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情欲をなぜ劣情とするのか?
なぜ情欲を劣情とするのか? クリスチアニズムは 人間の《情欲》をかつて何故かくも貶めたのか? たとえば次のようにです。 そこでの《魂 anima 》は 《霊〔なるナゾ〕》のことではなく むしろ単純に《動物 animal 》の本能にもかかわるような広い意味(?)での《感性》のことだと思います。 ▲ (アウグスティヌス:情欲論) ~~~~~~~~~ 魂なしには肉の情欲は存在しないから 確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。 情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。しかるに性交の試みが たとえ〔* 去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に至らないように 慎み深さによって抑えられている。 彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。 肉の実行はなかったとしても 〔* 情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 集会の書ではそこから比喩がつけ加えられて 彼は目で見て 嘆息し 宦官のように処女を抱きしめ かつ悲嘆している。 (シラの書(集会) 30:20) と語られはしなかったであろう。 (『ユリアヌス駁論』6:14 金子晴勇訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問題(問い)は 二つないし三つあると思います。 (1) ひとつには まづ質問者個人の考えですが これも単純に《ナゾの何ものかへの畏れ》の問題だと思われること。 そのオソレをないがしろにするなかれということ。 きよらかなおそれを保てということ。 そのためであり その意味であって 情欲じたいを目の敵のごとくして取り上げるのではないであろう。 あるいは情欲をおとしめること自体を意図しているのではないのではないか。 (2) いまひとつには この文章を書いた人じしんが つぎのようにも書いていること。 少々クリスチアニズムの特殊な領域にも入りますが。 ▲ (同上書 1・5) ~~~~~~~~~ かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪を その満ちあふれる恩恵によって 滅ぼしている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) いづれの問題点についても これらのことが どうして人間の思惟やその観念として――また倫理観念の世界においてこそ――唱えられ抱かれしきりに説かれ やがてはそのような共同の幻想となってしまったのか。これが 三つ目の問いです。 言いかえると 前の二つの問題点は――それらについても 解説や批判を募っているのですが―― いづれも《非思考の庭―信仰――》なる世界として成り立っていると思われます。しかるに そのことがどうして人間の思考や想像力の問題あるいは倫理規範として過度にこだわったりする問題に成り下がってしまったのか? こういう問いです。 (3-1) 国連人権高等弁務官による慰安婦問題の扱いは 常軌を逸しているように感じられます。 (池田信夫2014年08月25日 : 国連の誤解を逆輸入する「人権派」弁護士 http://blogos.com/article/93087/ ) (4) 情欲論には 何か・どこか 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴・あるいは つまづきの石でしょうか? (4-1) さらにあるいは ひとは――もしそうだとしたら――なぜ情欲から離れなければならないのでしょう? これは (3-1)の問題につながっているかと思われます。 ☆ この問いは 前身がありすでに――ふと見たら――閲覧数が多く 《解決》もされた格好であり また質問者としても回答者とのやり取りをつうじてかなり問い求めをすすめ得たとは思っています。 ただし BA の選択について不覚を取ったとの思いがあり 現在の情況においても いまいちど吟味検証をおこたらず また あたらしい見解への期待をも持って 問うこととしました。突拍子もない見解なりとも自由にお寄せください。
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あくまで、自分の考えなので。 俗っぽいのがスタートだからなのかと。聖なるものより上位よりへりくだって。各敷居も低い状態。 聖なるものが高いものを目指しているとすれば。 プラクリティとかでてきたのですが解くのに役立つかもしれません。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 率直に言って「オンナを囲いたい」では? >「クリスチアニズムは 人間の《情欲》をかつて何故かくも貶めたのか?」 「悪疫の流行」ということも、あったかもしれません。 (あ、キリストが「不治の病を治す(奇跡)」というのも、あるんだったか)
