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江戸時代後半、庶民は年号を知っていたか。
先日、類似の質問がありましたが、「農工商」に属する庶民の多くは、年号を知っていたのではないでしょうか。 以前、江戸時代の歌舞伎の地方公演を調べたとき、木版刷りの「芝居番付」に文政2年とありました。 また、通貨でも寛永通宝ほか元号の入っているものもあります。 そこで質問ですが、「黄表紙」等の印刷物には発行年月を入れるのがふつうですか。 また、借用証書、離縁状、寺に出す出生届けなどには必ず年月を入れるものですか。 その他、庶民が元号・年月を意識する例を教えてください。 よろしくお願いします。
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少なくとも江戸末期頃の人は知っていました。(たぶん初期の人も知っていたと思われます) 江戸時代は証文社会でした。借金、土地売買、その他ちょっとした約束でも証文にします。それらには必ず「天保三辰年八月」のように元号から日付を書きます(なぜか月までで日の数字が書いてないものが多い)。拙宅にも文政頃からの文書が何枚か残っていますが全部に元号からの日付があります。農民同士が交わした証文は庄屋や僧侶が代筆した可能性も否定できないかもしれません。しかし一般にどこの村にも寺小屋があって日常生活に必要な書面の書き方は教えていたので農民が年号を知らなかったとは考えられません。 一般農民も「万覚(よろずおぼえ~メモ帳)」や祝儀・不祝儀に関する帳面を作っています。その表紙にはタイトルの他に「文政五午年」のように年号を書くのが普通です。 帳面の例については以下を。(一般農民が作ったものではありませんが・・・) http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/m-exhbt/20140708AM/20140708.html 一般に墓には命日が書いてありますね。命日は元号から書いてあります。だいたい江戸中期以降は一般農民の墓でもそうなっています。 本など出版物では末尾に奥付があります。これは1722年(享保7年)11月に大岡忠相が命じたものですからこれ以降の出版物にはまず間違いなく出版年の記載があります。 奥付については http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E4%BB%98 をどうぞ。 地方への改元の通知ですが、当地(岡山県内)には1ヵ月弱で届いています。ひとつの例を書くと、元治2年(1865年)4月7日に慶応に改元されますが5月3日の庄屋日記にはその旨の記載があります。 江戸から地方の藩役所に届いた知らせは大庄屋から村々を回覧されます。その回覧ルートは決まっていました。各村の庄屋は自村用に書き写したのち見たことの証明として回状の末尾に署名・捺印して次の村へ回します。 村人へは組頭(五人組の頭)を経由するのが一般的だったようです。組頭は定期的に庄屋宅などで会合しており通達には庄屋がしたように署名・捺印して応じました。このように幕府からの通達は末端まで確実に伝わるシステムがありました。(現代より確実じゃないの?) こんな状況でしたから少なくとも幕末には誰もが年号を知っていたはずです。
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- staratras
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結論から言えば、江戸時代後半には庶民の多く(というよりほとんど)は年号を知っていたと考えることができます。 もっとも端的に年号を知るものである暦についていえば、国立国会図書館が「日本の暦」に関する展示会を開催した際の目録の図版を見ても、当然のことながら江戸時代の暦のほとんどに「何年の暦であるか」ということを示すために年号が入っています。 当時は文字が読めない人でも理解できるように、暦を絵で表した「絵暦」という暦がありましたが、これにも年号が絵で表現されています。 例えば「盛岡絵暦」の文政9年版の最上段には「手紙(文)、人の背中に井の字、犬、3個の双六(目の合計9)」の絵が描かれています。これは「文政(文+背(せ)+井(い))9年、戌年」を表わしています。また天保4年版の最上段には「動物の貂(テン)+稲穂+蛇+双六(4の目)」の絵が描かれていて、これで「天保4年、巳年」を表わしています。 江戸時代の人にとって、暦が大事だったのは現行の西暦(太陽暦)と違って、旧暦(太陰太陽暦)では1年の月の数(うるう月の有無によって12か13)や、月の大小(30日か29日か)が毎年違っていたからです。