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あなたの死という考え方について
あなたの死という考え方について、哲学でも、直感的に思ったことや、体験から感じたことなど。 死ぬことに対する思いや、死そのもの見解、論文的なものでも何でもOKですので、死についてちょっと考えを教えて下さい。別に悲しい思いのものである必要はありません。 ちょっと今日一日で死という考え方がどれくらい集って自分の中で、どのくらい死について議論できるかかちょっと試したかっただけですので、何でもかまいません ご協力お願いします
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- domaine-espoir
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こんにちは。 うん、そですね。。。 考えない一日は、とあるときから、ない ちょうど自分が交通事故にあったのと、 親友が亡くなったことが 数年前にありました。 ある大きな横断歩道を歩いていた自分の左後方に、 そこの交差点を右折しようとした車に追突されました その瞬間はその横断歩道を歩くとき いつも見ていた左前にある十数階建ての銀行のビルやその他の光景が いきなり左に大きく視界の半分くらい傾いたんです 「あれ? なにか起こったか?」と感じました そのあとは気絶 不思議なのは、自分の身に起こっているにもかかわらず、 この手の最初なにかが降り注いだときには、 自分は外界のことのように思ってしまったんだなって感じました。 高速下のその大きな道路のなかで、 仰向けになって気が付くと 寒いなぁ、うん…? なんか強烈な受け身をかました感じ っていうか、いま仰向けで歩道にいる そうか事故に遭ったか… 面倒なことになったな でも、足は動く? (動いた) 手は動く? (動いた) はぁ、まいったな・・・ って、 右手を後頭部にやって、戻してみたら 血がたくさん うーん、でも脳みそは出てないか… 多分 って、おもってたら、 誰これかまわず、 動いたらだめ! そのまま!って、叫んでくれて、 頭の上のあたりで人の動きを感じてたら 信号の前や歩道の真ん中に立ってくれて車の往来を止めてくれて、 そんな雨が降る中、あるおばさまが自分のレインコートを 寒いと言った自分に被せてくれて… ああ、自分はこの街のひとたちに助けられたんだって、思いました。 大量に頭部からの出血があったようですが、 救急車が来てくれて、病院で助かりました。 頭は十数針したし、 左肩はずいぶんダメージを負いました ただ、十分に血が出てくれて、 数か月の肩のリハビリをできたから なんのまだ後遺症もないです。 打ち所が悪かったら、たぶん・・・ そのことで、死は自分にも簡単に来るんだと、思いました。 そして、親友のこと 突然余命半年だと電話で言われました ただ、そこからが強かった 倍、がんばった。 最後の最後まで、付き添いたかったし、そうした 最後に自分に送ってくれたメールは誰にもみせたくない 一緒に仕事、したかったな いきること を 教えてもらった そこから、自分は、 もっと世の中に対して偉そうにしていいんだ って、開き直りました。 自分は欲の塊だし、 仕事は人生の最大の暇つぶしだとずっと思ってきたし、 だからこそ、って。 自分がこれからどれほど生きれるかわかりません。 「ふざけんじゃないぞ、このやろう!」とか 「めっちゃ楽しいやん!」とか 感情はなるだけ素直に出ししつつ、 人へのフォローは忘れずに、 人からのフォローに感謝して、 自分の生きている時間を眺めながら 存分に生きていきたいと思います。
- tomban
- ベストアンサー率26% (2616/9771)
一定してないので「今の」ということですけどね。 今の感じ方としては 「川の流れで、何かに引っかかってた葉っぱが、流れだした」 というイメージ。 なんというか…最近は死が「終わり」という感じがしないんですよ。 生まれ変わりを信じてるわけじゃないけど、信じないと否定してしまうのが窮屈になった、というか。 誰かが亡くなっていく時「わたし」はそれを確かに見てるんだけど、他の次元で、どこかの誰かが、その「続き」を見ているような。 生とか死とかは、肉体が活動を始めて終えるだけのことで、それは本当に些細な、小さな「起承転結」であって、エネルギーそのものは不滅なんじゃないかな?と思う時があります。 きっと、人は「どこかに行く」のです。 生きているということは、単に「流れの中で何かに引っかかた」だけのことに過ぎないのではないか?と。 本当は生や死という次元ではなく、もっと「大きなもの」が目の前を流れているのではないか。 偶然にしてこの世に生まれ、偶然にしてこの世から去っていく。 人生は「アクシデント」であるのだから、それを悲しむなかれ、迷うなかれ、と、そう思うのですね。 私よりも長生きする「木」はあります。 私の分身たる子供がいようがいまいが、私を「知る」存在は確かに残るわけです。 だから、安心して去ろうと思えます。 人は誰でも一人ですが、「ひとりきり」ではないのですから。
