらしいですね。よく言えば 愛(め)でるべきめづらしさ。 でも おそらくそれだと問題は 個我が《仮りではない》とは どういうことか? でしょうね。 ★ その個性が、内包する全体性によって担保されている ☆ これが ただちには分かりづらいですね。指し示そうとするところは明晰でもあるのですが 理解がゆきとどきがたい。 《全体性》とは: (あ) 個我たるわたしは 人類に属している。ということでしょうか? 生命という問題。実際には DNAをつうじて類としての人間は それとして不滅である。その永続性によって個我は 《仮りの存在ではないこと》が担保されている。・・・ 動物に先祖や子孫という思いはあるか。と。 (い) 人間には 《歴史》があり 精神の軌跡としてのその歴史はひとの一生涯としての有限の時間性を超える。ゆえにであろうか。 同じく動物に歴史はあるか? (う) 主観の共同性というコトが 問われる。共同なる主観が成ったというところまでは行かないが そのようなことが――平和であったり同じく民主制なる共同自治であったりというふうにして――話題になりそれの実現へ向けても努力が傾けられる。 このような和の精神は 人類史をつうじて基調を成しているであろう。・・・ここにあって 個我は 仮りのものだと言うには 全体性あるいは普遍性なる事態に通じているという基礎(人間の条件)を見なさすぎている。か?
- 雪中庵(@psytex)
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「宇宙=私」である時、存在とはその宇宙の要素で あって、「私は存在である」という言明に意味はない。 「私」が何らかの要素(結果)であるという通俗的な 素朴唯物論を前提としたアンチテーゼに過ぎない。
お礼
さよか。 ★ 「宇宙=私」である時 ☆ この前提をまづ論証しなくてはならないのではないの? ご回答をありがとう。
補足
しかしいかにも人一倍 おのれが中心であってかつその自分を押し出したいという顕示欲が旺盛なのですね。 それゆえ 誰にも分からない《詩作》を重ねている。 こういった現状でしょうか。 素朴唯物論って いったいどういうものか 分かっているのだろうか。 自分の主張がそれだと。
- a_hona
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超速のお返事ありがとうございます。 存在しないなら欺かれない、欺かれなければ彷徨う事もなく、立ち帰る事もない。 存在しているが、欺かれず、常に立ち位置を定めている。この様な場合もある。 目覚めた私と、立ち帰る私は同義であり、幻なる我と欺かれた我は同義である。 目覚めた私など無いと言う主張に対しては、目覚めた故に幻が幻であると見えるのである、と言えるし、立ち帰る私など無いと言う主張には、欺きが欺きであると知られるからには、立ち帰る私が必要なのである、と言える。 空について。 巷で空がどの様に理解されているのか詳しくありませんが、私の言う空というのは本質的にフラットなもので、個我を擁するものではありません。部分では無く全体的であります。難しい所は、個別があると言うことを根拠にして全体というものの存在を認める形になっている所です。我々個人があるのだから、(人という)全体もあるだろうと。 先程述べました精神というのも全体であり、個別のものではありません。個は常に全体によって満たされている、全体は個によって存在が証される、という相依となっています。死によって個が破綻すれば、全体としての精神だけが残るということです。あたかも、シャボン玉の中の空気が、シャボン玉の消滅によって外の空気と同化する様です。 以前も申しましたが、空というのは有ると無しを包含しており、その内無しの所だけを主張するのは、空の性質を理解しているとは言えません。個我としての私は無くとも全体としての私はある、そう理解して下さい。個我が空じられる故に全体が明らかとなり、全体が明らかになることによって、<<全体を内包した個我を知る事になる>>、という事です。ですから、このように空は個我の存在を否定するものではないので、空を持ち出しても、問題は無いのです。空とは、個であり全であるという事態を現象させるものなのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 存在しないなら欺かれない、欺かれなければ彷徨う事もなく、立ち帰る事もない。 ☆ そう来ましたか。 でも 趣旨説明としてわたしが書いたのとは少し違うんです。