藤堂高虎は、秀長に仕えて頭角を現したのでしたよね。秀吉にも仕えていますし、高虎にとって、豊臣家は恩義のある主家でした。
家康としては、そういう新参者に「誰某を味方にせよ」などと命令し、そのことが石田方に漏れたら、方針がバレてしまう危険がありますから言えません。のど元まで出かかっていても言えません。
他方、高虎も主筋を離れて、新しい主を頂くについては、まずは誠意や能力を認めてもらう必要があります。
となれば、新しい主が言いたくても言えないことを先回りして考え、実践する。ここんところが大切です。
私が考えた話ではないのでどこかで読まれたかもしれませんが、今時の若者は、「電話を見ていろと言われたから見ていたら、『なんで電話に出ないんだ』と叱られた。理不尽だ!」とか言うそうです。
それでは通らない時代。
徹底的に家康の考えを先回りして実行し続けたからこそ、伊賀の上野城(一説によると負けた時家康が逃げ込むための城)築城などを任すまでの信頼を勝ち得たものと思います。
いかに築城名人でも、築城名人であればこそ、信頼できない名人に重要な城の築城は任せられませんからね。知らないうちに攻め口・弱点などを作っておかれると大変なことになりますから。
指示されてから動く程度の人物なら、あそこまでは信頼されなかったろうと思いますので、お尋ねの件もとりあえず独断専行して、ハッキリきまってから家康に披露した、ということなのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございました。 藤堂高虎自身が考えたことなんですね。