特に月の大小を知っておくことは実生活上重要なことで、その目的だけの暦(大小暦)も作られました。このように暦に親しんでいた江戸時代では庶民も年号を知っていたと考えられます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >江戸時代後半には庶民の多く(というよりほとんど)は年号を知っていたと考えることができます。 そうですよね。 納得しました。 「絵暦」がどの程度普及していたのか、新たな疑問が湧いてきました。 「般若心経」も絵文字?で書いてあるものもあります。 江戸時代の識字率が高いといっても、それは「かな」だけ読める人を含めるからだと、聞いたことを思い出しました。
庶民の生活に暦は欠かせませんでした。 現在と同様に年末には翌年の暦が出版されました。 当然年号は入っていました。 下記のサイトに暦の写真があります。 国立国会図書館 「日本の暦」―暦の歴史 2 www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_index_02.html 説明にも以下のように記載されています ・・・農作業や商売にも季節や行事を知るために暦は必要です。とくに太陰太陽暦では、毎年大の月、小の月の並び方が変わるので、代金の取り立てや支払いを月末にする商店にとってはどうしてもかかせないものでした。・・・ 江戸時代の社会の仕組みをご理解願います。 藩幕体制というのは現代風に言えば軍事政権です。 町村には室町時代から続く自治組織がありました。 戦乱や政争で頻繁に領主が変わった室町時代から戦国時代の間には、庶民が自らの手で自治組織を発達させて自分達の治安を維持し、日常の生産活動、経済活動を維持運営していました。 江戸幕府はこの町村の自治組織を統治システムにそのまま組み込み制度化しました。 諸大名も同様の制度化を行いました。 幕府も大名も軍事政権としての軍としての組織を自らつくりましたが、民の統治には民が作った組織を流用していました。 諸外国や現代のように上から作られた組織ではなく、下で出来上がった組織を上が認めて取り入れて出来上がっていました。 幕府や大名から領民へ通達を出して周知させるためにはこの自治組織の仕組みは不可欠でした。 幕府や大名は、通達の文書をこの自治組織の長に手渡すことで目的を達成しました。 江戸や大阪のような都市であれば、少なくても住人が住む長屋を管理する大家さんにまで文書が届けられました。 文書のやり取りの際にも、何時どのような内容の通達を手渡したか、ということが記録されました。 聞いた聞かないなどという無用なトラブルを未然に防いでいました。 大家さんは文書の内容を住人に周知徹底させる義務がありました。 同時に人の往来の多い交差点などの主要な場所には高札と呼ばれるいわば掲示板が設けられていました。 現在のように知りたければ市町村役場に出向いて読め!などという横着はしていませんでした。 何時どんな通達が出されたのかを明確にする必要があります。 当然年号が記載されていました。 現在でも「慶安の御触書」などと年号を付けて呼ばれています。 自治組織を維持するためには文書化が必要不可欠です。 農地や商店の権益を明文化して置く必要があります。 農村にはこの書類を保管する倉が設けられていました。郷倉と呼ばれました。 郷倉に関しては「半紙一行之書付にても千金に代え難く」と記載された文書も残っています。 権利の移動や売却が行われれば、その日付を明確に記録して置く必要があります。 当然日付は現在と同様に、年号〇年〇月〇日と明確に記録する必要があります。 年号が頻繁に変わることから年号と干支で確認できるように二重に記載されました。 元禄十一年丁丑、享保十八年初癸丑などと記載しました。 天保癸巳春三月など年数を略す記載形式もありました。 天保という年号が六十年以上続かない限り干支を見れば正確な年がわかります。 大口の取引は原則として手形が用いられました。 何時だれが発行したもので何時受け取ったのかを明確にしておく必要があります。 更にこれをキチンと帳簿に記載して記録として残す必要があります。 これ等の行為を滞りなく行うためには従業員に読み、書き、算盤の教育を徹底して行いました。 農村部でも同様です。 年貢の負担者、数量、納入年月日などを明確に記録しておく必要があります。 年貢は村落単位でしたから村落住人の共同責任です。 誰がいつ責任を果たしたかを明確にしておく必要があります 日本の識字率が高かったのは単なる教養教育ではなく、日常生活には不可欠だったことによります。 書籍に関しては版権の問題があり、多くの場合には何らかの方法で初版の発行期日が分かるようにはしてありました。 