その違いをも明らかにしてみておきたいと思います。 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~ わたしは欺かれることを欲していない。 このように宣言するわたしは たとえ誰かに具体的なものごとで欺かれていたとしても けっきょく 存在としては何ものによっても欺かれない。 欺かれ得ない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なんです。つまり 具体的なあれこれのものごと自体については だまされている場合がありえます。あるいは あやまちを侵し得ています。けれども 存在としては けっきょく――生きて生活しているかぎりで―― ありつづけている。これです。 欺かれていても わたしは存在している。存在であり続けている。です。 このとき ひとつに死後の問題は 無記です。無記としています。 もうひとつに その存在が 仮りの現象であり哲学(実存)としては 《空》と観るべしといった議論にも触れないという前提を置いています。それで 《わたし》論は成り立つという見方です。 すなわちつまり: ★ 存在しているが、欺かれず、常に立ち位置を定めている。この様な場合もある。 ☆ において 《欺かれず》である必要もないことになります。日常の出来事として欺かれることもある。あり得る。けれども 存在はしている。存在としては わたしであり続けている。――という命題です。 成り立つと思うんですがねぇ。 ★ 目覚めた私と、立ち帰る私は同義であり、幻なる我と欺かれた我は同義である。 ☆ まぁ そうでしょうねぇ。しかも それら二つの側面は つねに同居し得ている。 と言っても 同じ次元で並列しているのとも違う。はずである。基礎(根っ子)と応用面(枝葉)とではないでしょうか。 ★ 目覚めた私など無いと言う主張に対しては、目覚めた故に幻が幻であると見えるのである、と言えるし、立ち帰る私など無いと言う主張には、欺きが欺きであると知られるからには、立ち帰る私が必要なのである、と言える。 ☆ ええ。そういうことになると思います。 ★ 我々個人があるのだから、(人という)全体もあるだろうと。 ☆ ん? 人類といった《類》の概念ですか? 日本人といった括りでは 類と個との中間の《種》という概念になるといったそういう分類ですか? 個別のひとは 限りあるいのちであって 朽ちざるを得ないが 類としてはひとは 永続している。生命のあるかぎり 類ないし全体としてのヒトがいる。ですか? ★ 死によって個が破綻すれば、全体としての精神だけが残るということです。あたかも、シャボン玉の中の空気が、シャボン玉の消滅によって外の空気と同化する様です。 ☆ ううーむ。これは 死生観ですよね。つまり 死後の世界をふくんだ《わたし》論になるのですよね? そういう方面つまりそういう視点が 存在論には必要でしょうかねぇ。いまは 保留します。先ほどのふたつの《無記》で話は成り立ちませんか? 成り立たないという場合には なおご説明をどうぞ。 ★ 空というのは有ると無しを包含しており、その内無しの所だけを主張するのは、空の性質を理解しているとは言えません。 ☆ そのはずです。《仮象(あるいは 空っぽ)だが 仮象としては現象している》です。まともな議論としては これが常識だと思います。 ★ 個我としての私は無くとも全体としての私はある、そう理解して下さい。 ☆ いや ちょっと待ってください。そこまで行くと飛躍があるように考えます。 つまり この質問の見方から行くと 《全体としてのわたし》は じつにそれは死後のことであるか または ただの観念としてあるわれのことか だと思われるのです。 言いかえると 死後やまして前世のことにはいっさい触れずに 《われや 存在や 人間の相互理解や》に懐疑の目を向けている思想に対して反駁したい。こういう意図とねらいがあります。 ★ ですから、このように空は個我の存在を否定するものではないので、空を持ち出しても、問題は無いのです。空とは、個であり全であるという事態を現象させるものなのです。 ☆ それとして成り立つというその理論については 見解を同じくしますが ここでは おそらく早く言えば役に立たないと思えるんです。 なぜか? 《個我の存在を否定していない》としても それを仮りのものとしては見ているはずです。つまり 仮の現象なら 幻想だと言っているも同然である つまり《わたし》は無い。まぼろしだ。という懐疑派の思うつぼではないでしょうか?
