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アウグスティヌスと《愉快な乞食》
- アウグスティヌスと《愉快な乞食》の物語を通して、名誉や利得、結婚などの欲望に苦労しながらも真の喜びを見出せなかったアウグスティヌスの心の葛藤が描かれています。
- アウグスティヌスは乞食を通して、自身の欲望が虚偽の喜びになり、真の喜びを見失っていたことに気付きます。
- 物質的な欲望に執着することで得られる喜びと、信仰に基づく喜びとの差に悩むアウグスティヌスの内面の葛藤が描かれています。
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bragelonneさん こんばんは。 しかし、この投稿の文章を書くために、bragelonneさんはどのくらいの時間をかけているのですか? もう、お読みかもしれませんが、アウグシティヌスの言葉には、アウグスティヌスの言葉で返答。 幸福とは? 1)欲するものを所有しない人は、いかなる人であれ至福でありえない。(至福の生 2 ; 10&14) 2)至福であることは窮乏しないこと、すなわち知者であること以外のなにものでもない。(?) 3)至福の人は、いかなる人であれ、自分自身の規範つまり「知恵」を所有する。(至福の生 4 ; 33) 4)至福の人はいかなる人であれ、「神」を所有するものである。(至福の生 4 ; 34) 5)しかし悪しきものを欲しているならば、たとえ、それを所有していても、その人は悲惨である(至福の生 2 ; 10) 総括すると、真理を求めていても、それを見出していない人は、真に幸福と言えないというアウグスティヌスのお言葉。 私は哲学する時間が至福の時です。 ところで、bragelonne哲学を完成させるときは、bragelonne哲学に、神様や仏様の概念を導入するのですか? 先のbragelonneさんの投稿に、私はカントの対象を創造するという「知的直感」の否定を言及したのは、カントは「知的直感」を否定することにより、「神」という概念をカント哲学に入り込まないようにしたそうです。 しかし「実践理性批判」を読む限りでは、カントは哲学であっても、キリスト教の道徳面を否定しているとは私は思いません。まあ現在のような表現の自由はないという歴史的背景はあったと思いますが・・・。 では、bragelonneさんの見解をお礼にて、お待ちいたしております。
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- 雪中庵(@psytex)
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生きる目的が、物質的な豊かさ(お金、物欲)か、 精神的な豊かさかの違いでしょう。 前者において、労働はお金を得るための手段であり、 後者において、労働は助け合う喜び=目的である。 それは、得るためであるか、与えるためであるかの 違いでもある。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そもそも論ですが あれかこれかという問いには だいたい あれもこれもだと答えが決まっています。コンピューターの論理ぢゃないのだから。 《愉快な乞食》であるだけでもダメなのです。 それから アウグスティヌスが何が何でも世間の思潮や風潮にどっぷり浸かっていたということにもならない。 あれもこれもの見方に立って 全体の姿をととのえ よいところを取り上げとうとぶようにして行きましょう。 そのとき 待った無しで・やむを得ず・どうしても世間のナラハシにしたがわねばならない時と場合とがあり得ます。それでも さらにどうするか? どこをどう突き抜けて行けば この混乱は解消するか? そのために 回り道としてでも ひとの存在としての・実存(生活態度)としてのベースを問い求めます。ベースとは 基礎ですが あゆみ( basis )のことです。《歩くこと》です。英語で言えば 行く( to go )の動名詞です。 机上の空論は 理念でありうる場合もありますが そのことに甘えていてはなりません。だから ダメです。 犬も歩けば棒に当たるとも言いますが どんな棒であるかは分かりません。あんがいよいきっかけになる棒であるかも分かりません。ですから思想は 街に出て歩かねばいけません。分かりましたか?
- pigunosuke
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他人の幸福から自分の幸福を見つめるのは構わないけど 自分の幸福は自分で決めて 人の幸福はその人が決めれば良い
お礼
ご回答をありがとうございました。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 まづカントからです。 ▼ (哲学概論) ~~~~~~~~~~~~ http://www.geocities.jp/studia_patristica/philosophia14.htm 第11回 第8章 カント――コペルニクス的転回 第6節 理性と信仰 このように見ると、カントは神の存在を否定しているように見える。しかし、彼はプロテスタント教会の敬虔な信者であった。カントが言いたかったことは、経験の裏づけがない事柄は、理性によって正しく認識されないということだけであって、信仰の否定ではなかった。 カントが『純粋理性批判』で述べた言葉を引用してみよう。 「私は、信仰に席を空けるために、(神に関する)知識(すなわち理性的認識)を否定しなければならなかった」(括弧は筆者) とある。カントは、信仰と理性とを厳密に区別し、それぞれの働きが及ぶ領域を明確にしたのだった。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この説明はかなりはっきりしていると思いますが。 わたしの言葉では 非思考の庭と 思考の緑野(および感性の原野)との対比だと思います。 ★ ところで、bragelonne哲学を完成させるときは、bragelonne哲学に、神様や仏様の概念を導入するのですか? ☆ これは 梵我一如なる信仰の類型に入って来ます。 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~ A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*) 無梵:空・シューニャター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8769891.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 総括すると、真理を求めていても、それを見出していない人は、真に幸福と言えないというアウグスティヌスのお言葉。 ☆ 『至福の生』ですか。渋いところを持って来ましたね。《浄福》という言葉もあるようです。 ★ しかし、この投稿の文章を書くために、bragelonneさんはどのくらいの時間をかけているのですか? ☆ これは 次の質問を挙げたことを念頭にしてあたらしい質問を考えようとしたとき 【Q:あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう】 【Q:いぢわる・ふざけ・不良・不純の効用は?】 そう言えば《愉快な乞食》の話が アウグスティヌスにあったなぁと思い出して 取り出して来たのです。書き置きしたのがあったので それを遣いました。なので ひらめいてからはそれほど時間はかかりませんでした。 この質問は 回答者が少ないのも然ることながら あまり議論を煮詰めて行く性格のものでもないようです。考えてみれば。 でもいま挙げたふたつの質問につけ添えて 取り上げておくとよいかと思います。 『至福の生』は 容易には思い出さないので 付け焼刃で応答しても何ですので 控えます。 よくお読みなんですね。 日本での著作集刊行がようやく完成しつつあるようですね。