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自由と平等

もしかすると。 いずれも、「物理の法則」といったものに、かなり近いのではないでしょうか? 「自由」(といって「デタラメ」をすれば、「デタラメ」)の報いを受けます(平等的に)。 そこから出発するとして、 より「平等」という価値を重く見て、「自由」を制限(的に、見守ることに?)しよう、というのは、 人間の普遍の真理からみて、無理からぬところと思います。 「自由だ」といっても「無責任な自由」でなければ、ご賛同頂けるのではないでしょうか。

みんなの回答

noname#209756
noname#209756
回答No.14

自由、平等には西洋哲学で系譜があります。 功利主義、公正なリベラル、リバタニアン、コミュニタリズムなど。 功利主義から現れて、リベラルはこうではないかなと。 論理展開する西洋哲学でおえば、進展をおえるのではないかと。 不確実ながら。

kurinal
質問者

お礼

pkuobe99様、ご回答ありがとうございます。 (ガッテン・ガッテン) >「功利主義から現れて、リベラルはこうではないかなと。」 「いすれにしても、人権は不可侵なのである」という前提で、 功利主義もリベラルも、真の価値を見出されるのでしょう。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.13

自由と言っても何のための自由か?進化論的に言えば生き残るための自由です。 平等といっても何のための平等か?これも皆が、より多くの人が生き残るための平等です。 自由度が増せば存在確率も増え、平等度が増えれば(乱雑?規則的?)存在確率は全体としては高くなります。 物理的にと直結するかどうかはわかりませんが、比喩的には喩えられると思います。

kurinal
質問者

お礼

yuniko99様、ご回答ありがとうございます。 >「自由と言っても何のための自由か?進化論的に言えば生き残るための自由です。」 なるほど! 「自由」と言って、放埓をした上で「救済」を求めるとかも。 >「平等といっても何のための平等か?これも皆が、より多くの人が生き残るための平等です。」 自由競争の末に、より良い選択肢が示されることが、多くの人のためになるかもしれないですが。 >「自由度が増せば存在確率も増え、平等度が増えれば(乱雑?規則的?)存在確率は全体としては高くなります。 物理的にと直結するかどうかはわかりませんが、比喩的には喩えられると思います。」 どうも、少し、今回は、伝わらなかったような気がします。 質問文において、もう少し違う表現を試みますと、 「Aか、Bか、選ぶのは自由。→選んだ結果は、Aなり・Bなり」ということかと。

kurinal
質問者

補足

>「「自由」と言って、放埓をした上で「救済」を求めるとかも。」 どうして、くれましょうか。

noname#231796
noname#231796
回答No.12

自由は義務を果たした後の権利だと思っているので、でたらめな行動の上には成り立ちません。 でたらめは慎みたいものです。

kurinal
質問者

お礼

zyxwvut100様、ご回答ありがとうございます。 「義務を果たす」は「でたらめな行動」ではない、ということですね。 >「でたらめは慎みたいものです」 「一字一句、違えてはならない」というのも、ありますね。

noname#205560
noname#205560
回答No.11

「これでは、「オウム」のようにマークされても、仕方が有りませんね」         ↑ んっ!?・・・俺の言いたい部分は 単に地球を次世代に継ぐ為に 少しでもゴミを拾って地球環境を良くしよーって処なんだけどな・・・ そんな小さな事も出来ない死ましてや原発事故処理なんか あなたも俺にも出来ない・・ それならば 身近のゴミ環境を整える方が役に立つ・・それだけなのだが・・・ オウムだろーとカラスだろーと そんなの どうだってイイですよ・・ 好きに思っててね・・・(オウムの糞でも良いからね(#^.^#)

kurinal
質問者

お礼

こんばんは。 >「んっ!?・・・俺の言いたい部分は 単に地球を次世代に継ぐ為に 少しでもゴミを拾って地球環境を良くしよーって処なんだけどな・・・」 「ダメ出し」というのが、実は、かなり問題を含んだ表現(行為)なのでしょうか。 >「そんな小さな事も出来ない死ましてや原発事故処理なんか あなたも俺にも出来ない・・ それならば 身近のゴミ環境を整える方が役に立つ・・それだけなのだが・・・ オウムだろーとカラスだろーと そんなの どうだってイイですよ・・ 好きに思っててね・・・(オウムの糞でも良いからね(#^.^#)」 「整える」、そうですか。