補足
空観をめぐっておぎないます。 空仮中の三諦と言いますが 空っぽだが仮りの現象としてはあるというそれら全体を――中道として――捉える。ことだと考えますが つまりこの質問では ではその《仮りの現象としては存在するのだ》という見方は どこから・どういう根拠で言えるのか? の問いに答えようとするものです。 ですから そう捉えるなら なんら行き違いはない。と言えると思います。 食い違っていないところの空観のその細部についての詰めになると考えます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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君は史実を過去として研究のみで歴史が生きていない それを心を知らないと指摘しているのだ。 激励だよ。
お礼
さよか。わからんけど。もっと説明が要ると思うよ。 ご回答をありがとう。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「つまり 《わたし》の根拠のようなもの。これを問い求めるという作業が この質問です。どうでしょう。」 いつも、お世話になっております。
お礼
見守って行ってください。 ご回答をありがとう。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
直近のお礼に対してだよ。 彼の言葉に対してではなく、彼を書き記した史実に対して君は論評している。 それだけだと心が判ると言えない。 彼とは釈迦とイエスの両方だ。 釈迦が君に対して反面教師だとしても、愛そうと言う戦いを挑め。 悪魔を愛すると言う私と同じ戦い方だ。 両者は、日本人にとってはどっちもどっちだ。 外来宗教の研究だ。 アマテラスさんが一番だ。 君は人の足取りを史実から浮き彫りにしようと頑張っていて、生きている自覚は備わっていても、私ほどは楽しんでいない。 これは、他者に善しを計らい、自らを良く(欲)しようとしない、「アマテラスの善し」を「あやまつ」日本人の気質だ。 自らに良く自身が計らう事を証明すれば、欲望と言う悩みは克服できる。 わたしにとってはもはや、公開する機会を待つばかりだ。 良い友人として、聞き手にまわる君は頼もしい。 同じくらいに、君の聞き手になろうとして、昨今は明白に、私から善しを計らっているのだ。 闘争する人類史で、善しを全うできるのは、アマテラスさんが偉大だからだ。
お礼
★ 釈迦が君に対して反面教師だとしても、愛そうと言う戦いを挑め。 ☆ ですから ゴータマはペテン師だという批判が 愛そのものである。と言っています。 アマテラスは 実の弟のスサノヲを最後まで信用も信頼もしなかった。それほど心の狭い神さんだ。よ。 ご回答をありがとう。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
言葉のニュアンスとして、私、自分、我、とそれぞれ異なったものを有していると見れますが、あえてそれを飛び越えて思ったことを。 まず、もし、欺かれていると気付けなかった場合には、我は無いのだろうか。 むしろ、欺かれている時にこそ我があると、この前文は主張しているのではないか。 前文によって欺かれていることを示唆され、それによって後文において我があることを認めるならば、この前文、我は幻であるという言葉によって、後文における欺かれる我の存在は担保されていることになる。 つまり、欺かれるなら我ありの主張は、この前文、我は幻であると言う主張に対する反論とはなっておらず、逆に依存していると考えられる。 一方、この前文、我は幻であるという言葉は、幻としての我を認めており、その実体は否定していても、一応の形のある事を認めている。 故に我についての論議に、この前文の様な主張のある事は、(これを支持するかは別として)認められる。 前文は、欺かれる故に我無しと言っているのであり、それに対し目覚めるならば、我が幻であることを知った自身がいるのだと暗に主張しているようにも取れる。この時の、我と、自身と言う言葉は全くニュアンスの違うものとなる。我は彷徨くものであり幻である、目覚めた自身は定まっており真実である、この様な感じに言葉の意味が違ってくると思われる。 前文は、我は幻と言うことによって、かえって幻ならざるものの存在を、目覚めという言葉によって示唆している。 後文は、欺かれるなら我あり、つまり、欺かれた自分(立ち帰る我)は実体としてある事になる。もし、欺かれて、それに気が付かない場合はなんと言うのだろう、フローティングな、彷徨う我がやはりあるのではないか。この時は立ち帰る我はまだ出現していない。後文は、欺かれる我と、立ち帰る我の二種の我を想定した上での文言と考えられる。 構造としては、幻の我を表に出し、目覚めた自身を裏に控えた前文と、 立ち帰る我を表に出し、欺かれている我、気が付かない我を裏に控えた後文、となっており、両者は単に言う順番を替えただけのものようにも見える。 前文*我は幻(目覚める自身) 後文*立ち帰る我(欺かれる我) もっと言えば、 前文は、我は幻と言うために、幻ならざる我を想定しており、 後文は、立ち帰る我を言うために立ち帰らない我を想定している。 