- ベストアンサー
神が悪を創造したのか?
神が宇宙の全てを創造したとするなら、神が悪を創造したことにならないでしょうか?
- みんなの回答 (25)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
神がこの世を創造したとの前提に立った時、この問いへの最終的な回答へいたる経過回答は三つ有ると思います。すなわち ・神は全能ではなく、ゆえに悪は発生する。 ・神は全能であり、故に悪を認めている。 ・神は悪(とそれが被造物に及ぼす影響)に対して無関心である。 ここで、最も基本的な前提に帰っていただければと思います。 『悪が存在する場所。それは、果たして神の被造物の内側でしょうか?、それとも外側なのでしょうか?。』 ・・・ただ唯一、神以外の者が被造物の外から被造物の内側に悪を植え付けた可能性は有ります。しかし、もし神が全能であるならば、植え付けられる可能性を最初から排除する事も可能だったはずです。 ですのでもし全能の存在と呼ばれるものが存在し、それがこの宇宙万物を創出したとするのであれば、その時に同時に「人にとっての悪」もまた、その一部として創出された事だけは疑いないと思います。 しかし、神が悪を創り出した事に対してそれにどの様な意味を持たせるか?。それは他人に迷惑をかけない範囲において個人の、或いはそれぞれの団体の自由なのではないかとも思います。
その他の回答 (24)
- BadCompany
- ベストアンサー率11% (5/42)
‘悪に強きは善にも強し’という諺があります。 大きな悪事をできる者は, 改心すれば大きな善事もできるという意味です。 神話の世界では, 神様は善から堕落して悪に走るケースが多いようですが, 実際の人間社会は逆のケースが多いのではないでしょうか。 永山則夫という元死刑囚(執行済み)をご存知でしょうか。 彼は父の不在, 母の愛情の欠如, 兄による暴力など恵まれない環境の中で育ちました。 しかし, 犯行後は改心し, 様様な小説を書き残しました。 人間が生きるためには, 命をつなぐために, 他の命を奪う必要があります。 昔は, どの家も家畜を飼っており, 大切に育てた牛や鶏を自分で屠り, 食していました。 今は屠場などに任せ, 命を頂くことに関して余りにも無責任になっています。 養老孟司という解剖学者がいますが, 彼の持っている危機感というものも, 命を頂くことに対しての感謝の念の希薄さを感じてのことだと思います。 生きるということは決して奇麗ごとではない。 しかし, それでも人間は正義や誇りを持って生きなければならない。 それは, 悪であることを覚悟して生きるということにつながる。 善だけの人間がいたら, それは人間ではない。 屠場で働いている人たちは昔は‘穢れ’といわれ忌み嫌われていました。 私たちは, 現場で働いている人に対し余りにも冷遇してきたと思います。 人間が生きるためには他の生命から命を頂かなければならない。 私たちは, 農家や酪農家, 畜産農家, 屠場で働いている人に感謝したことがあるでしょうか? むしろ差別心を持っているのではないでしょうか? 差別という感情はなくならないと思いますが, それを悪いことだと認識することから善が始まると思います。 年間3万人前後の交通死亡者がでます。 彼等は円滑に社会が運営されるための最低限の犠牲者であり, 必要悪による犠牲者ともいえます。 想像神がたとえいてもいなくても, 現実を生きる私たちに悪が何かを認識することは必要だと思います。 質問に対する答えに観念的なものが多いようですが, 現実に近い感覚で答えを求めなければ, 単なる神学論争で終わってしまう気がします。 むなしい観念的答えを繰り返してもそれが何になるのか。 自己の反省もこめてこれで失礼します。
お礼
アドバイスありがとうございます。 >むなしい観念的答えを繰り返してもそれが何になるのか。 経験論者が観念論者に対したときの昔ながらの典型的な言い方ですね。経験論者にはこのような問題は無意味に思えるのでしょうか?もしかして神の存在もあまり関心がない。地上のことに関心の中心があるタイプですか。 私は観念(人の思い)と経験(現実)のいずれも人間にとって重要だと思います。ただ、あなたの言うようにあまりに観念的になりすぎると、現実とのつながりが失われて不毛な論議に陥る危険があるとは思います。
