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仏教の教えの矛盾?
仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。 一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。 しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか? 「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。 生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。 しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。 そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。 どうぞよろしくお願い致します。
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あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。 >>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。 >>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。 そうですな。そういう理解でいいと思います。 >>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか? >>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。 >>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。 >>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 >>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。 まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫) 779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。 877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」 (文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです) 901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。 902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。 (文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう) 1123 師は答えた、 「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」 1055 師が答えた、 「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が サーティ比丘は 「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」 と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して 「サーティよ、その識とはどんなものですか?」 と問いかけると 「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」 と答えたするとお釈迦様は 「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。 と御叱りになった。 というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
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- raiden787
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一口に仏教と言っても多数の宗派があり、その宗派ごとで考えは全く違います。 輪廻転生はほんとにあると考えている宗派、輪廻転生は実際はないと思ってるけど一般大衆に教えを解く時に分かりやすくするためにあえて輪廻転生があるよと言ってる宗派、輪廻転生を全く考慮していない宗派、などなどです。 質問者さんはそれを理解せずにいっしょくたに考えているから矛盾しているように感じるのではないでしょうか。
補足
では、輪廻転生はほんとにあると考えている宗派では、我はあると言っているのでしょうか、それとも我はないと言っているのでしょうか? もし、輪廻転生はほんとにあると考えている宗派で「我はない」と言うなら、私の質問は立派に成立するのではないでしょうか?
私が以前、 仏教で心の場所はいつから脳になった? http://okwave.jp/qa/q8842931.html で質問したことがあったのですが、 すっかり、脳の話になっているようですから 仏典がどうとか語義解釈がどうとかより 脳の問題のようです。 それからその質問の中で頂いた回答で 説一切有部の「無間滅の意」とかは 私は「心相続」で覚えていましたので なんですが、 非連続の連続とかいう話になるようです。 ようするに点滅しているらしい。
- Key_A
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まず、仏教と言ってますがどれ? その本から教えてください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 《われ》は 漠然とした表現では ふつうに《いま・ここなるわたし》をも言いますが 基本としては 《霊魂としてのわれ》です。 すなわち アートマン(霊我)のことです。 そもそもブラフマ二ズムが社会の通念として持たれていましたから ゴータマ氏は このシュウキョウに異をとなえました。 おそらくそのブラフマ二ズムによる身分制に反対したからだと思われます。人間は 生まれによって決まるのではなくおこない(カルマ・業)によってだと言おうとしたのでしょう。 それにつれて 世界の主宰神であるブラフマンを否定します。つまり 何ものにも依存せずひとり満ち足りている存在(実体)・すなわち神なる霊(霊なる神) これは無いのだと唱えます。 ブラフマ二ズムでは 梵我一如として ブラフマン神は ひとの内なる霊としてのアートマンと一体であるというわけですから このアートマンをも否定します。すなわち アン‐アートマン(無‐我)説です。 その自分の説く・人のあり方としての境地(ブッダ)に到れば もはや転生することはないとも言ったようです。 もっとも 輪廻転生は もし DNA が同じ人間は自分よりほかにいないとすれば あり得ません。 そんな感じでしょうか。
- check-svc
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仏教では霊ということについては述べていないと思います。 さて、本件ですが、「我れ」は実体がないとして、それがために「輪廻転生」もないといえるのでしょうか? 次元を下げて、たとえば自分とその影というモデルでは、自分は現にここにいるが影は実体がないという2次元と3次元の関係では、影が実体がないから自分もないといえるでしょうか? つまり、「(我れの)輪廻転生」というのは事象でしかなく、「(実体のない)影が動く」というのと次元違いであっても同じことだと思うのです。
- weboner
- ベストアンサー率45% (111/244)
仏教にかぎらずどんな宗教にも矛盾はあると思う ただどんなに矛盾した内容であっても、仏の教え・神の啓示は絶対であるという前提の前では矛盾は矛盾でなくなる >私の理解が不十分なのだろうとも思います。 理解が不十分なのではなく、信心が足りていない? そもそも輪廻転生など立証されていない内容を論理的に考察すること自体に矛盾が 全世界に自称クレオパトラの生まれ変わりが一体何人居るのだろうか
- na22me
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その前後が判らないから詳細は判らないが この場合の「我れ」とは自分を含めとかと同じに感じる つまり「我々」となるって事 「私」と書いてる部分は 文字通り自身・・
補足
「我れ、私」は、いずれも第一人称のつもりで書きました。 つまり、我れ=我=私 です。 それと、私の質問は、仏教の本を何冊か読んできての総括的な印象で書いていますので、具体的な文章からこのような質問をしたのではないので、別に何らかの前後関係があるわけではありません。
お礼
>大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。 なるほど。なるほど。 とても深い学識を、分かりやすく解説して下さいまして、ありがとうございました。 とても参考になりました。 私も、もっと深く理解するように、種々、努力したいと思います。 中村元氏の訳した「スッタニパータ」は持っているのですが、なかなか、その文章の真意を理解できずに、途中でストップしていますが、もう一度、熟読玩味したいと思います。 ありがとうございました。