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深刻な話です。人の死について
私の友人の父が先日亡くなりました。老衰だったのか喘息発作だったのかわからないのですが、一人で生活していて発見が遅れ死後二週間たっていたそうです。 家族もびっくりしたと思うのですが、私はこの話を聞いてかわいそうでした。 もしかしたら、苦しんで亡くなったのではないかとか、誰かがいれば助かったかもしれないとか・・・。 それなのに私の主人は、「好かれてなかったんかも。保険ががっぽり入るんじゃないか」といいました。 一人で亡くなったという本人のせつなさとかひとつもいいませんでした。 そればかりか友人、友人の母も「年金打ち切られるんかね。」「家の中の処分するものあるけどどうすればいい」 と悲しむ姿、涙もありません。 私の父は早くに亡くなり、身内、近所から「生命保険たくさんはいったんじゃない」といわれ、車を買い換えると 「贅沢してるね。お父さんが残してくれたの大事に使わないと」といいました。私は遺産というものはもらっていません。遺品として父の乗っていたバイクをもらっただけ。 人はどうして人の死=お金と考えるのでしょうか。 私は別にきれいごとをいってるつもりはないのです。 確かに残された家族にはお金は必要です。 おかげで今も母は落ちついた生活ができるのですから。 でも、亡くなって直感が金というのは悲しくないですか。 みなさんは知り合いで亡くなった人を聞くとどう思われますか。この質問に答えなどないのですが、どのくらいのひとが死よりも先にお金を考えるのか知りたいのです。
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zzzmamaさんへ こんにちわ、私は多分zzzmamaさんと同じような考え方かもしれません。 春にたった一人大切だった祖母を喪いました。 家族は私から見たら最低でした。 心より金って人って多いんです。 辛いですよね。 本当に人を失ったときは、悲しみで金うんぬんではないのですが、 やっぱりその欲に覆われた人って悲しみより自分が生きて くことに 直ぐ目が向いちゃいます。 人間なんて裸で生まれてきて、裸で死ぬだけなのにね。 私も葬式のときに、それぞれの欲の絡み合いをみて 嫌な思いをしたので、zzzmamaさんが言おうとする 刹那がわかります。 >どのくらいのひとが死よりも先にお金を考えるのか知りたいのです。 私は死の悲しみ、お別れの方が大切だし辛いですよね。 死よりも先にお金に換算する人は、自分が死ぬときに回りの人に同じような扱いしか受けないと思いますよ。。。 個人的には1番かかわりたくないタイプですよね。 気分が悪くなります。 直ぐに金に換算する奴が。
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- cse_ri2
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理屈で考えると、人の生命とお金は等価値ではありません。 お金は働いて得ることができますが、失われた個々人の生命 は、どんなに頑張っても取り戻すことはできないからです。 しかし実際のところ、人が生きるにはお金を必要とします。 生活が楽でなく、目先の自分の生活だけで頭の中がいっぱいに なってしまうと、人の死を悲しむ心を見失い、人が死んだ ことでお金がどうなるか(遺産や年金など)しか考えられ なくなる人がいるのも、一つの現実です。 このことを一番分かりやすく説明しているのが、ディケンズの 『クリスマス・キャロル』 かと私は思っています。 人の考えを変えることは容易ではありませんが、生きている うちになるべく徳を積む生き方をして、自分がカネの亡者に ならないよう、また自分の周囲にカネの亡者を引き付けない ような生き方ができるよう、心がけたいものです。
お礼
客観的意見であり、参考になりました。徳を積む生き方とはどういう感じなのでしょう。心がけって大切ですよね。ありがとうございました。
- naechin
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ご友人とご友人のお母さんは、亡くなったお父さんより自分達の方が好きだし、大事だってだけではないでしょうか?それは、ある意味旦那さんが言われている事が真実だと思います。少なくとも、悲しみに浸ってなどと青い事を言うつもりもないですが、そういう現実的な話を家族以外の前ですることに嫌悪感を感じます。 また、旦那さんにしても「すかれてなかったのかも」はともかく、「保険」云々の話はあくまで他人事とは言え悲しんでる質問者さんの前で思ったとしても口に出すのはデリカシーがないなと感じます。 ご近所にしても同じ。自分はいいことを言ってるつもりで、ただ単に無神経なだけです。「人が1人なくなっていて悲しんでいる人がいる」という事実があるにも関わらず、でばガメ根性で色々と無神経な事を言う人には本当に腹が立ちます。 