- welovekobe
- ベストアンサー率42% (38/90)
No20です。一度だけ補足させていただきます。 「動機・目的・方向性が狂ったもの」が、 「悪」の正体だということは、先回申し上げたとおりです。 「愛」もその動機・目的・方向性が狂えば悪なのです。 ところで、貴殿は、質問に神が悪を創造したのか? とお尋ねになっていらっしゃるので、 少なくとも、この世に「悪」があるということは、当然 認識していらっしゃるんですよね? だとすれば、その悪を認識している心は何かという ことが問題なんですね。 それは、間違いなく、悪に抵抗する「本心」「良心」の はずなんですね。これは間違いない。 だとすれば、自分の中に「本心」とその目的と 相反する目的を指向する「邪心」との二つの心が 大別して存在しているということもわかるわけです。 まったく相反する目的を指向する二つの心が内包 されているので、人間の心は「矛盾」していると よく言われるわけです。 ところで、「矛盾」とは、何かと言えば、 本来の状態からはずれている状態だと言えましょう。 だとすれば、このような人間の矛盾性は本来最初から そうだったのではなくて、後天的に人間の堕落の結果 そうなってしまったと考えるのが妥当だと思えます。 もし、最初から、生来、善なる欲望と悪なる欲望の 両方を兼ね備えていたのなら、どうしてそれを 矛盾と思えますか?どうして邪心を悪だと認識 できますか?不可能なのですね。 ですから、人間は、間違いなく後天的に堕落して、 自分でも願わざる悪を内包するようになってしまって いるのです。 これが原罪なのです。つまり、私がいいたいのは、 血統的にそうなってしまっているというのです。 本心ではいけないと分かっていながら、自分の「情」は 間違った方向へ流れていくのです。それが血筋です。 原罪の結果なのです。 そこで、本論ですが、愛の力と原理の力とどちらが 強いかということが実は神様にとっても大問題なのです。 神様は、確かに全知全能ですが、その全知全能の目的が 何の為なのか??というのです。 それは、「愛」のためなのです。 神様が究極的にご自身の全知全能を願ったのなら、 どうして、人間を創造する必要がありますか? 自分で自分を永遠に賛美していればよいじゃないですか? しかし、神様の願いは、先回書いたように、愛の完成 なのです。神様の本質が愛なので、そうなるのです。 愛は一人では完成しないのです。愛する対象が 必要でした。そして、愛の力が、知識よりも権力よりも お金よりも何よりも強い絶対的なものにしたかったのです。 ですから、愛の力は、原理の力より強いのです。 ゆえに、人間が、成長期間の途上は、神様の愛と心情を 完全に理解できないので、愛の力で人間を主管することが まだお出来になれないのです。 ですから、アダムとエバは、成長途上の間は、原理の力で 自律的に成長し、戒めを守り、完成しなければならない のです。完成すれば、神様の愛と心情と完全に一体化 したので、そのような二人が神様の真の愛を中心として 正しく出会って結婚すれば、人類始祖アダムとエバは 真の家庭を造成し、そこから、真の愛の命と血統を 繁殖し、真の人類一大家族世界=地上天国を 作られたことでしょう。 ですから、そうなれば、実体の真の父母がいる家庭愛の 中でその血統を受け継いだ真の子女が、正しく育つこと はそんなに難しいことでは決してなかったのです。 ですから、実体の父母がいなかった最初の人間! すなわち、アダムとエバの時だけが問題だったのです。 しかし、残念ながら、アダムとエバの本来養育係りで あるはずの善なる天使長が、愛の減少感を感じて、 エバを誘惑し、霊的な性関係を結んでしまったのです。 そして、堕落したエバがまだ堕落していなかったアダム を誘惑して、肉的堕落が生じたのです。 人類最初の男女が正しく出会えなかったことが、 今日のすべての根本問題なのです!!! 家庭が問題なのです。 資本主義が問題ではなく、民主主義が問題ではなく、 「家庭」が問題なのです!! 神様は、原理の力よりも、愛の力を強くされているので、 偽りの愛でも原理の力よりは強いのです。 ですから、堕落する可能性があったので、 それで、「戒め」を神様はお与えになられたのです。 いちじくとは無花果と書くのですね。 