お礼
ご回答をありがとうございます。 あなたにそう見えるのなら そうなのでしょう。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
人間にはなぜ“罪悪感”が有るんでしょう。 このことを突き止めることが質問に対する回答の道しるべになると思うのですが。 情欲を劣情とする心はまさに罪悪感によると思われます。 罪悪感というものは俺が俺が、と云う“個”への方向性のある事柄に起きて、好事(よい行い)感は“全体”への方向性のある事柄で発生すると思います。 信仰は“全体”へ向かう精神だと思うので、“個”そのものから離れない「情欲」は劣情・劣った心情、と捉えられるのではないでしょうか。 人間肯定者のブラジュロンヌさんは、この“方向性”に異議を唱える立場なのです。 仏教やキリスト教は動物的人間のままであることは否定していますが、他の動物と違って勝れた精神を持つ人間の、その精神を否定してはいないと思います。 もっともその精神にも秀劣が有って向上心に向かって語っているのが好ましい宗教で、降下心を援護するのは好ましくない宗教、と云ってみたいです。 「個」に向かう精神では社会は成り立ちません。 「全体」への方向性のある精神によって、好ましい「社会」は作り上げられています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 情欲を劣情とする心はまさに罪悪感によると思われます。 ☆ 分かるような気はします。 ★ 罪悪感というものは俺が俺が、と云う“個”への方向性のある事柄に起きて、好事(よい行い)感は“全体”への方向性のある事柄で発生すると思います。 ☆ そうでしょうか。 罪は おそらく自分の侵した悪なるおこないについて 何ものか(たとえば神)に・または誰か(たとえば 世間の人びと)に申し訳が立たないと思う気持ちでしょうね。そういう考えでしょうね。 悪とは 自分の心に生じるヤマシサ反応にさからって――つまりわが心ないし意志にさからう心ないし意志によって――考え・おこなうものごとだと考えます。 ★ 俺が俺が、と云う“個”への方向性のある事柄 ☆ について 心の底から それは やばいといった気持ちが起きるなら――つまり ヤマシサ反応が起きるなら―― それは 心に従うという善にさからっている。つまり 悪です。(悪とは 善の損ないあるいは善の欠けです)。 あるいは 別様にこうも言えるのではないでしょうか? すなわち おのれの心とのあいだで或る種の対話をおこなって その間合いが心にさからったものではないならば 悪ではなく罪でもない。さからう場合には 間がちがって来ている。つまりマチガイが起こる。マが抜けたという場合もあります。 このようにヤマシサ反応に従うか逆らうか。あるいは おのれの心とのマの取り方のよさ・わるさ。これによって ★ 情欲を劣情とする心はまさに罪悪感によると思われます。 ☆ というときの《罪悪感》の中身を説明することが出来ると思います。 《罪悪感》だけでは 納得の行くのはむつかしいのではないでしょうか? ★ 俺が俺が、と云う“個”への方向性のある事柄 ☆ であっても おのれの心に逆らっていない場合には(つまり ヤマシサ反応がない場合には) 必ずしも悪ではなく 罪とも感じないのでは? あるいはつまり マがわるいということには成っていないのでは? ★ 好事(よい行い)感は“全体”への方向性のある事柄 ☆ この《“全体”への方向性のある》という説明も まだ広い範囲にわたっていて それが具体的に何であるかは決められないように思います。それよりも ヤマシサ反応の有無によって 判定したほうが 無難だと考えます。 ★ 信仰は“全体”へ向かう精神だと思うので、“個”そのものから離れない「情欲」は劣情・劣った心情、と捉えられるのではないでしょうか。 ☆ ですから 《情欲のない生殖》ということを想定した場合 その《情欲のない》という内容は いま現在の《情欲》に相当するはずです。その位置として相当するはずです。 しかも《生殖》なる行為は あるわけです。つまり 《劣情》ではない心と身とのウゴキが あたかも情欲としてのように 起きるようになる。 このように広い意味での《情欲》は 相手とのマを大切にしこれを保ち ひいては社会のあり方としてもマの取り方がよい状態にあるならば それは《全体へ向かう精神》であり得ます。ということではないでしょうか? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「個」に向かう精神では社会は成り立ちません。 「全体」への方向性のある精神によって、好ましい「社会」は作り上げられています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その実際の中身を 説明しようとしました。何が個にこだわり 何が全体を志向するのか。です。 ★ 人間肯定者のブラジュロンヌさんは、この“方向性”に異議を唱える立場なのです。 ☆ 方向性のじっさいの中身について 明らかにすべきであると唱える立ち場です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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情欲をなぜ劣情とするのか? これだけに答えよう。 