‘悪に強きは善にも強し’という諺があります。
大きな悪事をできる者は, 改心すれば大きな善事もできるという意味です。
神話の世界では, 神様は善から堕落して悪に走るケースが多いようですが, 実際の人間社会は逆のケースが多いのではないでしょうか。
永山則夫という元死刑囚(執行済み)をご存知でしょうか。
彼は父の不在, 母の愛情の欠如, 兄による暴力など恵まれない環境の中で育ちました。
しかし, 犯行後は改心し, 様様な小説を書き残しました。
人間が生きるためには, 命をつなぐために, 他の命を奪う必要があります。
昔は, どの家も家畜を飼っており, 大切に育てた牛や鶏を自分で屠り, 食していました。
今は屠場などに任せ, 命を頂くことに関して余りにも無責任になっています。
養老孟司という解剖学者がいますが, 彼の持っている危機感というものも, 命を頂くことに対しての感謝の念の希薄さを感じてのことだと思います。
生きるということは決して奇麗ごとではない。
しかし, それでも人間は正義や誇りを持って生きなければならない。
それは, 悪であることを覚悟して生きるということにつながる。
善だけの人間がいたら, それは人間ではない。
屠場で働いている人たちは昔は‘穢れ’といわれ忌み嫌われていました。
私たちは, 現場で働いている人に対し余りにも冷遇してきたと思います。
人間が生きるためには他の生命から命を頂かなければならない。
私たちは, 農家や酪農家, 畜産農家, 屠場で働いている人に感謝したことがあるでしょうか?
むしろ差別心を持っているのではないでしょうか?
差別という感情はなくならないと思いますが, それを悪いことだと認識することから善が始まると思います。
年間3万人前後の交通死亡者がでます。
彼等は円滑に社会が運営されるための最低限の犠牲者であり, 必要悪による犠牲者ともいえます。
想像神がたとえいてもいなくても, 現実を生きる私たちに悪が何かを認識することは必要だと思います。
質問に対する答えに観念的なものが多いようですが, 現実に近い感覚で答えを求めなければ, 単なる神学論争で終わってしまう気がします。
むなしい観念的答えを繰り返してもそれが何になるのか。
自己の反省もこめてこれで失礼します。
お礼
回答ありがとうございます。 >神がこの世を創造したとの前提に立った時、この問いへの最終的な回答へいたる経過回答は三つあると思います。 論点を整理していただき、ありがとうございます。 あなたのいうように神が悪に無関心というのも一つの回答ですが、神が全能かどうかがこの問題のもう一つのポイントですよね。 ・神が全能でなく、故に悪は発生する。 これは論理的に辻褄があっており、人間にも明確で理解しやすい。ただ、神がそれほど簡単に、人間の頭だけで理解できるかという問題もあります。 ・神が全能であり、故に悪を認めている。 これは神が悪を創り出したというこですよね。人間には理解しがたいけれど、これは十分ありえることだと私は思います。神は人間の理解を超えているのであって、あなたがいうようにそれにどのような意味をもたせるか考えるのが信仰なのかもしれません。悪はこの世だけの問題ではなく、来世において罪の償いがあることも考えられます。いずれにせよ悪の問題は難しく一筋縄ではいかないようです。