花咲かずに実がなる・・・ 堕落した二人は、その無花果の葉で下部を隠したです。 下部で罪を犯したからです。 まだ、未完成期にいた二人が自己中心的な未熟な愛で 関係をもってしまったので、それ以来人類は、皆、 偽りの愛の実が結実した血統圏から生まれてこざるを 得ない運命となったのです。 いくら神様が全知全能でも、愛をコントロールすること は出来ないのです。これが一番難しい問題なのです。 人間始祖の愛の堕落の結果、神様は 全治全能であられながらも無能の神となってしまわれ たのです。 この神様の悲しみ、恨みを晴らすために来られる方が 救世主、すなわち真の愛と命と血統から生まれて こられる「再臨のメシア」(=第3アダム)なのです。 それでは、今日はこの辺で・・・
お礼
再度の回答ありがとうごっざいます。 >いくら神が全知全能でも、愛をコントロールすることはできないのです。これが一番難しい問題なのです。 愛ですか?これはファイナルワードですね。これを言えば話はなぜか終わります。welovekobeさんにとって神の属性として全知全能は大切なのですね。これは中世の神学者が始めに言い出した神の属性のですよね。たぶん聖書には全知全能とは書いてないと思います・・・キリスト教の信仰にとっても、この神の属性は大切なのですかね。
(# 17.回答に…礼)【…不可知論ですか?確かにほんとうの答えは誰にも解らないでしょうね。永遠の謎ですかね。】 こんばんわ、#17です。言葉たらずで御免なさい。 {「人間の無知&誤解ゆえに起きている」「人間の誤解ゆえ 悪に見えるのかもしれない」} 『わたし達が“神”になれたとしたら、解る。』と記した言葉を 換言すれば。 ******* ******* ******* {流布している記録が正しいとして} ナザレ村のジーザスは、ジーザス自身が神と直接(間に何も挟まず)ダイレクトに“交信”(←比喩)出来た!。「いつも 何度でも…」 ↑の文字【(間に何も挟まず)】の意味は文字どおりの意味で「人間と“神”の間にある邪魔者、教典&聖職者を省いたら…約2000年まえの ジーザスのように、わたし達も “神”になれる“可能性はある!”」 そうなれば 解る。との意味だったのです。 ↑の【教典&聖職者】で誤解が生じやすいので…説明をしますね、存在するすべての【教典】を 読まれる方が、“これ”に 記されていることが、文字どおりの意味ではなくて 語られているフレーズが【隠喩】&【直喩】だと理解できる方の場合は 決して教典が“邪魔者”にはならない!と理解しております。 教典を文字どおりの意味に誤解する人は、教典が障害物になる。 解り易く・例えば、“目を開けなさい”とどこかの教典に記されていたとして、それを読んでいるひとが、そのとき(目をあけてこの文を読んでいるので)今 開けている瞼では「開けようが足りない」と誤解して“どんぐり目”にして つづきを読む…なんて愚かなこと しませんよね? 神と取り引きが可能だと宣う【聖職者】は悪です、そのとおりです、わたし達と“神”の間にある“邪魔者”です。 誤解という悪を 広めている“邪魔者”。 本当は“解ってない”のに…分かったと思い込み、わかったような注釈するからわたし達が迷っているのです。 ******* ******* ******* ジーザスも 仏陀も モハメッドも 老師も グルジェフも ラマナ・マハリシも クリシュナムルティも 和尚も 一休さんも 太母さんも、他人の仲介なしで “ダイレクト”に“神”と“繋がり”(←比喩)『この目にみえない“究極的真理・神”を目にみえる文字では現せない“無理”だ』と理解したうえで、“準備の整ったひと向け”に“語れぬことを語って示唆して”いるのでしょう。 ******* ******* ******* 【…不可知論ですか?確かにほんとうの答えは誰にも解らないでしょうね。永遠の謎ですかね。】 …で、誰でも『わたし達が、生まれてから(後で)憶えた言葉、その道具(言葉)よりも“以前にすでに存在していた存在”& その道具が使用不可能になった死後も“永遠に存在する存在”を直接自分自身で探す旅に入れば、“存在の謎”を解く鍵が観つかるときが在るかも…。』 違う言葉で、たとえ悪人でも『自分の内側に在る“永遠なる存在”を探求すると…解る(救われる)。』となります。 ******* ******* ******* 【不可知論】 〔agnosticism〕所与の感覚的経験以上の実在(究極的真理・神など)を人間は知ることができないとする立場。 そうした実在を有りとした上での主張と、その有無すら知れぬとする主張とがある。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >『わたし達が“神”になれたとしたら、解る。』 あなたのいう意味がわかりました。それはキリスト教でいうと神秘体験のようなものですか?仏教でいうと禅による悟りのようなもでしょうか?いずれにせよ、そういう宗教上の真理は言葉ではあらわせないといいますよね。ただ、この場合の問題は普通の人間はそういう体験がなく、その宗教上の真理の真偽が確かめられないことです。 >語られるフレーズが【隠喩】&【直喩】と理解できる方の場合は決して教典が“邪魔者”にならない。 これにはまったく同感です。キリスト教でいえば、イエスは聖書の言葉に決して捉われなかった。そしてその多くの教えを譬え話でしています。ファンダメダリストは聖書を文字どうり信じていますが、私は聖書を真理への道標となる暗号だと思っています。。その暗号の謎解きは決して頭ではできないでしょう。聖書と自分の生き方を照合・対決していくことですこしだけ解けるものだと考えています。
- hiepyon
- ベストアンサー率14% (9/61)
神という名の光ができればそこには闇というなの悪が生まれる。 神が悪を敢えて作ったのではなく、神の存在によってまわりのすべての存在が照らし出された。そしてそれによって存在の裏に闇を作ることとなったという意味で、二次的、間接的に作ったということなんじゃないかと思います。 光は強くなればなるほどまた、闇も強くなる、と。
お礼
回答ありがとうございます。 >神という名の光ができる→光のできる前は闇ではないですか? 神=光は始めからあり、闇も始めからあるのではないですか?始まりの問題はよく考えると難しいです。神の世界には時間はないかもしれない。
- smallpaul
- ベストアンサー率33% (3/9)
聖書のエペソ人への手紙第3章1節は言います、 「それは今、天上にある支配たちや権威たちに、神の多種多様な知恵を、召会(教会)を通して知らせるためであり」。 まず、私たちは知恵の知識の違いを見る必要があります。コロサイ人への手紙第2章3節で、この両者が共に述べられています。 知恵は知識よりも高く、また深いのです。知恵はあることの開始に、例えば、新しい発明の構成に見られ、知識は実行上の適用に見られます。 もしあなたが知識を持つだけで知恵に欠けているなら、何を開始することも、何を発明することもできないでしょう。 神は唯一の開始者です。彼は多くの事を、彼の知識によってではなく、彼の知恵によって開始されました。彼は入って来て彼が開始したことを適用する時、彼の知識を展覧されます。 10節は、神の多種多様な知恵が、天上にある支配者たちや権威たちに、召会を通して知らせられると言っています。 これらの支配者たちや権威たちは、良い天使と悪い天使の天使的支配たちと権威たちです。この節では、特に悪い者たち、サタンと彼の天使たちのことを言っています。 新約聖書によれば、サタンは彼の王国、天使たち、支配の領域を持っています。サタンの支配の領域は、空中と地上にあります。 旧約聖書のダニエル書は、地上のすべての諸国民が、空中のサタンの支配の下にあることを示しています。 ですから、神は召会(教会)を通して、主に人類にではなく、神の敵に従うものであるそれらの反逆の天使たちに、彼の知恵を知らせられるのです。 サタンの反逆でさえ、神の知恵の領域の中にあります。もしサタンの反逆がなかったなら、神の知恵は十分に知らされることはできなかったでしょう。 あなたが知恵に満ちた人であるなら、問題や困難を持てば持つほど、ますます知恵を発揮するでしょう。 しかし、もしあなたに関するすべてのことが平和で問題がないなら、あなたの知恵を表す機会がないでしょう。 実は、すべてが上手くいっている時、知恵の必要はほとんどありません。あなたは知恵を発揮するのに問題を必要とします。 サタンと善悪知識の木は、神の知恵が多種多様に、すなわち、様々な方法や面で、多くの角度から現される多くの機会を造り出しました。 「多種多様」と訳されたギリシャ語の言葉は、神の知恵には多くの側、面、方向があることを示しています。