聖書とかさねるのは、私にとって眠たくなるだけの話だ。 性的衝動を理解できていないから、自らの衝動と納得していないんだよ。 そして、欲望とされる。 他者の意思だとね。 でも自らからこみあげてくる。 これはアマテラス神学を補う意味で研究してみる価値があるね。 私は性的衝動を理解できていてね。 なにせ普段から子供たち三昧なのでね。 生殖しようとする衝動と冷静に分析できる。 女性を見染めたら、いきなり「俺の子供を産め」こうだ。 それで何度も失敗している。 それはともかく、、、 私にとっては深刻だが、それでも、それはともかく、、、、 思春期位で生殖能力を自覚し、性的衝動がこみあげてきてもだ。 社会性において、父母として、社会生活を送れる年齢ではない。 ここで生きているという事実からこみあげる、衝動と、社会性を顧みる理性とで葛藤が生じ、若者しとっては禁秘とされた昔々の大人たちが作った脅し文句だろう。 いい年こいておびえるのはいかんよ。 ここでオカマバーで、クソ扱いすると。 性欲をネタに、男が男の恥部をセクハラできる。 これは実にすがすがしい事だ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 性的衝動を理解できていないから、自らの衝動と納得していないんだよ。 / そして、欲望とされる。 ☆ 《衝動》だからと言っても 人間のばあいには そのまま行動に移る(移す)わけではありません。 動物とちがうのは そこです。 ぎゃくに人間は いつでもサカリがつき得る状態にある。けれども 誰れ彼れの見境なく行動するわけではありません。 だから 欲望とも呼びます。つまりは 意志行為として 性的衝動をも 行動に移すのです。 これが スサノヲ人間学ですよ。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
こんにちは。 ユダヤ教では、 ───────── ユダヤ人のセックス観は、他の世界とはまた違っている。ユダヤ人は“性”を必要 悪とはみない。タルムードには、性衝動は自然なもので、無理にねじ曲げてはならな いと書いてある。 http://www.max.hi-ho.ne.jp/rkato/Document/essay/e8yudayanosekaikan.htm ───────── と書いてあるとおり、 《性衝動》は自然なものであり、劣情とはとらえない。 また、快楽を伴わない性交も不自然なものとして退けている。 神は善きものとして世界を作ったわけですから、性交や《性衝動》を否定することは、創世記の記述と矛盾する。 ───────── 2:24それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 2:25人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html ───────── はっきりとは書いていませんが、ほのめかすような形で書いてありますが、 これは明らかに性交に関する記述ですよね。 裸を恥ずかしいと思うようになったのは、知恵の実を食べたあとのことですし…。 さらに、古代オリエントでは聖婚儀式もありますし、ゾロアスター教では性交は悪魔を退ける力があるとされています。 まぁ、ゾロアスター教の場合は、ちょっと特殊な事情があるようですけれど…。 ☆(4) 情欲論には 何か・どこか 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴・あるいは つまづきの石でしょうか? ◇わたしが思うに、情欲を劣情と考えるようになったのは、プラトニズムの影響だと思います。 プラトンにとって、肉体は魂を閉じ込める牢獄ですから。 どこの馬の骨とも知らず、おそらく無教養であったであろうイエスはともかく、 パウロやアウグスティヌスはギリシア的教養、特にプラトニズムの影響を何かしら受けているでしょうから───控え目な表現です。その思想形成に大きな影響を与えたはずだ!!───、肉体とそれにともなう肉欲を蔑むのは、当然のことなのでしょう。 たしか、アウグスティヌスの母親はマニ教徒でしたよね。 母親を通じて、肉体を邪悪視するマニ教の思想的影響を受けていたことも考えられます。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 お早い応答ですね。 △ G・バキスタ:ユダヤの世界観 タルムード的人間 ☆ を読んでいて 次の指摘は やや不明瞭かと思いました。 △ ちなみにユダヤ人は伝統的に父系家族 なので、ユダヤ人男性と非ユダヤ人女性のあいだに生まれた子供は、ユダヤ人として 認知されてきた。 ▽ (ヰキぺ:ユダヤ人) ~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA § 1 定義 帰還法では「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人として定義している。 