回答No.10

 こんにちは。  1. 自由は ひとりの人の意志について言う場合と 人と人とのカカハリにおいて見る場合とで 同じ自由であるにもかかわらず 多少見え方が違って来ます。  2. カカハリ(社会を成す人びとの互いの関係性)にあっては わたしの自由とあなたの自由そしてあの人の自由がすべてひとしい。  3. つまりそれが 取りも直さず 平等のことです。自由であることが 互いにひとしい。自由と言えば 平等である。  4. この理論は しかしながら カカハリが実際の交通(マジハリ)という場面になると なかなか一筋縄では扱い難くなります。  5. 要は――理論をあらためて言えば―― 相手の自由を・つまりそれは意志の自由をとうとぶことが 平等と同じ公理としての自由です。  6. しかも 面と向かってマジハリの場にあっては この自由を互いに踏みにじることが少なくありません。言論で相手を丸め込むことですら 意志の踏みにじりです。そういう魂胆が見え隠れしています。  7. となると 自由=平等なる理念は とことん・どこまでも・夜通しでも・明日が明後日になっても・来年になっても再来年になっても 棺桶に足を突っ込むまで 互いにいい知恵を問い求めて話し合うことに行き着きます。  8. そうも話し合いばっかりやってられないとなると どうするか?  9. ユヅリアヒとなります。功利主義の考えによると 妥協となります。損得で考えると お互いの意見を足して二で割るということのようです。  10. ★ 「自由だ」といっても「無責任な自由」でなければ、ご賛同頂けるのではないでしょうか。  ☆ 残念ながら この《責任のある発言と取り決め合いとその実行》というのは 責任の無い場合と どのように取り分けることが出来るか?  11. 無責任な場合には たいてい 一見しても二見しても分からない隠れたところで 手を抜くわけですから なかなか実際問題としては 見抜くのがむつかしい。  12. 妥協が成っても 半分っこしても なお自由=平等を踏みにじる独りよがりの自由が出て来るようです。  13. 遠き慮りとして・長い目で見ると ユヅリアヒに限るというのが これまた 理論じょうの結論であるでしょう。  14. ★ 「自由」(といって「デタラメ」をすれば、「デタラメ」)の報いを受けます(平等的に)。  ☆ そうとは限りません。悪徳の限りをつくした場合のほうが 報いが少なくて済んで行っている場合もあると思います。  15. それにも答えて行くには 千年単位のユヅリアヒ これしかないと言うのが ひとつの結論です。  16. ワルイおこないが高いびきをかいているとき それをいかに人間の自由かつ平等において あたたかくつつみ 同じ対等なる人間としてマジハリをかたちづくって行くか。ユヅリアヒは そこに行き着きます。  17. ムクイをどこまで求めるか。こちらは 相手の意志を踏みにじったことはないという根拠が どこまで 人間の自由で平等なことなのか? ユヅリアヒは そこまでの問題を指し出しているものと考えます。  18. 無責任な自由を どこまで大きくあたたかく法律による扱いを超えて 人びとがつつみ込んで溶かしていけるか?  

kurinal
質問者

お礼

B様、おはようございます。 「(宗教「信教」)過激派」による「世界遺産」破壊が、また、あったようですね。 嘆かわしいことと思います。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.9

「自由」と「平等」はフランス革命の旗印です。革命後の議会で自由を求める人達が右翼側に座り、平等を求める人達が左翼側に座りました。2つに分かれた理由は2つの革命勢力があったからです。一つは商業を行なう裕福な階層ともう一つは労働者である貧しい階層です。 貧しい者は平等公平により裕福になろうとするし、裕福な者は自由競争によりもっと豊になろうとするのです。平等にしようとする者は社会に制限を加えないと平等にはならないと考えます。裕福な者は制限を好まず自由に競争しようとします。 現在でも裕福であるものは自由競争の結果であると思っています。自由競争では負けそうな者は平等を主張するようになります。人は自分を中心にして損得で考えているのです。自由競争させない社会では平等悪によってソビエト連邦も毛沢東の中国も経済が発展しませんでした。その意味で経済的には平等よりも自由の方が価値があるとの決着がついているのです。 そうであっても貧困層には自由競争は辛い社会です。資本主義では格差は広がる宿命にあるからです。貧しい時は豊かになりたくて平等をもとめます。一方、裕福になると自由を求めるようになるものです。お金があって自由であることは至福の人生です。 「自由」は自由であって、無責任も責任もないのです。あえて責任と言うなら法律の範囲内であることです。

kurinal
質問者

お礼

titelist1様、ご回答ありがとうございます。 >「「自由」は自由であって、無責任も責任もないのです。あえて責任と言うなら法律の範囲内であることです。」 法律の親玉?が「憲法」ですから。 (・・・「違憲状態」は、有り得ないですねえ)

noname#205551
noname#205551
回答No.8

こっちもあったのかぁ・・「原発」で酷い事になっているのは、周知の事実ですよね」・・・ 人間は 肉体の死等 関係無いのです・・・ 精神(心)が本質のものなのです・・・ 原発が問題では無く この世を次世代に継ぐには どう変えれば良いかを考えるのが 今を生きてる人の存在の意味なのです・・・ 原発云々(笑)・・・チャンチャラおかしいぜ(笑) こんなポイ捨てゴミの世の中を 見て見ぬ振りしてるのに・・・(笑) 原発の事は出来る人に任せて 例え一つでも ポイ捨て空き缶を拾って 地球環境を良くしましょうよ・・・