問題を通してはじめて、神の知恵のすべての面が現されることができます。 ある人はそのような言葉を聞く時、誘惑されて、「神のためにもっと多くの問題を造り出そう。善が現れるために、悪を行なおうではないか」と言うかもしれません。 決してこういってはなりません。もし問題を造り出そうとしたり、邪悪を行なおうとしたりしても、そうできないことがわかるでしょう。 例えば、立ち上がることは容易でも、ことさら倒れることは難しいのです。私たちは自分が無であることを認識する必要があります。 私たち自身では、負けるのも勝つのも上手くできないのです。もし負けようと努めるなら、負けるかもしれません。しかし、負けたくても、負かされることができないことがわかるでしょう。 旧約聖書にでてくるダビデの例を考えてみてください。 バテシバに対して、ダビデは大きな失敗(殺人と姦淫)をしました。神がこの事柄でダビデを堕落させられなかったなら、彼は堕落することができなかったでしょう。 ダビデの堕落は、神に知恵を現す機会を与えました。 ダビデの堕落と悔い改めが神の赦しと結び合わされて、ダビデは神のための宮を建造する者である男の子、ソロモンを得ました。 その後ダビデは再び堕落しました。この時は、イスラエルの軍隊を数えることにおいてでした。 しかし、この第2の堕落を通して、ダビデは神のための宮が立てられる敷地を獲得したのです。 宮の建造のためには、建造者と敷地との両方が必要でした。 聖書を理解をもって読むなら、この堕落はサタンからでした。 ダビデが誘惑に屈した時、サタンは喜び、心が神に対して絶対的であった卓越した王を駄目にしたと確信しました。 神の敵が行なうことは何であれ、神に知恵を示す機会を与えます。 10節で使徒パウロは、神の多種多様な知恵が、天上にある支配者たちや権威たちに、召会と通して知らされていると言明しています。 召会はキリストのからだ、共同の相続人、共にあずかる者です。召会はかつて荒廃し、腐敗し、駄目にされていた者たちからなっています。 わたしたちは救われる前、まむし、毒蛇でした。さらに、私たちは違反と罪の中に死んでいました。 さらにまた、私たちは撒き散らされ、分裂して、一になることが全くできませんでした。 こうして、召会のすべての肢体は絶望状態にありました。 それにもかかわらず、神は知恵の中で、わたしたちを召会にすることができます。今や私たちは購われ、救われ、清められ、自由にされ、解放され、再生されただけでなく、結合されています。 私たちは神と一であり、互いに一です。ですから私たちは召会です。 召会は神の最大の誇りです。 時々神はこう言われるかもしれません、 「見よ、サタン、お前が荒廃させた人たちをわたしは取って、召会にした。お前にそのようなことを行なう知恵があるのか? お前にこの知恵はないが、わたしにはある」。 一度、召会へ着てみませんか? 荒廃させられ、分裂していた人たちが、今や一となっています。 何が召会なのかと定義することも必要ですが、それを入れると長くなるので、この辺で。 参考文書 新約ライフスタディ エペソ人への手紙(二)日本福音書房
- 参考URL:
- http://www.jgbr.com/
お礼
回答ありがとうございます。 >神は唯一の開始者です。 サタンは神が創ったのですか? 悪は神の知恵が現れるために必要なのですか? 要するに全ては神の支配にあり、終わりには全てまるく収まる。
- welovekobe
- ベストアンサー率42% (38/90)
まず、本当は悪とは何かという定義をしないと はじまらないのですが、少なくとも、人間が単なる偶然に 発生したのなら、ここで貴殿が語られている「悪」という概念 は、最初からあり得ないということだけは間違いない のですね。 つまり、「悪」とは何かといえば、それは、偶然の産物で はなくて、「神様の人間創造の目的に反する行為または その結果」なのです。それ以外にありません。 人間自身が「善悪」の対象なのに、その人間自身に その善悪の尺度・基準・ものさしがあるはずがないの ですね。人間の善悪は人間自身が決められることでは ないのですね。本当は・・・ 要するに、神様が人間に願うことが善であり、 神様が人間に願わざることが悪なのです。 人間の創造目的=人間の存在価値=善なのです。 これ以外に、本当の善はありません。 (創造主なる神様を信じるのならですよ・・・) では、聖書には何とかかれているでしょうか? 創世記には、善悪知るの木の実を取って食べるな! という戒めを神様は人間始祖に与えられた。と記されています。 もし、人間が堕落する可能性のまったくない完全な 生き物なら、どうしてそのように戒めをお与えになる はずがありましょうか? すなわち、人間は、完成する前に、実は成長段階が あるのです。生まれてすぐいきなり赤ん坊の時から 神様の心情を理解し、神様の願いを知り、神様の愛を 相続できるわけではなかったのです。 人間には、成長期間があるのです。 そして、さらに、神様は、人間に、 「神様も干渉することのできない責任」を分担させた のです。アダムとエバにです。それはなぜでしょうか? 人間にのみ、「自由意志」をお与えになられたからです。 故に、「自由」には、「責任」が伴うのです。 もし、人間に自由意思がなければ、ロボットみたいな もんですから、神様の願いである「愛の完成」が なされないのです。神様と人間が真の愛を中心として 一体化すること、すなわち、アダムとエバが成長期間を 経て、責任分担をまっとうして、完成すれば、 完全に神様の愛と心情と一体化して、神様の愛と血統を 相続するはずでした。が、しかし、人間の責任分担が 果たされずに、堕落して、偽りの自己中心的な愛の血統 が綿々と原罪として受け継がれてきたのです。 ですから、悪とは、神様の願いに反する行為、結果なの で、「方向性」が問題なのです!! 愛も、自己中心に用いれば、悪であり、利他中心に用いれ ば、善なのです。 ナイフもケーキを切る為に用いれば、善であり、 人殺しに用いれば悪なのです。要は、目的・方向性 が狂ったものが「悪」なのです。 「本来の目的」(=神様の人間創造の目的)がなければ、 生来、善も悪も何もないのです!! アダムとエバは、性殖器を愛の人格をまだ完成していない 時期、すなわち、未完成期において、自分のために 誤用したので、堕落したのです。 「取って食べるな」というのは、実は比喩であって、 本当は、エバの愛の実だったのです。 完成すれば、「とって食べて」良かったのです・・・ 男女の関係をもって良かったのです・・・! 未熟なときに、愛の関係を、それも自己中心的な 動機でもってしまったので、それ以後、人類は、 すべて、偽りの愛の血統圏から生まれる運命となったのです。 これが原罪なのです。 愛する動機が狂ったのです!! 「動機」にサタンが入ったのです!! 愛するのも自分のため、好きになるのも自分のため・・・ 「自分」が好きだから、愛するのです。 これが悲しいかな、我々堕落人間の偽らざる姿なのです。 血統なのです。これがあたりまえの世界になってしまって いるのです。 ですから、世の終わりには、性の問題で世界が 滅茶苦茶になるのです。青少年の性の淪落を誰も 止めることが出来ません。 ですから、メシアとは、まず、人類を救う前に、 愛を救うために来られるのです。 真の愛と命と血統から生まれてこられる方、この方こそ、 まさしくメシアであり、救世主なのであります。 それでは、今日はこの辺で・・・
お礼
回答ありがとうございます。 悪の定義は難しいと思います。もちろん唯一神の信仰に立てば、悪は神の意志に反することと明確になります。ユダヤ教の律法がそうでしょう。それに反して多神教的文化圏である日本では悪の定義は曖昧です。それで人を殺すのは何故悪いか討論するというような馬鹿な事が起こるのです。善悪の拠り所を理屈で説明しようとしてうまくいかないのは当り前のことなのに・・・ しかし、唯一神の泣き所はそれなら何故善から悪が生まれたかという一元論の問題にあります。これはかなりの難問で昔から論じられたようですね。あなたの答えは神が人間に[自由意志]を与えたからというこですか?それで神のコントロールから自由である人間は神の意に反して悪を成すようになった。神(親)は人間(子供)が成長期間にぐれて不良になっても責任はないということですか?いずれにせよ、そうなると神は人間の行動を予期できないわけですよね。神は人間の自由意志に干渉できないわけですから・・・つまり神は全知全能ではない?人間がどう行動するかは神には前もって分からない。神が人間というサイコロを振ると善の目でななく悪の目が出たというこですかね。
- horahuki-dondon