当たり前の文の形であり、後文は前文を反転しただけ、前文は後文の裏写しになっているに過ぎない。 前文に対する反論と言うのは、例えば、我は幻と言うけれど、実際に痛みや苦しみ、喜びや楽しみを感受するではないか、それらを感受する主体としての我が存在するのではないか?と言ったようなものとなるのではなかろうか。因みにこの反論に対する前文側のフォローアップは、感受する主体もまだ諸々の構成物に過ぎず、解けば幻のようなもので実体は実は無いのだと言える。とか、そんな感じになると思う。 前文は仏教系の主張として散見されるものであるので、例を参考として挙げると、維摩経における文殊と維摩の、病の床にある菩薩の有り様についての問答があります。文殊が自分というものの実体について詳しく維摩を問い詰め、維摩はそれを三界や空という考えをもって解説するという話となっております。ざっくり言うと、病の床にある維摩に、文殊が、空を説くなら貴方の病苦も空であるはずだが、事実あなたは病苦を受けている。それは何故だ?と尋ね、維摩は、この病苦を受ける身体ももちろん空だが、基体があるとか、慈悲によって苦を受ける形をとるとかなんとか言って、菩薩というものについて詳しく述べるというものです。議論としてはこちらの方が興味深いです。 もし私が、幻なる我と立ち帰る我について述べるなら、次の感じ。 幾ら立ち返ろうともその立ち帰る我は死によって中断してしまう。幾ら我が幻であると言っても私には身体と言うものがある。身体もいつかは消滅するという点で幻と同じであるが、少なくとも生存している内は、恒常的な自分自身というものがあるし、その考えだけは、死後にもあるだろう。過去の人の言葉が死後にも残るように、恒常的な自分自身というその精神だけは、死後にもあるだろう。人々のある限り、その精神は存在すると考えられる。この推論から、無論他の人々にもこの恒常的な自分自身と言う精神が存在するだろうと言える。 この様に、他の言葉で限定をかけて、我について推論すると思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ まず、もし、欺かれていると気付けなかった場合には、我は無いのだろうか。 ☆ それは 議論において理論としての根拠が――ワレについて――無いということだと考えられます。 つまりですから 実際には 理論的根拠がなくても すでに生活しているなら ワレはある。はずです。 ★ むしろ、欺かれている時にこそ我があると、この前文は主張しているのではないか。 ☆ つまり 欺かれていてもいなくても 生活者としてのワレの存在は 生まれたときから ある。と捉えます。公理のごとくにです。 すなわちつまり: ★ この前文、我は幻であるという言葉によって、後文における欺かれる我の存在は担保されていることになる。 ☆ 《マボロシである》のではなく そうではなくすでに《われあり》は 誰についても例外なく現実なのですが ただし《おまえは 存在しているか? 存在していると言ってもそれは ただの錯覚であり幻想でしかないのではないか?》という議論に対して答えることは まだしていない。といった状態であり情況なのだと考えます。 ★ もし、欺かれて、それに気が付かない場合はなんと言うのだろう、フローティングな、彷徨う我がやはりあるのではないか。 ☆ そうですよ。〔と この質問では知ったふりでこたえてまいりますが〕 要は ディベートとしては もしわれに気づいていず反論も出来ないときには 《さまようワレ》のままである。と見られるでしょうね。 ★ つまり、欺かれるなら我ありの主張は、この前文、我は幻であると言う主張に対する反論とはなっておらず、逆に依存していると考えられる。 ☆ いえ。これは違うと思いますよ。つまり 《存在しないなら 欺かれることもない》と言って われありと主張しているのですから。 実質としてすでに初めからわれは存在しているが ここでディベートにおいても打ち負かしたということではないでしょうか。 ★ 故に我についての論議に、この前文の様な主張のある事は、(これを支持するかは別として)認められる。 ☆ ええ。つまり ディベートの問題としては 残っていた。というようなかたちだと捉えます。 ★ 前文は、欺かれる故に我無しと言っているのであり ☆ そう解釈する場合もありなのかも知れませんが われありと言おうとしている人にとっては おそらくそうではなく 《欺かれたときには あたかもわれ無しと 人びとからは見えるだろうな》と思って 論拠を探した。という経過ではないでしょうか。 《目覚めよ》と他人に向かって言うのは 懐疑派の人たちですね。ひとの存在なんて あるものか。ひとが互いに分かり合えるなどと何を寝ぼけたことを言ってるんだ。と言って議論をふっかける人びとですね。 で こちらは《目覚めた》なら――われに還ったときには―― すでに存在していたわれについて論証することも出来た。こういうことだと思います。 ★ 当たり前の文の形であり、後文は前文を反転しただけ、前文は後文の裏写しになっているに過ぎない。 ☆ だけではないとここで言い張るのは 《存在しなければ 欺かれることはない》と論駁し得たということだと考えます。 ★ 感受する主体としての我 ☆ については 自答されているように 論拠としてよわいのではないかと考えます。 言いづらいですが ★ 恒常的な自分自身と言う精神 ☆ というのは げんみつに考えると その《自分自身なり精神なり》が じつはマボロシであるのではないか? 人にとってこの世の中じたいが 幻想である。何をか言わんやと言って 議論をふっかけて来る場合の問題ではないかと考えるわけです。だって 《空》観を持ち出したら まさにその餌食になるのではないでしょうか? どうでしょう。