- love_peace_hkm
- ベストアンサー率26% (53/199)
一言で言えば、「人生の集大成」だと思います。 死ぬときに、「生きてて良かった」と心から思えるように、今を生きたいと思っています。 私は、人生で何か大きなことをしようとは思っていません。 死ぬときに生きてて良かったと思えるような生き方をしたいというのが、今ある唯一の目標です。 私は、4年前、15歳のときに父親をガンで亡くしているので、死の重みは強く感じていますね。 死は、軽々しく扱ってよいものではないです。 だから、冗談でも「死ね」という言葉を聞くのは嫌いです。 特に、私と同じ10代には死ねと軽々しく言う人が多いので…。 でも、だからって、死をタブー視する風潮も嫌ですね。 タブー視する風潮があるから、死を軽々しく扱う人が出てくるんだと思います。 死は、人間なら誰でも経験することですから、一人一人が、死と向き合い、死について真剣に考えてほしいと思います。
- nokonoko39
- ベストアンサー率64% (86/134)
死=解放です。 それなりに生きているし、たのしいことももちろんあるけど、死を待っています。 死んだら何にもなくなっちゃうんだよ?と言う方がいますが、それで良いです。 何もなくなるなら、あれがしたかった、もっと生きたかったなども無いと思うので。 自分と関わっている方に迷惑をかけないために、自殺は考えていません。 長生きしたいとも、生きていてよかったとも思ったことはありません。 どうせ死ぬんだから、たのしく暇つぶしをしようと思って生きています。
お礼
暇潰しが楽しくなることを願っています 後悔したくないことを頑張って減らすより、気ままに生きるというのもいいかもしれません ありがとうございます
- 4771213
- ベストアンサー率0% (0/0)
死ぬ事自体は怖くありません、ただ大切なものを失うのがことが怖いです。
お礼
自分も怖いです 他の方もおっしゃっていましたが、自分が死んでも、地球は回って明日がくるということが不思議です。 ご回答ありがとうございます
- tips
- ベストアンサー率14% (829/5762)
こんにちは。 死について。 自分は死について考えない日はありません。 今日で終わりになるかもしれない、明日で終わりになるかも、と 常に考えています。 事故だってあるし、病気で急死もありえる。 なので、一日を、今を大切に生きたいと思って行動しています。 死について、身近な人が死によって自分と離れたことが いまのところないものですから、漠然と思うことしか 出来ませんが、死があるからこそ、生きている人の現在というものの価値や 死んでしまった人との思い出や記憶が、尊いものになるとおもいます。 自分が死ぬことはとても悲しいですが、 自分が死んだ次の日も、来年も、世界が続いていくことの不思議を 時々感じます。 死ぬことを自分で選ぶ場合があります。 否定する人もいますが、自分は自死というのは恥じることでもなく 当然の権利であるし、ひとつの選択肢だと思うので 死んでしまったことは、悲しいけれど、自死を選んだことを責めることは 出来ないです。いろいろな立場や考えがあり、決断したことを誰にも 非難することは難しいと思うからです。 死ぬことで、死んだ人はたぶん、意識がなくなるので、悲しみや 楽しさや思い出を振り返ることは出来ませんが、生きている人は 死んだ人のことを考えたり、思い出したり、想像したりすることで 生きている自分を通して、死んだ人を再現できると思うので 唐突な死というものに、動揺はしても、感情を殺したり、自暴自棄になって 生というものを不安がる必要はないと思います。 だれでもが、いつか一度は死ぬので、 有限である日数を楽しめたらいいかなと思います。 もし、不死であるならば、まぁこの命題は10年後にやればいいか、とか これ食べてみたいけど、いつか食べれればいいか、と後回しにすることが 増えると思います。 限りが、終わりがくるからこそ、自分はせっかちなので やりたいこと、いきたいところは後悔しないように、前倒しで進めています。 死ぬことで、肉体が腐敗します。 日本だと火葬が多いと思います。死んだあとで、肉体が燃やされていくのは どんな気持ちがするだろうとおもうことがありますが、 たぶん、こころもないので、苦しくはないし熱くもないんだと思います。 