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師団第3野戦病院はどこいっちゃったの?

『帝国陸軍編制総覧』を見てると、ほとんど第3野戦病院が無く1・2・4野戦病院しか書いていません。たまに4個揃っていたり、2つだけだったりしますが第3病院はどこいっちゃったのでしょう。 番号毎に役割が違ったりして、計画上4種類あるが動員していないということでしょうか? どれかがレントゲンを装備しているって本で読んだような、違うような。。。 また、兵站病院と師団所属野戦病院の違いは何でしょうか。

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回答No.1

 支那事変が生起した時点の日本陸軍の師団は、いわゆる四単位師団であって、歩兵連隊4個を基幹としており、師団各部隊はこれに合わせて例えば砲兵連隊は4個大隊制であり、師団野戦病院も4個制を採っていました。  その後師団が三単位制(歩兵連隊3個)へ移行するにともない、その後に編成された師団においては、野戦病院も3個を基本編制とすることになりました。ただし、作戦地などを考慮し、例えば第18師団(三単位以前の師団)は1942年(昭和17)まで4個持っていましたし、第48師団(三単位制師団)は2個であったりしました。    師団野戦病院の基本編制は、第1~第3が衛生部(二半部制)、大行李からなり、第4は衛生部(二半部制)レントゲン器械装備、大行李となっており定員も第4が約10~20名程度多くなっていました。  具体例では、さきの第48師団第1野戦病院が院長以下228名、第4野戦病院が院長以下238名でありました。同師団は完全自動車編制でしたから大行李の代わりに野戦外科用手術車や九八式野戦X線小型車などを装備していたと推定されます。  以上のことから、三単位制師団の編成に際しては、第1・第2そして第4という病院編制になることが基本となったのでした。    第18師団の野戦病院は四単位のまま太平洋戦争に突入しましたが、シンガポール攻略戦後ビルマへ移動する途中、ボルネオ島(カリマンタン)に残留していた第4野戦病院は師団の隷属を脱し、南方第11陸軍病院となりました。つまりその後師団は第1~第3野戦病院で戦うことになったのですが、そのほかの三単位制以前に編成された師団も余剰となった野戦病院勤務者は、新設兵站病院の要員などへうつっていきました。  師団野戦病院は、その名の通り弾雨飛び交う野戦において仮繃帯所・救護所を開設するものであって、とうぜん看護婦はいません。まずは応急手当てをしたのち、師団衛生隊が患者を後方へ輸送し、さらに軍直轄の患者輸送隊(患者輸送部班)が戦場から遠く離れた兵站病院へ移送します。兵站病院は軍の兵站基地に開設される病院で、ここでは歯科医もいれば従軍看護婦も勤務します。兵站病院は作戦に応じて軍の移動に伴い追随します。同じく後方衛生施設である陸軍病院は、もと衛戍病院と称したものでその地に常住することを基本としました。    なお、『帝国陸軍編制総覧』について。同書1310頁の第18師団野戦病院は、第1~第4となっていますが、この当時第4はない。また終戦時あったのは第1のみ。同書1296頁の第48師団は、第1・第2野戦病院となっていますが第2は第4でなければならない。ご参考まで。    資料: 陸上自衛隊衛生学校修親会編『陸軍衛生制度史 昭和編』 原書房 など