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危うきものとは何か

  孔子は君子危うきに近寄らずと言ったそーである。 では危うきものとは何かと考えてみた。 危うき者とは、すなわち肉食妻帯坊主であり、 危うき事とは、すなわち漬かる事であり、 危うき所とは、すなわち広布の広場であり、 危うき時とは、すなわちクソジジイ、クソババアとすれ違う時である。 これらはいずれも危うきものであり、決して近寄ってはならぬもの、避けて通らねばならぬものと感じております。 危うきものとは何か、皆はどー思う。    

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  • Glory_777
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回答No.9

私もけっこう考えたことがあります。 特許を出したことがあって、拒絶通知というのを受けたのがきっかけです。 その中で、「予め定められた」と言う言葉を元に、 審査官と弁理士、私という3人くらいで解釈が違いました。 審査官と弁理士さんは、 予め定められたと言う表現を、固定数値と言う解釈をしていたんですが、 辞書などで調べていくと、 固定の数値とは限らず、一定のルールや法則を持つものだということでした。 これでまあ、何とか反論が出来て救われました。 こうした切っ掛けがあり、思ったのです。 言葉と言うのは、常用として何となく理解しているものですが、 知性のレベルが高まると、細やかなニュアンスも含めて、 その差異で運命が分かれることがある。 質問者さんのように、 「あれ、知っているようで、良く分かってないぞ」 と考えることは大事であり、これを馬鹿にしてはいけないと思っています。 それからと言うもの、 「ああ、あれのことね」 とか勝手に自分の経験に当てはめて理解しているものがどれ位あるのか? 考えてみたんです。 私らが動画や小説を書いて、ヒットさせようとしても、結構無理ですよね? ところが歴史に残って伝えられるものが確かにある。 これって、パンピーが理解している程度の価値なんでしょうかね? 本当は間違った解釈をした上で、上からモノを見て、 判った気になっている、痛い話かもしれないですよね。 例えば、 「石橋を叩いて渡る」 これって、 「石で出来ているくらい丈夫な橋でも、念には念を入れる俺」 とか、「慎重である」と言う美徳(皮肉)として解釈できますよね。 しかし本当なんでしょうか? 改めて考えるまで、 石橋って、自然物の石で出来た橋と思っていました。 何か灰色の岩の塊をイメージしていたんです。 そんなものあるわけ無いですよね。 という事は、つまり、人口の橋という事です。 そう解釈すると、「あっ」と思います。 人が作ったものだからこそ、人ならではの気付かないミスなどがあり、 その景観の印象とは違って、危ういことが多いってことじゃないかと。 昨今の例では、 インターネットエクスプローラーにセキュリティホールがありましたよね。 告知されたとき、あわてた人が多かったんじゃないでしょうか。 私は作る側の仕事をしていましたので、「それ見たことか」と思いました。 何せ、 作っている人も人間ですから、 バグがあるのを知っていても、誰も気がつかないのだから、 治さないで出そうとする事のほうが多いんですよ。 これを摘発して、説得するだけで凄いお金がかかります。 「もう寝たいので嫌です。このまま出していいじゃないですか」 と言われたこともあります。 人が作ったモノをつかうとき、 いつもこのシーンを思いだします。 怒りを感じつつ、「人が作ったものだからこそ信用できるものか」 とか思うわけです。 「気がつかなかった」 なんてプロの世界でありませんよ。 確信犯による事件ばかり起きていると思います。 とくに、自分でつかわないものを苦労して作り、 それの儲けの全てが技術が無いクライアントに移るわけです。 どんだけの危ないものが埋まっているか。分かったもんじゃないですね。 こうして考えると、 自然物と言うのは、人間の側が自然に用心しますし、 危うさは意外と期待通りなんじゃないかな。 しかし、人工物というのは、突然期待を裏切る怖さがありますよ。 石橋を叩いて渡るとは、 人工物ならではの怖さを訴えているのではないかと思うのです。 水をかぶっただけで暴走する原子炉とか。 マジで怖いですよね。 「君子危うきに近寄らず」 孔子次元の人が、 私らの思う解釈程度の意味を世に残すとは思えないんですよ。 Wikiで調べていると、 論語は円珠経ともいうらしく、 色んな角度で見ても、その語のとおりになるという、 多角的な解釈が出来、 きわめて真理に近いものとして絶賛されたそうです。 そこで思いだしたのが、経営者と接して感じたことです。 操られると言う感覚になります。 どうも技能の一つとして、極めるのが必須の条件みたいですね。 これのカラクリなんですが、とても合理的でした。 人には自由意志があると殆どの人が錯覚しています。 しかし、実際は反応の連続のようです。 ある現象を観察した後には、 抵抗できずに(自由意志で選んだと思い込んで)決まった反応をします。 つまり思考というのは、実際は存在しません。 人もセンサマンベツいるわけではなく、幾つかの決まったランク、決まったモードがあり、 これのどれかに滞留しているようです。 ですので、これらのランクやモードを研究してしまうと、 そこにハマッテイル人の思考や行動、感情はすべて想像であてることができます。 