kurinal
質問者

お礼

おはようございます。 >「人間は 肉体の死等 関係無いのです・・・ 精神(心)が本質のものなのです・・・ 原発が問題では無く この世を次世代に継ぐには どう変えれば良いかを考えるのが 今を生きてる人の存在の意味なのです・・・ 原発云々(笑)・・・チャンチャラおかしいぜ(笑) こんなポイ捨てゴミの世の中を 見て見ぬ振りしてるのに・・・(笑) 原発の事は出来る人に任せて 例え一つでも ポイ捨て空き缶を拾って 地球環境を良くしましょうよ・・・」 おっしゃることは、「全体主義」ですね。

kurinal
質問者

補足

>「人間は 肉体の死等 関係無いのです・・・ 精神(心)が本質のものなのです・・・」 これでは、「オウム」のようにマークされても、仕方が有りませんね。

noname#205551
noname#205551
回答No.7

「因果応報」であっても平等という訳では無いのです・・・ 平等を飛び越え 「愛する地球の家族」これが正解・・・

kurinal
質問者

お礼

ragira様、ご回答ありがとうございます。 >「「因果応報」であっても平等という訳では無いのです・・・」 どうして、でしょう。 >「平等を飛び越え 「愛する地球の家族」これが正解・・・」 「平等を飛び越える(こそが、愛?)」が正解とは。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.6

NO.3 です。 >一万年、、、千年、、、百年。 百年くらいは、悩んだのかなと思います。 (一万年前の生活水準で、満足出来るわけではありません) 生活水準と自由平等とはあまり関係ないと思います。 生活水準が上がれば皆贅沢がしたい、しかしだからといって古代の人が自由を望まなかったといえますか?古代の人は今のような人権の観念はしらなかったと思いますが、不平等に苦しまなかったかといえばNOでしょう。2000年前にもスパルタクスの乱が起こっていますし、源氏の君の不義を妻が悩むのも今と同じではないでしょうか。 > 千年前と百年前で充分だ、と仰るなら、 「千年前」で、どうぞ。 だから、自由と平等は科学技術のようにひとすじなわではいかないといっているのです。 まだまだ解決には千年掛るかも知れないと言っているのです。

kurinal
質問者

お礼

kohichiro様、ありがとうございます。 >「生活水準が上がれば皆贅沢がしたい、しかしだからといって古代の人が自由を望まなかったといえますか?古代の人は今のような人権の観念はしらなかったと思いますが、不平等に苦しまなかったかといえばNOでしょう。2000年前にもスパルタクスの乱が起こっていますし、源氏の君の不義を妻が悩むのも今と同じではないでしょうか。」 はい。 >「だから、自由と平等は科学技術のようにひとすじなわではいかないといっているのです。 まだまだ解決には千年掛るかも知れないと言っているのです。」 10年、20年、では、人間の課題でしょう。

回答No.5

人の根源的な選択=生きる意志において、完全な自由である。 死んだ人を罰する事はできない。 「自由<->義務」の別は、人の社会性における選択として派生 するものであり、ずっと公海上で暮すならば一切自由である。 そこにおいては、孤独な自然との闘いとして誰もが平等である。 それを国家内に住み、その社会的便宜を受けようとすると、社会 体制との契約として義務が生じ、その埒外としての自由=権利の 概念が派生するのである。 その意味で「社会的な義務」というのも、その法規に従って社会的 便宜を享受する得と、その義務を嫌って会から離脱する事による 得(あるいは法を守らない事による罰)との比較による選択=自由 の結果ではあるのだ。 ただ、一般的には、社会に所属する事は先入観として無意識な 前提となり、その上での“自由”は、社会的義務を果たしたくない (自分だけは楽をしたい)甘えとして表れがちなのだ。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 朝一でガツンと来た感じです。 >「人の根源的な選択=生きる意志において、完全な自由である。 死んだ人を罰する事はできない。」 なるほど。 >「「自由<->義務」の別は、人の社会性における選択として派生 するものであり、ずっと公海上で暮すならば一切自由である。 そこにおいては、孤独な自然との闘いとして誰もが平等である。 それを国家内に住み、その社会的便宜を受けようとすると、社会 体制との契約として義務が生じ、その埒外としての自由=権利の 概念が派生するのである。 いえいえ。いかなる場合でも人権は侵害不可かと。 >「その意味で「社会的な義務」というのも、その法規に従って社会的 便宜を享受する得と、その義務を嫌って会から離脱する事による 得(あるいは法を守らない事による罰)との比較による選択=自由 の結果ではあるのだ。 ただ、一般的には、社会に所属する事は先入観として無意識な 前提となり、その上での“自由”は、社会的義務を果たしたくない (自分だけは楽をしたい)甘えとして表れがちなのだ。」 んーーー 「社会に所属しながら、義務を果たしたくない」とは。 >「(自分だけは楽をしたい)甘えとして表れがちなのだ。」 これは、また、凄いご回答を、頂きました。ありがとうございます。

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