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三国志 地図

 三国志の地図をネット上で探しています。  ところがネット上には、あまりにもたくさんあり過ぎて、取捨選択が難しく、困っています。  地図のレベルは、平面的な物でなく、立体的な地形図が望ましいのですが、山川の位置が正確な絵地図のような物でも結構です.  有名な張松が劉備に渡した蜀の地図についても、詳しいとは書かれていても、どの程度か分かりません.その詳しさが分かれば、さらに面白いと思うのです.  言葉は、日本語が最善ですが英語でも何とか分かります.  ぜひ、よろしくお願いします。

みんなの回答

回答No.2

pinaisa-la さん こんばんは。 No.1の回答者の考えも、もっともと私は思いますが、歴史にロマンを求める私は違う回答をします。 測量技術の点ですが、三国志より遡ること400年位前の、紀元前3世紀の秦の始皇帝によって、中国は統一されました。 その時、始皇帝は、度量衡の統一をしました。なぜかと言うと、それまでの春秋戦国時代において、国によって、長さの単位などが違っていました。そのため馬車の車輪の幅が違うため、道に出来たわだちを馬車が通ろうとすると、わだちに車輪がはまって動けなくなる。 そのような、問題を解決するため、中国全土にわたる長さを統一したという説を本で読んだ記憶があります。 ですから、意外と三国志の時代の測量技術は、ある程度発達していたかもしれない。 また、中国で紙が出来たのは、蔡倫(?~107)であり、三国志の前で、紙がなかったわけではない、張松のような、外交官は、特に魏の曹操との外交などに行う際は、礼を重んじるため、高価な紙が使用された可能性は否定できません。 しかし、これは私の空想的な歴史ロマンで、正確な事を知りたいなら、今でも中国のどこかの山に住む干吉仙人を探し出し、聞いて見てください(笑)。

noname#212854
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なかなか、分かりやすい、良い地図のサイトはありませんね. 当時の時代背景は、一定程度理解していますが、現代の地理地形と考えあわせて、もっと分かりやすい地図の作成派が可能だと考えておりますので、誰かが作ってもおかしくありません. そこで、発した質問です. よろしくお願いします。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34531)
回答No.1

三国志の時代は、日本でいうなら卑弥呼のちょっと前の時代です(日本史の教科書にも出て来る魏志倭人伝の魏とは曹操が亡くなった後の魏のことです)。 つまり、この時代には「正確な地図」なんてのは世界のどこにもなかったのです。まだ測量の技術が発達していませんからね。もっとも、古代エジプト人はさすがにピラミッドを建設するだけあって「どうもこの大地は丸いんじゃないか」ってことに気づいていたようですけどね。 >有名な張松が劉備に渡した蜀の地図についても、詳しいとは書かれていても、どの程度か分かりません.その詳しさが分かれば、さらに面白いと思うのです. ごもっともですが、3世紀の出来事ですので記録が残っているわけではありません。そもそも、紙そのものが当時は高級品だったはずです。紙がよく使われるようになったのは、中国でも唐の時代になってからです。 極端なことをいえば、その話でさえ本当のことかどうかもわからないのです。現在の我々が知る三国志は、三国志演義というまあいってみれば小説が基本になっていて、完成したのは元から明の時代にかけてといわれています。元てのは13世紀頃の王朝だから、もうその時点で1000年経ってるわけです。さすが悠久の中国。 現実的なことをいえば、当時は「国境線」というような概念はなかったのです。もっと古い春秋戦国時代の各国勢力図なんてのが残ってはいますが、あれは現代人に理解しやすいようにあえて地図を塗っているのであって、当時は中国全土がどんな形をしていたのか知っている人は誰もいなかったので線も引きようがないのです。 質問者さんの夢を壊すような話をすれば、近年中国で後漢末期の馬具が出土したそうです。後漢末で、三国志の時代に近いのではないかといわれています。その馬具、なんと鐙がついてなかったそうです。鐙ってのは足を引っかけるところです。 鐙がなければ、馬上で踏ん張れません。馬上で踏ん張れないなら、その上で槍や矛を振り回すなんてもってのほかです。 つまり、我々が三国志の代名詞として想像している「一騎打ち」はなかったかもしれないのです。

noname#212854
質問者

お礼

回答 ありがとうございました。

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