死ぬ前に、たとえば病気で苦しんで痛かったり、言葉が発せられなくて 何も伝えられないときに、どんなことを思うんだろうって 自分は、想像することがあります。 生きていたときの、感謝? まだ生きていたい執着? 遣り残したことの、未練? 死んでいく自分の絶望? そういうのを考えると、たとえ毎日にちょっとしたいやなことがあっても そんな気持ちに勝る感情は、ないんじゃないかって思って 笑えます。生きているだけで、空が刻々と変化するのをみれるだけで 自分の心で考えて、言葉で伝えたり、音楽を奏でたり、笑ったり、 そういうのが出来るのって最高だなって思います。 死について、考えるとき、自分はこのようなことを思います。 ほんとは、死後の世界や来世についても考えてみたいけど なかなか、生きていることで忙しくて、そこまで手が回らないので もっともらしい本を読んだり、臨死体験について調べたりしてみます。
お礼
この日本ですからひたすら生きることもままなりません でも、死という考えに至ったとき、生きることに苦しみなく、むしろ楽しもうとしている貴方は不謹慎かもしれませんが、すごいと思います 自分も手ごたえのある生き方をしたいと思います ありがとうございました
- hyakkinman
- ベストアンサー率16% (738/4426)
現在55歳、出会いに恵まれた素敵な人生をおくっています。 明日、死が訪れてもまったく後悔がありません。 ドラマ【白い影】の、いかりや長介が演じた末期癌患者・石倉さんのような死に方をしたいですね。 万一、余命宣告があっても受け止めて、いつもと変わらぬ日常をおくりながら、最後をむかえることができそうに思います。 私は、死んだら【無】になる論者です。 「生まれ変わる」とか「地獄・天国・幽霊」など、まったく信じていません。 16歳で亡くなったクラスメイトの墓誌が、私の支えになっています。 【生きているんだもん 幸せにならなくちゃ 生きてゆくんだもん 不幸になんかなるもんですか】
お礼
いつもと変わらないこと、それが幸せなのかもしれませんね 回答者さんのように後悔しないような人生を歩みたいです 長生きなさってください 墓誌の文章が素敵です、困ったときにちょっと覚えておこうかなと思います ありがとうございます
自分は無に帰す方がむしろ納得が行くかなぁと思ってます。 生まれる前の記憶はありません。 簡単に言えばあの状態へと戻るのでしょう。 単にそれだけ…問題はそこへ至るまでの個人的な葛藤ではありますが…。 そりゃ自分が無に帰す、自分と言う存在が消えると言われれば人並みに恐怖はいだきますよ… だけど死なない人がいないのもまた事実ですから…誰もが通る道なんだろうと思います。 ただ、生まれる前と唯一違うのは生きていたという事実がある事です。 残された者達の心の中では思い出としてしばらくは生き続けるでしょう。
お礼
その無の感覚がちょっと怖い気がします。 でも、心の中で生きつづけることは絶対にあると思います 生きたいと思います ありがとうございます
こんにちは。 漠然と思っていることです。 時々死んだら「無」になると言う人が居ますが、そんなこと絶対にないと思っています。 例えば、ヒトラーとマンデラさんや人を助けようとして命を落とされた方々が同じように「無」になっておしまいなんてある筈がないと思っています。
お礼
まわりの人の心にもきっと残ってるはずです 自殺志願者の方は、死んでも誰も心配してくれないという方が時々いらっしゃいますが、きっと自分はそれは違うと思います。必ず生きたという証が残ってるはずですしね。 ありがとうございます
- 0fool0
- ベストアンサー率18% (134/738)
幼い頃は死に恐怖を感じていました 今でも(死の際の)苦しいのは御免被りますが、現在では特段に恐怖は感じません。 というか、判らない事に悩む時間は無駄だと理解しました。 どうせ此方で選べない事に心を煩わせても、空しいだけです。
お礼
気ままに生きる、というか、ただひたすら生きてみたいものです 自分も結論を出してみたいものです ありがとうございます
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お礼
死という言葉と存在が軽率に扱われていることはとても悲しいことですね 現代日本は、より一人一人に孤立してしまっているので、死という存在を共有できずに、初めて自分に直面して後悔することが多い気がします。 それは、現代日本だけじゃないことは言えますが、ある種の黎明期もしれません 真剣に向き合える機会が、誰かが死ぬということじゃなくて、もう少し考える機会があればよいです ご回答ありがとうございます