少し話は違いますが、私の妹が事故にあったとき加害者が大手の企業だった為「慰謝料がっぽりふんだくった?」と聞いてきた人が割といたことにぞっとしました。妹は結果的に障害者となったのですが、「お金よりも元の体に戻せ」と本人も家族も思っていました。何億つまれても体は完全には癒えませんし、その治療に費やした時間も私達が受けた心の傷も癒えません。幸い日常生活は問題なく送れる程度ですが、どうなるかも分かっていないときにもありました。こういう時に人間の本性がでるなと思い、そういうことを言ってきた人たちとの深いつきあいは敬遠するようになりました。 同じ様にお金以上の愛着が相手にあれば、そういう言葉は出てこないと思います。そうでないなら、所詮、そういうことを言う人にとっては他人事なのではないでしょうか?近親者とかそういうことは関係ないです。そういう事を考えると、そんなことしか言えない人は哀れだなとも思いますけどね。
お礼
自分達が大事というのはあるのかもしれません。家族ではないので話すこと自体失礼なのかもしれませんが、私は、友人にいいました。「なぜこんな季節(季節の変わり目って喘息発作が起きやすい)に連絡とらなかったの。行けなくても電話一本出来たでしょ」と。すると友人は「なんでも出来る人だったし、電話かけるとうるさいから」っていいました。亡くなって次の日の言葉とは私には考えられません。何がそうさせるのか。 妹さんのことも家族としてはお金より身体とおもうものですよね。友人はお金なのでしょうね。 今回いろんな話をきかせてもらいましたが、周りだけでなく家族の意見とても共感しました。 ありがとうございました。
- tomo_t_21
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私は、10代の頃に身近な人を立て続けに5人亡くしました。 自分の好きだった人や親しかった人が亡くなるのは当然悲しいです。 でも、その想いを人前でおおっぴらに曝して泣いたり取り乱したり することだけが供養ではないと思います。 故人を悼む気持ちは自分の心の内に留めておいて、時々思い出しては 一人で懐かしむだけでも充分だと思います。 生きている人間が何をしたって、死んだ人が帰る訳ではありませんし。 お金というのは本当に大切なものです。 残された家族が生きていくためにも当然必要なものですが、 故人を丁重に弔うためにも多額のお金がかかるんです。 人並みのお葬式を出して、遺体を葬って、遺品を整理し、 出来ればお墓も用意してあげたい。 そんな想いを実現するためには、やはりお金が必要なんです。 これらを行なうためには、最低限のものでも何十万という費用が 必要なんですよ。 お金に困りながら生きる苦痛は、実際にその経験をしてみないと 判りません。 貧乏生活にだって幸せはあります。 でも、人並みの生活をしている人には解りえない苦労が常に 頭のどこかにあるんですよ。 金の亡者になることが良いことだという訳ではありません。 ただ、故人を弔うための良い環境を作り、自分自身がこれから 生きていくためには、悲しみを露にするだけでなく、現実的な 問題に目を向けることが大切です。 人は誰しもいつかは死ぬものですから、私は死んでからのことを どうこう考えるよりも、今、生きているうちに自分の大切な人に 良い思いをさせてあげたいですね。
お礼
お金の大切さ、わかるのです。泣くじゃくる姿を見たいわけて゜もないのです。私も経験者なのでわかるところもあります。納得いく意見を求めているわけではないのですが、やっぱり考え方の違いなのでしょうね。 私も大切な人へ良いおもいをさせてあげたいです。
- suuzy-Q
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年金生活者にとって、配偶者の死は深刻だ。 確か、半分以下になるんじゃなかったかな。。。 (いや、おいらのこういう記憶はあてにならないのだが) 友人のお母上だって、悲しんでいないってことはないと思う。 でも、子供の友人にまで、泣き伏す姿を見せるほど 幼くない。っていう見方もできるんじゃないかな? それに、悲しみが強すぎると涙って出てこないことがある。 お葬式には雑事が付き物。 これって、どうしてかな?と、 祖母の喪主を務めたおばに聞いた事がある。 現実的な雑事に追われているうちに 気持ちの整理をつけろってことじゃない。 と、答えが返ってきた。。。なるほど。 でも、ご近所や身内からの保険金がっぽり発言は タダのやっかみ。人間の嫌な一面だよな。 せめて、自分はすまい。と思ってはいるものの、 芸能人のように知っているけれど、 知らない人に対しての無責任発言は 自分も知らぬ内にしている事があるんだよなあ。とほほ。 (zzzmamaさんのご主人の発言もこれじゃない?) で、回答。 親が亡くなった時は、たぶん、 悲しい。よりも、お葬式をどうしようか、 誰に連絡を入れなきゃいけないんだ?? とか、雑務に走ると思う。泣くのは、 一通り終わってからじゃなかろうか。 でも、そういう雑務をしなくていい友人知人の訃報には ひたすら、泣いてしまう。泣いてしまっているのだ。
