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仏教の教えの矛盾?

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。 一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。 しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか? 「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。 生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。 しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。 そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。 どうぞよろしくお願い致します。

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回答No.18

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。 >>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。 >>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。  そうですな。そういう理解でいいと思います。 >>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか? >>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。 >>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。 >>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。  この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。  ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。  >>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。  もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。  まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫) 779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。 877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」 (文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです) 901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。 902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。 (文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう) 1123 師は答えた、 「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」 1055 師が答えた、 「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。 私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。  では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が サーティ比丘は 「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」 と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して 「サーティよ、その識とはどんなものですか?」 と問いかけると 「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」 と答えたするとお釈迦様は 「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。 と御叱りになった。 というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。  そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。  大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。  大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。  急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛

toto77japa
質問者

お礼

>大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。 なるほど。なるほど。 とても深い学識を、分かりやすく解説して下さいまして、ありがとうございました。 とても参考になりました。 私も、もっと深く理解するように、種々、努力したいと思います。 中村元氏の訳した「スッタニパータ」は持っているのですが、なかなか、その文章の真意を理解できずに、途中でストップしていますが、もう一度、熟読玩味したいと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (27)

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.17

輪廻する主体は業異熟であると聞いたことがあります。我は心的機能の内の一つであって、輪廻するものではないのかもしれません。 問題は業異熟が何か、ということですが、私の見解では、(これは推測であり確かでは無い)行為の結果、というものと考えられます。行為の結果としてカルマ、つまり業を生じて、それが別の形で熟して生まれの素因となる、というくらいの意味です。善業を重ねれば善い生まれを持ち、悪行を重ねれば悪いうまれを持ち、悪行をなさず禍福の因を積まなければ生まれの素因を持たない、こんな感じではなかろうかと推測しています。 別の形というのは、つまり別の生命という意味なのか、或いは、別の形態、つまり、なした行為の報いが、なした行為そのままに帰ってくるのでは無く、別の形をとって帰ってくる、という意味なのか。 なんにせよ私には簡単に解釈出来ないです。

toto77japa
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 一つのヒントとして、よく考えて見ます。

回答No.16

まず、舌足らずで無知を代表する文言を引用しよう。 > 私が知る仏教では「輪廻転生」はありません。あの世も地獄も極楽もありません。釈尊は死後のことは述べていません。物事には原因と結果があるだけです。 こんな事つぶやいた筆者は実に間抜けだ。 釈迦自身は、涅槃にたどりつき、その謎の世界で安住すると言ったのは事実だろう。 しかし彼の弟子たちは、すなわち後世の仏教とは、執着により、死後も生きつずけるのを望んだのだ。 そのかわいい弟子たちの、望みに答えた釈迦は、、私は涅槃に行くが、君達はその望みの通り六道輪廻をめぐり、自らを失ったはるかな後、涅槃にたどりつく。 それまでは苦に溺れ続ける。 このように慈悲心で彼らの望みに答えたのだ。 それをありがたく信じた仏教とだからこそ、生の後、死に至り、涅槃に入滅するまでは、、死を繰り返す。 死を理解できない仏教とは、理解できるまで死にっぱなしで、釈迦の心を知らぬまま生きたつもりでいる。 その姿は、生きる屍、蠢く死体、現代語でゾンビだ。 私に言わせれば、釈迦和無責任で、その借金のつけを完済するのは弥勒菩薩商法を展開する私だ。 釈迦は救ってなどいなかったのだ。 君達に滅びを実感させる死神が私だ。 待ち望んだ入滅だ。 君が滅亡戦争の最前線で戦いたいと言うならば、私がスレッドを立ち上げた時に率先してパンツ脱げ。 その命乞いを、偽物なのだと教えてやろう。

回答No.15

>「輪廻」と「輪廻転生」は違うんですか? 「輪廻」と「輪廻転生」は違うんですよ。 輪廻転生には転生が含まれますが、輪廻には転生が含まれません。 Wikipediaの記述にも色いろいろな解釈がある様で、一部だけを取り上げるのは良くないと気付きました。 しかし、前回の回答で私が引用したので、引用した場所だけをお知らせしておきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93 P.S. 貴方は、もし、仏教の教えに輪廻転生があったとして、そのようなバカげた教えを尊重しますか?

toto77japa
質問者

お礼

再度のご回答、ありがとうございました。 ご指摘のくだりは「六道」のページだったのですね。 私は、「輪廻転生」、「輪廻」などでWikipediaを見たので、ご指摘の文章を発見できずに、失礼致しました。 「六道」は、死後に赴く場所ではなく心の状態を言う、のですか、・・・。なるほど。 >P.S. 貴方は、もし、仏教の教えに輪廻転生があったとして、そのようなバカげた教えを尊重しますか? ⇒尊重する訳ではありませんが、そう言われると、本当かなあと、少し心配にはなります。 それよりも、輪廻を説きながら、輪廻の主体となるべき「我」がない、ということが矛盾しているように感じるので、そこの所を知りたかったわけです。

