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あやまつならわれあり。
- あやまつならわれあり。わたしは存在である。
- もしわたしは欺かれているとしよう。欺かれていると気づいたわたしは存在している。
- わたしは欺かれることを欲していない。存在としては何ものによっても欺かれない。
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質問者が選んだベストアンサー
私の言う空論は、精神というもののあり方を示しています。それは、言葉を超えた言語作用であり、例えば犬や猫に空観が起こりえるかというと、ちょっと難しいのでは無いかと思います。そういう意味で、私は人であるというのは一つの条件と成り得ます。 全体性によって担保された個我は一種の確かさを持っています。故に、生命史や人類史に比べて僅かな時間かもしれないが、そこには永遠ともいうべき存在の仕方が内包されている、ということなのです。それは観念ではないのかという問いに対しては、これは精神の有り様について述べたものであると答えることになるでしょう。 共同主観と言うものについて。 我々は個別バラバラであるかのように思ったり、逆に何がしかの元に同位であると思ったりしますが、私の空論によれば、個は一種の絶対性を(内包する全体性により)持っているのであり、内側を通じて他者と等しいと言えるのです。然るに外的な要因、例えば社会の有り様や、意見の擦り合わせ、などのことによって担保される等さとは異なる等さによって、異なる主観を以ってしかも存在としては等しいと見るのです。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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私なりの流儀や作法だ。 > あやまちにて転んでもただでは起きない。つねにそこから理論をみちびき出す。 このようにかみしめる君に対して、あえて私は語る言葉を持たない。 これは、釈迦の作法の良い側面を私が理解しているゆえだ。 私の君に対する友情なり愛情なりから、君も釈迦に対して一定の肯定を説明してもらいたいところだ。 絶望的な落下傘降下で、彼は生涯、神から明かされなかった可能性は確かにある。 しかし寄り添いつずけただろう、その神の思慮を理解できるようになることは、イエスを理解することと同一だ。 イエスを敬愛しても、処刑されたことはイエス自身の失敗だと、故事に対して君にも考慮できるだろう。 無条件の崇拝ではないことは明白だからな。 哲学の歴史研究的側面として、私も同じ範疇で納める事が出来るが、商売と言えが子供を喜ばすことだ。 ちょいちょいと、実在する妖精の捕まえ方構想を、世間話程度に説明してポケモンの、単独経済効果5兆円以上だ。 わたしは素晴らしい自らの資質を自覚しているから、餌として大企業に放り投げたポケモンはもうどうでもいい。 収益の配当は猫に小判だ。 しかしセレビィとジラーチに利権を主張する悪の結社は難物だよ。 わたしの誉れは彼らに屈辱を与えなければいけないのが、人知の法の利権あさりだ。 必ず勝てるが、彼らには、丁寧に敗北を認めさせる必要がある。 億劫な手続きだ。 改めて、彼らの方からわたしに法廷闘争を挑んでほしい昨今だが、彼らは乙女のごとくオカマの恥じらいのみだ。 観念世界側から神の名を持って操作できる私から言えば、実在する悪の結社が無駄な抵抗をすれば、犠牲者が出る。 人の法で証拠が無くても彼らのせいで人が不名誉な生贄になる。 無差別殺人犯来襲だ。 彼らが間接的に私の意思を知るのみでも、この点ではすでに宣戦布告が出来ている。 当事者にとっては身に覚えがあることで、検索すれば目に留まる。
お礼
ゴータマくんは だめ。 《大化城》という言葉がある。 まぼろしの城――つまり蜃気楼みたいなもの――を見せて人びとを ここまで引っ張って来たとみづから言っている。 つまり 三十何歳のころこの上なき知恵のさとりを得たと言ったのは 手品を見せただけだと言っている。そのマジックに人びとはかかってここまで来たのだと。 それは あまりにも現実がひどくて 人々のその悲惨な状態に同情したからだと。 だめ。中身がない。ペテン師である。 イエスが十字架上から――兵士たちによっては もしおまえが神ならそこから降りて来いとからかわれても――降りて行かなかった。それは もし降りて行ったなら それはただ神だから出来る奇蹟だ。と思われて おしまいになる。からである。 しかも 無実の罪でハリツケになったことについて そのように画策したユダヤ高等法院の議員や祭司たちには かれらは何をおこなっているのか わからないのだから かれらの罪は赦されるようにと語った。 というふうな手段によって 神を指し示した。目に見えないけれど その目に見える姿をとおして・それを超えて 神を捉えることが出来るようにと。 失敗するという手段を使ったという意味。 ご回答をありがとう。
- kurinal
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B様、こんばんは。 仏教のほうが、フリーでは?