ただコピーというものが無い時代で筆写していましたので、個々の出版物に記載されていないケースも多数あります。 木版刷りのものは年月が不明でも版元が分かるようになっていますので、版元の記録で確認できます。 以上のように庶民が年号を意識するのは現代と全くかわりません。 注)自治組織の長は名主(庄屋)と呼ばれ、協議や実務を行う機関として町役人、村役人などと呼ばれる人が定められていました。 自然発生的に生まれて発達した組織ですので、地方々々都市々々で役人の名称や所掌範囲が異なります。 運営方法は同じでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 暦が発行されていたので、年号については広く知られていたということ、よく分かりました。 >幕府や大名は、通達の文書をこの自治組織の長に手渡すことで目的を達成しました。 >江戸や大阪のような都市であれば、少なくても住人が住む長屋を管理する大家さんにまで文書が届けられました。 「自治組織の長」も「大家」も庶民といっても庶民の中では選ばれた人たちです。 江戸の町の大家さんは、2万人ほどの定員制でしたね。 大家さんが文書の内容を住人にきちんと話したので住人は、「年号」を聞いたことでしょう。 >書籍に関しては版権の問題があり、多くの場合には何らかの方法で初版の発行期日が分かるようにはしてありました。 なるほど、参考になります。
- eroero4649
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明和九年が「迷惑年」になるということで「安永」と改元されたのですが、そのときこんな落首があったそうです。 年号は 安く永しといわれども 諸式値上(なんでもねあがり) 今にめいわく
お礼
ご回答ありがとうございます。 面白い!! これだから、質問を止められません。
- trytobe
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先日のものもあるので、とりあえず参照するとしまして、 江戸時代の人は元号を言えたか#8768382 【OKWave】 http://okwave.jp/qa/q8768382.html 印刷物に発行年月を入れる概念は、手紙と違って無かったと思います。いわゆる出版社と印税という概念ができて、初めて印刷物に奥付という概念ができたと思いますし、新聞紙は必然的に年月日が入りますが、それは明治以降と認識しています。 一番確実な暦の運用をしていたのは、菩提寺となる寺だったと思います。誰が何年に生まれたか、誰は何年に死んだから1回忌、3回忌、7回忌、・・・、50回忌、とか把握してたわけです。その正確さから、宗門人別改帳として運用され、明治の壬申戸籍が作れたわけですから。 壬申戸籍 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E6%88%B8%E7%B1%8D 農民のレベルだと、生まれ年の干支と数え年は把握していたでしょうが、元号までは覚えていたかはわかりません。でも、それは、おそらく商人か住職に聞けば、すぐたどれることなので覚えている必要もなかったのだと思います。 そして、あくまでも一年間の作物の栽培などのための暦(高島暦などもふくめ)から、二十四節季や六曜(大安・仏滅など)とか一粒万倍日などの生活の知恵(農業の知恵)を活用していた程度だと思います。 商人や工匠は、米先物なども含めた契約年月日や作品の作成年月日を刻み込む・書き込むことをしていましたから、元号を意識はしていたでしょうが、誰か知っている人に確認してかけばいいや、というレベルでの広まりかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうです「江戸時代の人は元号を言えたか」の回答に疑問をもって質問しました。 私の散歩コースには江戸時代の年号の入った常夜灯、丁石、道標、地蔵石仏などがいっぱいあります。 庶民は、これらを見て年号を意識していたはずと思って、確かめたくて質問しました。 >いわゆる出版社と印税という概念ができて、初めて印刷物に奥付という概念ができたと思いますし、…… なるほど、参考になります。
お礼
具体例のご回答ありがとうございます。 よく解りました。 >本など出版物では末尾に奥付があります。これは1722年(享保7年)11月に大岡忠相が命じたものですからこれ以降の出版物にはまず間違いなく出版年の記載があります。 そういうことですか!!参考になります。 質問した甲斐がありました。 >一般に墓には命日が書いてありますね。命日は元号から書いてあります。だいたい江戸中期以降は一般農民の墓でもそうなっています。 そうですよね。納得しました。