回答No.14

>仏教の解説書や仏教サイトなどを読んでいると、輪廻転生の考えが出てきていたように思うのですが、・・・。 ひょっとして「輪廻」と「輪廻転生」を混同されているかもしれません。 輪廻転生は仏教にはありませんが、輪廻は仏教の教えに出てきますよ。 ====以下、Wikipediaからの引用です。==== 仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。 ===== 仏教では、心の持ちようで、生きている間に 天道(てんどう、天上道、天界道とも) 人間道(にんげんどう) 修羅道(しゅらどう) 畜生道(ちくしょうどう) 餓鬼道(がきどう) 地獄道(じごくどう) という六つの世界を感じることができるとされています(六道)

toto77japa
質問者

補足

「輪廻」と「輪廻転生」は違うんですか? Wikipedia「輪廻転生」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F には、「輪廻転生(りんねてんせい、りんねてんしょう)」とは、 1.輪廻のこと。 2.転生のこと。 3.1と2をあわせた言い方。」とあり、同じと考える考え方もあるようですよ。 また、Wikipedia「輪廻」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB#.E4.BB.8F.E6.95.99.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E8.BC.AA.E5.BB.BB を見たのですが、ご指摘の文章は見つかりませんでした。 どこに貴方のご指摘の文章はあるのでしょうか?

回答No.13

まあ、いいじゃないか。 もう疑問に思っても死刑にされたりしない時代だ。 それだけを喜んで、もんもんしたまえ。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.12

私が知る仏教では「輪廻転生」はありません。あの世も地獄も極楽もありません。釈尊は死後のことは述べていません。物事には原因と結果があるだけです。

toto77japa
質問者

お礼

>私が知る仏教では「輪廻転生」はありません。あの世も地獄も極楽もありません。釈尊は死後のことは述べていません。 立て続けに、仏教には「輪廻転生」はないとの回答を戴いたので、これまでの私の勉強が間違っていたのかと思って、とりあえず、手元にある仏教研究の第一人者である中村元氏の著書「老いと死を語る」を読み返してみました。 その64頁に、「仏教では、輪廻ということを説きます。」とあり、仏教が「輪廻転生」を説いていることを認めています。 しかし、続けて「仏教がなぜ、輪廻--生まれ変わるということを説いたかというと、当時、インド一般の民衆は信仰として生まれ変わりを信じていました。ジャイナ教でも、他の宗教でもそうです。ですから、民衆を教化するためには、それを一応承認したというわけです。本当のところは、イエスとも、ノーとも言えないのです。」とあります。 また、続けて「つまり一方では、生まれ変わる、輪廻の主体があるということを言い、片方では死後に霊魂があるともないとも言えないという。両者は矛盾しているわけです。」とあり、正に私の疑問と同じことを述べておられました。 しかし、その後を、注意して読み返してみると、「ところで、それはおかしいことなのでしょうか。いやそれは構わないのです。なぜかと言いますと、仏教では人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとらわれないようになれということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなことを言ったからです。」とありました。 以上を要約すると、仏教では、輪廻転生を説いているのは事実のようですが、しかし、それは一種の方便としてのことであり、本当のところは「輪廻転生」も「死後の霊魂」も、あるかないか分からない、ということの様でした。仏教研究の第一人者が仰るのですから、間違いはないのでしょう。 どうやら、私の理解が少し正確性を欠いていたようです。 ご指摘戴き、改めて中村氏の本を読み返す機会を与えていただき、ありがとうございました。 もっと、正確に理解するよう、努めたいと思います。 ご回答、ありがとうございました。

回答No.11

>「輪廻転生」があると言っているように見えます。 それはなにかの間違えです。 輪廻転生があるという宗教はヒンズー教ですね。 仏教では輪廻転生は無いので、この点において矛盾する命題はありません。 仏教では、人生は短く、また必ず終わりがあるので、この人生を大切にしようと言っています。 御釈迦様も死後の世界に関しては語らなかったと言い伝えられますが、分からないものを語らないというのも仏教の特徴です。 この特徴がキリスト教やイスラム教、ユダヤ教などが神様だとか奇跡だとか、分からないものをよく語る宗教と異なる点です。

toto77japa
質問者

お礼

>仏教では輪廻転生は無い・・・。 えっ? 確かに、私も、ヒンズー教は輪廻転生を説いているということと、御釈迦様は死後の世界に関しては語らなかったということは、聞いていますが、仏教の解説書や仏教サイトなどを読んでいると、輪廻転生の考えが出てきていたように思うのですが、・・・。 原始仏教では輪廻転生は言われていなくても、その後の仏教の変化の中で、輪廻転生の考え方が、仏教にも取り入れられたということはありませんか? ご回答、ありがとうございました。