お礼
ということは 《フリー》であれば わが存在がそのみづからの支えを持たなくても 確かなあゆみをすすめて行ける。ということですか? ご回答をありがとうございます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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お礼ありがと。 そう言う人向けとは心外だ。 子供にも判る。 さらに子供こそ喜ぶ。 職業的仮面ライダー。 本業はおもちゃ屋だ。 よぼよぼの大人向けじゃない。 あんたはよぼよぼではない良い年輪を重ねている。 独身だそうだが、あんたこそいい父の資質があるんだ。 それは自覚できるだろう。 私はまだ、自分の人生を残念な結果にしようとは思わない。 笑える事だが、オカマ相手の花嫁募集はそういう訳だ。 まだ私は人生に真剣になれないのかな~。
お礼
川端康成の掌編小説《神います》みたいだ。 今回は それだけ。ご回答をありがとう。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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良心的な君のストリップショーだ。 私ほど商売上手じゃなくて、親切でぼったくらない持ちかけ方だね。 他方の私の宣戦布告で、日本昔話的な実在する妖精の姿を斜め読みぐらいはしただろ。 私にも、ジラーチちゃんが肝心なことを話さないのは、私の知性が追いつかないゆえの配慮だと心得ているよ。 あんたはそれおあやまつの一言にしているが、日本昔話の方が金がむしり取れる素地がある。
お礼
なるほど。文学として推し進めるのも 一法ではないか。 そういう人向きなのかも知れない。 わたしは苦手。というより ずばり理論で言えばよいと考えてしまう。 あやまちにて転んでもただでは起きない。つねにそこから理論をみちびき出す。 ・・・ ご回答をありがとう。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 総じて言って――前回にわたし自身の理解のためのよすがをしるしましたが―― いわゆる観念論哲学に分類される。かも知れないですね。《理念》論と言いましょうか。方向性・志向性は いっしょだと考えるものですが。 ううーん。 ★ 私の言う空論は、精神というもののあり方を示しています。それは、言葉を超えた言語作用であり、例えば犬や猫に空観が起こりえるかというと、ちょっと難しいのでは無いかと思います。そういう意味で、私は人であるというのは一つの条件と成り得ます。 ☆ 確かに志向性においてそのとおりだと考えます。しかも それなら 《言語の使用》ということでよいのではないか? ★ 言葉を超えた言語作用 ☆ これが ですから確かに《精神というもののあり方を示している》と同じく考えますが たぶんわたしなら《言葉を超えたところで 互いにその思いや心を通わせるマジハリのあり方》にしても それも 広く言語使用の問題として つまり《言葉を話すひと》という性質として捉えればよいのではないか? ううーん。どうでしょうかねぇ。 そう言えば この《空》論については これまでにまだうかがったことがなかったように思うのですが?・・・ ★ 全体性によって担保された個我は一種の確かさを持っています。故に、生命史や人類史に比べて僅かな時間かもしれないが、そこには永遠ともいうべき存在の仕方が内包されている、ということなのです。それは観念ではないのかという問いに対しては、これは精神の有り様について述べたものであると答えることになるでしょう。 ☆ この点は おおむね一般にも言われているところだと思います。 ただし 一般には《精神の有り様》としてと言うよりは ホモ・サピエンスの生命〔ないし生命の具体的形態〕のあり方としてであるようには感じます。人間にとっての天与の条件として そのように《生命存在において 個の有限性と類の永続性》といったかたちで。 言いかえると これをさらに《空》論として打ち出すかは わたしはいま何とも言えないですね。 空は シューニャターにもとづくとすれば もともとは《空っぽ》という言葉だそうですし。 命名の由来を問い返されるかと思います。 ★ [・・・]私の空論によれば、個は一種の絶対性を(内包する全体性により)持っているのであり、内側を通じて他者と等しいと言えるのです。然るに外的な要因、例えば社会の有り様や、意見の擦り合わせ、などのことによって担保される等さとは異なる等さによって、異なる主観を以ってしかも存在としては等しいと見るのです。 ☆ (1) おそらく経験合理性にもとづこうとする特にプラグマティズムのような哲学の立ち場からすれば もっと簡略に ○ 人びとがそのマジハリをとおして 見解の一致を見る場合 それはヒトとしての存在の類としての同等性・同質性にもとづくのだと捉える。 くらいにとどめるのではないかとは思います。内面は重要ですが そこへ根拠を持って行かないと言いますか そういう方向もあるかと考えます。 (2) 存在に《内包する全体性・互いのあいだの共通性》を初めに前提しているならば それだけで共同主観は潜在していると捉えられるでしょう。 (3) もう少し形而上学に片向くならばと言いましょうか 神学をも交えるとすれば これは単純に一切衆生が悉く有すると言われるブッダター(仏性)の仮説にもとづき 内面における主観の共同性をすでに作業仮説のごとく前提することが考えられます。 ほかでもなく そういうハタラキを持つアートマン(霊我)のことだと見られます。 神の霊がやどる神の神殿がわれらが《身と心とから成る自然本性》だと 想定において 言われます。 あるいはつまり フッサール関係で《相互主観性 Intersubjektaet 》というふうにも呼ばれるかと思います。 微妙と言えば微妙ですね。 取りあえずわたしのほうからは こんな感じです。