また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、 ヨーロッパなどでは、母がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母がヨーロッパ人、父がユダヤ人など)もユダヤ人として扱うことが多い。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに “タルムード的な人間”として挙げられた特徴の中で: △ ~~~~~~~~~~~~ “よく学べ” ただし受け身であってはいけない。 “よく質問せよ” 他人に対してだけでなく自分自身にも。 “権威を認めるな” 進歩は既成の権威を否定するところから始まる。 “自己を世界の中心に置け” 他人を軽んずることではない。 “幅広い知識を持て” “失敗を恐れるな” 失敗は挫折ではない、その裏側に成功がある、それだけ成功 に近づいたと思え。 “現実的であれ” 自然に生きろ、可能性と限界を知り無理をしてはならない。 “楽観的であれ” 明日は進歩を書き込む白紙、ゆとりを持って白い紙に書き込も う。 “豊かなユーモアを持て” 笑いは意外性によってもたらされる。 “対立を恐れるな” 進歩は対立から生まれる。 “創造的な休日を送れ” 人間の真価は休日の送り方で決まる。 “家族を大切にせよ” 家は自分を育てる城である、自分の家を大切にせよ。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは “権威をみとめるな”を第一に置いています。そのツテでは “対立を恐れるな”をも挙げておきます。第二は “家族を大切にせよ”ですね。 “幅広い知識を持て”は あまりやっていません。PCなどを何度か買い替えましたが 過去にやったことを忘れてしまって その都度セットアップにやっかいなことになります。関心がないと 覚える気がないのです。 それを別にして ほかの点でも 我れながら言いますが わたしは《タルムード的人間》に親和的なようです。 ◇ 神は善きものとして世界を作ったわけですから、性交や《性衝動》を否定することは、創世記の記述と矛盾する。 ☆ と同時に その自然本性のあり方から社会的に人為的な行為については やはり必要以上にこだわっているように思われます。 ▽ (ヰキぺ:モーセの十戒) ~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92 § 3 カトリック教会・ルーテル教会の場合 6. 姦淫してはならない。 ・・・ 9. 隣人の妻を欲してはならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ふたつの項目にさえなっています。 これは 自然本性と社会性との両面があると見るべきでしょうね。後者の・人間の意志行為にかんする《過剰なこだわり》は差し引いて捉えるというかたちであっても 両面があると考えられるのではないでしょうか? 創世記2:24-25 について ◇ はっきりとは書いていませんが、ほのめかすような形で書いてありますが、 / これは明らかに性交に関する記述ですよね。 ☆ ですから アウグスティヌスに言わせれば エデンの園にあっては 情欲のない生殖があったのだということにもなるそうです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらに、古代オリエントでは聖婚儀式もありますし、ゾロアスター教では性交は悪魔を退ける力があるとされています。 まぁ、ゾロアスター教の場合は、ちょっと特殊な事情があるようですけれど…。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。ザラトゥシュトラでは 世界の終末には 善神が勝つことになっているようですが 明らかに善神と悪神とを立てる二元論――これは 論理じょうはあり得ません(絶対善と絶対悪との両立はあり得ません)――によっていますので 参考にならないと考えるのですが。 二元論と言えば アウグスティヌス自身が マニケーイストでした。その教師をもやっていたほどの。 母モニカが 熱心なクリスチャンでした(よ)。父親は 特にはそうではありません。 ◇ 肉体を邪悪視するマニ教の思想的影響 ☆ をアウグスティヌスが受けていたかどうか? つまり その意味は マニケーイズムのオシエには多大な影響を受けたようですが 《肉体の邪悪視》についてはどうか? 何しろ 神に善き神と悪しき神とがいるわけですから 《邪悪視》と言っても それが回りまわって善神に連なって行くかも分かりません。 やはり 肉体の貶めは あるとすれば プラトニズムからの影響でしょうか。 ちなみにアウグスティヌスは アフリカ生まれのセム系のベルベル人ですよ。バルバロイという意味でありそこから来た語です。 (4-2) 情欲論に もし肉体を劣ったものとして見るプラトニズムというつまづきの石があるとすれば その石につまづきやすいという人の特徴は いったい何でしょう? 人一倍 潔癖感のつよいというふうにも思われますが いったいそれは どうしてそうなるのでしょう? あるいはむしろ こう問うたほうがよいでしょうか。つまり つまづきの石は 潔癖感だけの問題ではないとしたら いったいどこからどうして特に《人権》にからめて情欲を劣ったものとして扱うような思想にかぶれるようになるのか? 通念としてのプラトンの権威からなのでしょうか? 現代にあっても。 あるいは 個人的なにがにがしき体験が あとあとにまで影響をしているとか。・・・