回答No.10

「空の表象としての色が現実の世界を移り変わっていく。  それはビッグバン以後の自然界の法則の表象としての現実ということで  最先端の科学とも矛盾しない。  輪廻転生というのはその色同士の関連に論及するもので  そこまでの論及は現代においてもフィクションの世界。  あるともないとも言えない。  一つの思索の枝分かれの果て。  ただし無意味ではない。  その可能性に目を向けることが大切な場合もある。」    私はこんな風に解釈しています。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.9

以下のとおりお答えします。 (1)「輪廻転生」は、古代(ウパニシャッド時代)からインドに伝わる思想ですね。すなわち、輪廻はインドの中心的・普遍的な思想で、従って、それは仏教にも取り込まれています。一方、「色即是空」は仏教の中心的思想ですが、必ずしもあまねくインド全体に共通する思想の中核とは言えないでしょう。 (2)そういう観点から言えば、「輪廻転生」と「色即是空」(=「実体はない」)が矛盾していてもおかしくはないかも知れませんね。しかし実は、私見では、この両者はぴったり同じとまでいかなくとも、「かなり近い」内容を深層に持っていると思います。 (3)輪廻転生とは、「衆生が三界六道に生死を繰り返しながら、永劫に苦悩を受ける。これを断絶した境地が涅槃である」というものですね。これに対し、色即是空という時の意味は何か。「実体はない」の真意は、「(一つの形に留まった)実体はない」という枕詞がつくのである。ここで、専門化の言を引用させていただくことにします。“「すべては実体がなく変化しているのだ」というと、必ず「それなら何をやってもしょせんは無駄なんだ」と短絡し、虚無感にとらわれる人がいる。これは「空の病」として厳しく戒められている。…すべては変化し、常なるものはないからこそ、今、この時、この場所で咲く、この花の生命は何ものにもかえがたく、またこの花と出会っている私の時間は、かけがえのない重い手ごたえのある時間となるのである。”(池田魯参『般若心経』) (4)上に述べたことをまとめると、「輪廻転生」=「人は、生れては死に、生れては死ぬ」であり、「色即是空」=「すべては変化し、常なるものはない」となります。この両者に両者に共通する内包、または通底する意味を抽出すれば、「生成流転・有為転変・諸行無常」…ということではないでしょうか。 以上から、「輪廻転生」と「色即是空」とは、上記「生成流転・有為転変・諸行無常」…などの概念を介して、似たような意味を表す面を認めることができるので、「輪廻転生≒色即是空」という図式が描けるのではないか、と私は考えますがいかがでしょうか。 以上、私的な見方による、ご回答まで。

toto77japa
質問者

補足

とても深いご解説、ありがとうございます。 ただ、もう少し、私なりに、十分に考えて、もし、質問させていただきたいことがあれば、お礼の欄を使って質問させていただこうと思いますので、お礼の投稿は、いま少し、お待ち下さい。

回答No.8

私の受け止め方。  仏教で云う“無い”或いは“無”と云うのは有る、無い、の事ではなく変化してしまう事を指しているんです。  この世に存在する物は変化そのものであると。  変わらずにあり続ける物など何もない事を“無”或いは実体がない、と表現したんです。  実体とは変化せずにあり続けるものの事。それはこの宇宙。  この宇宙の存在には、始まりと云う事はなく終りと云うこともない、と云ったのが彼の悟り人、釈尊です。  釈尊は心身共に修行を通して悟りの世界(宇宙的精神)に没入し、そして宇宙の本体(精神)を実感・体感してこの事を知ったんでしょう。  いわゆるビックバンとかも、この宇宙内の現象に過ぎないのです。  また霊魂とは、例えれば芝生の根のようなものではないでしょうか。  芝生は暖かになれば地上に芽を出し生い茂り、寒くなれば枯れてしまいますが、地下の根は生き続けます。  地球に生命が誕生する前に霊魂と云うものはなかったと想像しています。  生命の誕生と共に霊魂も現れ、高等動物にあってはそれが顕著となり、人間によって個性さえ現れるようになったようです。  でも霊魂は“私”ではないんです。  いわば芝生の根っこ、命の種。  人間がこの世に生まれると云う事は、命の種が芽を出すと云う事。  この育つ芽が“私”となるんです。  “私”は心身共に成長し、そして衰退し、消えて無くなりますがその種は消えずに宇宙の精神に漂うのでしょう。衆生、凡人、の種は皆こうして成仏する事無く「輪廻転生」するんです。  たぶん、霊魂の正体は“業”。  業の強弱が霊魂の存在にメリハリを付けます。    釈尊はその“業”を消したので、成仏しました。      

toto77japa
質問者

補足

とても深いご解説、ありがとうございます。 ただ、もう少し、私なりに、十分に考えて、もし、質問させていただきたいことがあれば、お礼の欄を使って質問させていただこうと思いますので、お礼の投稿は、いま少し、お待ち下さい。