- ベストアンサー率11% (81/729)
パンドラの箱を開けたのは、パンドラと言う女性です。 そのなかには「希望」も入っていました。 そしてこの質問が、 質問者にどんな希望をもたらすのか、 どんな決着が付くのか予想も出来ません。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >バンドラの箱を開けたのは、バンドラという女性です。 パンドラというのは女性の名前ですか。初めて知りました。以外でした。<パンドラの箱>とは浦島太郎の<玉手箱>みたいな名前だと思ってました。 >その中には「希望」も入ってました。 悪だけでなく希望も入っていたとは、救われるけれど何か神も意地がわるいですね。
11です。 あれは教父哲学で、アウグスティヌスか何かが言ったそうで、結構起源は古いのだそうです。苦し紛れというのに関しては、そうかもしれませんね。細かい論証は専門書を読んで判断しないと何とも言えませんが。私も、そうなんかなーとは思いつつも、なるほどとまでは思ってませんし・・。それも信仰の内なんでしょう。 ところで、ここでいう「神」ってやっぱりキリスト教のそれのことなんですよね? ヒンズー教哲学だとまた違うようですよ。ちょっと私も記憶が曖昧なので、調べていただきたいのですが、宇宙はシヴァの遊び場ですので、人間がどう思うかはシヴァの埒外のようです。もしかするとシヴァにとって善はあるかもしれませんが、人からみて善か悪かは、関係ないわけです。でも、忘れてたので、ちょっと違ってたかもしれません。過去ログとかネットで検索してみてください。大体こんな感じのことが出てくるはずです。 聖書の話をしたいということなら、関係ないですね。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >あれは教父哲学で、アウグスティヌスか何かが言ったそうで・・・ 教父哲学といえば中世ですよね。そんなに古いものとは思いませんでした。 >ここでいう[神]ってやっぱりキリスト教のそれのことなんですよね。 ここでいう[神]は創造神であり、私の関心の中心はキリスト教にあります。ただ、ここでキリスト教の神に限定しなかったのは信仰的にどうかは抜きにして。論理的にどうかを話したかったためです。とかく信仰の話は自己主張だけの不毛な論争になりやすいので、それを避けたいという意味がありました。また、単に[神]と言った時に創造神の話から、現代の日本人がキリスト教の神を連想するかという興味もありました。私の考えでは日本人の神意識にキリスト教の神の概念がいつのまにか入りこんでるように思いますので・・・
【神が宇宙の全てを創造したとするなら、神が悪を創造したことにならないでしょうか?】 おはようございます、 「人間の無知&誤解ゆえに起きている」 「人間の誤解ゆえ 悪に見えるのかもしれない」 わたし達が“神”になれたとしたら、解る。
お礼
回答ありがとうございます。 >わたし達が神になれたとしたら、解る。 不可知論ですか?確かにほんとうの答えは誰にも解らないでしょうね。永遠の謎ですかね。
人間始祖を創りました
お礼
回答ありがとうございます。 >人間始祖を創りました。 神が人間を創ったのであって、ダービンの進化論は間違いとの意見ですか?
お礼
回答ありがとうございます。 >神がこの世を創造したとの前提に立った時、この問いへの最終的な回答へいたる経過回答は三つあると思います。 論点を整理していただき、ありがとうございます。 あなたのいうように神が悪に無関心というのも一つの回答ですが、神が全能かどうかがこの問題のもう一つのポイントですよね。 ・神が全能でなく、故に悪は発生する。 これは論理的に辻褄があっており、人間にも明確で理解しやすい。ただ、神がそれほど簡単に、人間の頭だけで理解できるかという問題もあります。 ・神が全能であり、故に悪を認めている。 これは神が悪を創り出したというこですよね。人間には理解しがたいけれど、これは十分ありえることだと私は思います。神は人間の理解を超えているのであって、あなたがいうようにそれにどのような意味をもたせるか考えるのが信仰なのかもしれません。悪はこの世だけの問題ではなく、来世において罪の償いがあることも考えられます。いずれにせよ悪の問題は難しく一筋縄ではいかないようです。