お礼
★ プラクリティとかでてきたのですが解くのに役立つかもしれません。 ☆ これは 《自然ないし 自然本性》のことを言うといっていいでしょうか。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 俗っぽいのがスタートだからなのかと。聖なるものより上位よりへりくだって。各敷居も低い状態。 ☆ そうですね。上下の段階ですか。これをもう少し具体的に説明していただくとよいのかも知れません。 じつはこの質問の前身で 次のようなやり取り(わたしの応答)をしたことがありますので いまそれを――上下の段階ではなく 一次・二次さらに三次といった段階のこととして捉えたものですが―― かかげてみたいと思います。 * (1) 性欲には 第一次のものとそこから派生した第二次のものとがある。第二次のものは際限のない欲望であって これを情欲として・あるいは劣情と捉えて人間は制御する必要を見ているし そうしようとしている。 (2) 第一次の性欲は 食欲や睡眠欲と同じように 自然身体の本能に相当するような欲求であって そのぶんには 《本能的バランス》が保たれるという可能性を持つと考えられる。 が しかも同時に 一方で体力を消耗するという性質を帯びているとともに 他方でそれゆえ強い誘因効果が伴なわれてもいる。 (3) それゆえこの特徴にもとづく限りで 第一次のそれとしての本能的自然の姿を逸脱することが出来る。 それは 非自然としての文化的行為となり得るし あるいはさらに反自然としてでもありうるような人間の意図をかたちづくりその意図にもとづくような意識的行動そのものと成り得るのだ。 (4) 繰り返すならば 第二次性欲は 非自然としての文化行為であるだけではなく あたかもすでに第三次性欲というべき次元において 人間独自の人間のための人間による性的欲望の様相を呈するようになった。 (5) このあたかも人間が自分たちのため〔だけ〕に《創造》したかのような人間に特有の第二次あるいは第三次の性欲は 情欲であり劣情であると認識すべき《悪》なのか? ▲ ゆえに服を着せたり、ワイセツだの劣情だのと、遠ざける / 必要が出てきた、ていう。 ☆ ていうそれなのか? すなわち ▲ そうした本能的バランスから外れ、意識的行動が優位になり / 始めると、「種の維持」から外れて、避妊した上で快楽のみを / 楽しみ始めたので、「消耗」はするわ、「種の維持」には / 貢献しないわ、何のメリットもない(個体の快楽以外は)もの / になり始めたのです。 ☆ というべきしろものであるのか? です。 たぶんその論点としては こうではないでしょうか? (6) そもそもホモ・サピエンスなるヒトは 本能的自然を超えた知性的存在であるのではないか? だから その知性による想像力が及び得るかぎりで 自由に振る舞うものだ。 そうして《種の存続》も維持して来たではないか? 何をぐちゃぐちゃ言うことがあるか。 (7) そんなにこの第三次性欲を嫌う・もしくは制御する必要があると言うのならば たとえばそれに伴う《劣情や猥褻感やその他もろもろの〈誘因効果なる手段〉》を欠いても 種の維持は出来るというのか? 言いかえると 第一次性欲なる自然のすがたのみをもってヒトは生きて行けるか? こうなりましょうか? どうでしょう? * ちょっと上の議論は荒削りだったのですが そこからさらに次のようにまとめました。 (8) つまり この男女のツイ関係において自然にのごとく発生する情欲ないし性欲を その《自然度》において 二つないし三つの段階に分けてみる。 1. 第一次性欲:あたかも自然の力のはたらきとしてのような両性 における互いのもしくは一方からの引力としてのような 欲求。 ツイ関係を形成する以前の自然力学。 * 斥力もあるか? あるがそれは 大きく引力の中におさま るか? あるいは斥力はむしろあとに出て来る第三次性欲 にまつわる問題か? 2. 第二次性欲:第一次の引力関係なる自然に 人為という意味での 文化つまりその意味での非自然のはたらきがくわわるときの 願望もしくは欲望。 ふつうに ツイ関係を形成しようとする欲求であり すで に意志行為である。 一般に人の表現としては言葉をつうじて・もしくは 言葉 によって解釈できるかたちをつうじての 《求愛ないし口説 き》を伴なう。 3. 第三次性欲:非自然の第二次性欲に いろんな飾りをつけ加える ときの意志行為。性文化と呼ばれることがある。 しかも 人間の想像力は極みを知らないかのようで 非自 然としての人為だけではなく 初めの自然の引力関係にさか らってでも・つまり反自然としてでも その――もはや通常 のツイ関係とは呼べないまでの――性的な人間関係を繰り広 げる現象にまで広がる。 * ★ 聖なるもの ☆ というのは なかなかむつかしいですね。どうですかねぇ。 あってもいいような。あるいは ふつうの性欲のほかに・またはその中に部分的に 聖なるチカラがはたらくような場合があるかも知れない。・・・