- kurinal
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B様、ありがとうございます。 >「ということは 《フリー》であれば わが存在がそのみづからの支えを持たなくても 確かなあゆみをすすめて行ける。ということですか?」 「自由には、責任が伴う」とか、言われますね。 「他者様を助ける」なんて、どんだけ(自由なんでしょう)。
お礼
つまり 《わたし》の根拠のようなもの。これを問い求めるという作業が この質問です。どうでしょう。 ご回答をありがとうございます。
- 1
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お礼
ご回答をありがとうございます。 総じて言って――前回にわたし自身の理解のためのよすがをしるしましたが―― いわゆる観念論哲学に分類される。かも知れないですね。《理念》論と言いましょうか。方向性・志向性は いっしょだと考えるものですが。 ううーん。 ★ 私の言う空論は、精神というもののあり方を示しています。それは、言葉を超えた言語作用であり、例えば犬や猫に空観が起こりえるかというと、ちょっと難しいのでは無いかと思います。そういう意味で、私は人であるというのは一つの条件と成り得ます。 ☆ 確かに志向性においてそのとおりだと考えます。しかも それなら 《言語の使用》ということでよいのではないか? ★ 言葉を超えた言語作用 ☆ これが ですから確かに《精神というもののあり方を示している》と同じく考えますが たぶんわたしなら《言葉を超えたところで 互いにその思いや心を通わせるマジハリのあり方》にしても それも 広く言語使用の問題として つまり《言葉を話すひと》という性質として捉えればよいのではないか? ううーん。どうでしょうかねぇ。 そう言えば この《空》論については これまでにまだうかがったことがなかったように思うのですが?・・・ ★ 全体性によって担保された個我は一種の確かさを持っています。故に、生命史や人類史に比べて僅かな時間かもしれないが、そこには永遠ともいうべき存在の仕方が内包されている、ということなのです。それは観念ではないのかという問いに対しては、これは精神の有り様について述べたものであると答えることになるでしょう。 ☆ この点は おおむね一般にも言われているところだと思います。 ただし 一般には《精神の有り様》としてと言うよりは ホモ・サピエンスの生命〔ないし生命の具体的形態〕のあり方としてであるようには感じます。人間にとっての天与の条件として そのように《生命存在において 個の有限性と類の永続性》といったかたちで。 言いかえると これをさらに《空》論として打ち出すかは わたしはいま何とも言えないですね。 空は シューニャターにもとづくとすれば もともとは《空っぽ》という言葉だそうですし。 命名の由来を問い返されるかと思います。 ★ [・・・]私の空論によれば、個は一種の絶対性を(内包する全体性により)持っているのであり、内側を通じて他者と等しいと言えるのです。然るに外的な要因、例えば社会の有り様や、意見の擦り合わせ、などのことによって担保される等さとは異なる等さによって、異なる主観を以ってしかも存在としては等しいと見るのです。 ☆ (1) おそらく経験合理性にもとづこうとする特にプラグマティズムのような哲学の立ち場からすれば もっと簡略に ○ 人びとがそのマジハリをとおして 見解の一致を見る場合 それはヒトとしての存在の類としての同等性・同質性にもとづくのだと捉える。 くらいにとどめるのではないかとは思います。内面は重要ですが そこへ根拠を持って行かないと言いますか そういう方向もあるかと考えます。 (2) 存在に《内包する全体性・互いのあいだの共通性》を初めに前提しているならば それだけで共同主観は潜在していると捉えられるでしょう。 (3) もう少し形而上学に片向くならばと言いましょうか 神学をも交えるとすれば これは単純に一切衆生が悉く有すると言われるブッダター(仏性)の仮説にもとづき 内面における主観の共同性をすでに作業仮説のごとく前提することが考えられます。 ほかでもなく そういうハタラキを持つアートマン(霊我)のことだと見られます。 神の霊がやどる神の神殿がわれらが《身と心とから成る自然本性》だと 想定において 言われます。 あるいはつまり フッサール関係で《相互主観性 Intersubjektaet 》というふうにも呼ばれるかと思います。 微妙と言えば微妙ですね。 取りあえずわたしのほうからは こんな感じです。