ネットで活動していると、 実際は違う人間なのに、良く似ているなと感じる人に出会うでしょう。 これがつまり人が所属するランクやモードです。 仏教でも似たような概念を提唱しています。 悟りのお化けとは、こういったものに気がついて、技能として磨いた人のことですね。 自分は自由に思考していると信じたいものですから、 (と願うのも、そのモードの特徴) 自分を単純なちっぽけな存在と認識するより、相手を凄い人に祭り上げる。 こういう心理により、何時までもノウハウとして世に残るのでしょう。 まあこのあたりは知っている人も多く、序の口です。 実際は、その場にいる全ての人のランクやモードを識別して、 これらがどの様に関連して何を引き起こすのかを、 将棋や囲碁のように読みあわせることができます。 因果と言います。 一見して何も無いように見えて、 ある条件がそろったときに、これらが一気に動いて、事件に発達する。 そういった構図が偶然出来ることがあるんです。 常にこればかりを練習し、そういう見方を訓練している人は、 その瞬間にハッと気がつき、 「悪意ある別の人か、もしくは本当に縁という偶然により、  間違って引き金を引かれたら、  わたしも巻き添えを食らってしまい、  たとえ成り行きを読む力があっても、  おそらく助からないだろう。  成り行きを読んでみると、そういう結果になると思える」 先のことが分かると、それを活用して、危機を脱出できると思っている人が 多いですが、実際はできません。 未来が分かると得をすると思っている人は、 自由意志で自分が制御できると思っているわけです。 実際は、雰囲気に拘束されて、一言も発することが出来ず、 知っていても知らないでいても、結果は変わりません。 何かを為す人は、 誰もが「何も起きていない」と認知している状況から、 「ああ、これをすれば、こうなっていくだろう」 と構図を読み取って、 人知れず、小さな細工をします。 無作為にスキルや能力、運を頼りにしていては、こういったことが出来る人には 勝てないですし、妨害をされてしまいます。 さて本題に戻ります。 一見何の変哲も無い日常。 これが偶然か、誰かが意図したためか、 非常に危険な構図になることがあります。 勿論それを紐解いて、解除することも出来ます。 しかし、誰かが意図して制御していたり、 解除できるチャンスを大分経過していた場合は、 先が読めても、手がうてないのです。 これは手遅れだということ。 しかし、現実は平穏ですし、 この時点で大騒ぎをすると、 誰にも相手にされません。 「頭が可笑しい」といって笑うでしょう。 そして、いずれ分かりやすい危機がおきます。 はじめて誰もが危険として認知するのです。 このときに何とかする力もあります。 スーパーマンみたいな超能力ですね。 しかし、 ある一定の知性を持ち、歴代の為政者と同じ様な訓練をしていれば、 事件が起きる事を相当前から構図として読み解き、 知ることができたはずです。 つまり、事件がおきてから力技で解決するのは、能力が低いと言うことを指します。 力を求める人は、事件を予測できない人とも言えるのです。 だとしたら、 危険な構図を人に説明するよりも、 何気なく人を誘導して、その場から安全な場所に移動させたほうが良いですよね。 それの凄さが直ぐにわからずとも、 「その人の傍にいると、何故か何時も平穏」 という印象を周囲の人に与えることが出来ます。 実際に企業経営者の多くはこの力を活用しています。 「想定の範囲内」 と言う言葉を良く使う人がいましたね。 先が読めない人は力を求め、君子は危うきに近寄らないのです。 これは、 高速で行う多重シミュレーションであり、訓練可能な現実的な能力です。 でまあ、 この危険に間違いなく変化する構図を、 「危うい」 と表現したのではないでしょうか? 普通の人が目で見て、「あぶなそうだ」「危険に思える」 と言うものは、すでに手遅れなものであり、 「危うい」ではなく、本当に危険というのが正しいのじゃないかと。 「危険なものに飛び込まない自制」として言い伝えている人もいます。 そういう解釈もありですが、物足りない。 「危うい」という表現が何故使われるのか。 このように考えてみると面白のじゃないでしょうか。 以上、ご参考に成れば。

hitonomichi33
質問者

お礼

危うきものとは何か。 この世に危うきものは様々あり、それは姿を変え形を変え四六時中我々の身の回りに蔓延っています。 危うきものはどのように対処すべきか。 危うきものに対する最善の対処策はもちろん無縁であることである、関わらぬことである、近寄らぬことであると孔子は教えております。 そのためには危うきものとは何かを見極めねばなりませぬ。 危うきものは様々であり、それはまた姿を変え形を変えて現れる。 そこで大事なのは危うきものの本質が何か知ることである。 危うきものの本質とはその存在の必然性が無いということではないか。 もしもそのものの存在が必然性のあるものであるなら、我々はそれを避けることは出来ないのであり、そのようなものは危ういものでは有り得ないのである。 危ういものとはそれに関わらずとも一向に支障のないものであり、それゆえ危ういものとは存在の必然性が無いものと断言できるのである。  

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回答No.1

  ここの回答を妄信すること  

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