お礼
お葬式の忙しさって私も経験しましたが、本当泣いてられませんね。ただ葬式をしないのです。死後だいぶ経過しているという理由で通夜しない、火葬だけ。儀式を大切にというわけじゃないのですが、せめて最後ぐらいって思っても友人の母は来てくれる人もいないし・・とのこと。 なんかかなしいですよね。友人は「お金ないし・・」というし。私には理解できない出来事でした。 ありがとうございました。
- tatata716
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直接の回答ではないかもしれませんが、投稿させてください。 4年前に母が他界しました。 私は看取るときも葬式の時も泣きませんでした。 それより今後のことで頭がいっぱいでした。 まぁ、亡くなった・もういないという現実がはっきりわかってなかったっていうのもあるかとは思いますが。 周りの人から「苦労しただろう」「賢いねぇ」等の言葉をよくかけられます。 他の方がおっしゃっているように私は腹が立ちます。 あなたに何がわかるんですか、と。 人ごとだから同情できるんです。 はっきり言って、同情のやさしさ・慰めの言葉なんていりません。 だから私が片親だと言うことはほんの一握りの友人しか知りません。 人の死=金ですが。 母の場合は亡くなってから実は父に内緒で借金を作っていたということが判明しました。 母の死の直後に父はどんな思いであちこち飛び回っていたのか考えるだけで胸が痛みます。 身内が亡くなった、食事ものどを通らない、昼も夜も泣き続ける、悲しみにくれ仕事も手につかない。 このような状況なら納得されるのでしょうか。 残された家族は残されたもので今後を見ていく必要があります。 先を見て、その中でのお金の話。 生きていくためです。 まとまりのない内容で申し訳ございません。
お礼
私も今回この質問をだし、一つ一つ読んでいくうちに父のことを思い出し、複雑な思いです。私達家族も悲しみに明け暮れる毎日を送ってきたわけではありません。父にも同じように母に隠れて借金をしていました。それでも悲しくなかったですか。いつもにいる場所にいない、何故かそこにいる気がする。そんなこと思いません?今回私には友人の気持ちがわからなかったのです。私は何年たっても思い出す、涙する。だけど現実は金、なぜそんなにお金の計算ばかりしてないといけないのかって。人それぞれなのですが、身内がなくなった時と周りでひとがなくなったとき立場は違っても悲しみだけは同じではないかと思います。 私も質問と大きく違ってきたみたいです。ありがとうございました
ひとつの考え方として。 あまりに衝撃的な出来事にいきなり直面すると、自分の心の平衡が保てません。 ですから、とっさに、人の死を、カネの話にすりかえるような、防衛機制 (こころの健康を守る働き)がはたらく、という面もあるのでは? 不謹慎といえば確かに不謹慎なのですが、そうでもしなければやってられない、 という事も世の中には多いですし。 表面上の態度と、実際の心のうちが、まったく逆であるという事も、 こうした場合は、しばしばあるのではないでしょうか。
お礼
なんとなくわかる気がします。お金とは関係ないのですが、父が亡くなり、葬儀に母は父の棺桶を殴りながら泣き崩しました。その時母は「死んでないんよ。」といったのです。母は、その時のことを覚えてません。母はきっと死=お金ではなく、死自体が受け入れられなかったのだと思います。その時のことを思い出しました。 ありがとうございました
- ninjinsan
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40才代後半の一人として述べさせてください。 アナタのように純粋に人の死について悼む気持ちは、 けして無くしてはいけないものだと私も思います。 そして優しいアナタの心根がとても温かく心に沁みて きます。 質問で書かれているように、まるで人の死=お金の問題 という言葉は正直誰もいい気持ちではない言葉です。 でもそんな悼む気持ちも表さずに、お金の話に傾いている人々は子供の頃から人の死=お金 という方程式をもっていたのかと言いますとけしてそんなことは無いはずです。 ではなぜ・・・、そしていつの間に人の心を・・・。 誰もが子供の頃や若かりし頃は、純粋だったはず・・・。 昔の俳人で松尾芭蕉がこんな句を詠んでいます。 『人の心と 降る雪は 歩むにつれて その道を忘れる』 << 芭蕉 >> ただアナタの周りから聞こえてくる人の死を お金の話題として口にしている人々だって、 本当は悲しいものは悲しいはず、と私は思います。 でも少し「道」を忘れているだけなのだと思ってみては如何でしょうか。 人の悪い面ばかり見てしまう達人になるより 良い面を見落とさない達人でありたいですね。
お礼
達人ですか・・難しいですね。でも今の気持ちを大切にしたいと思います。良いことを聞いた気がします。 ありがとうございました。
- ninoude
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こんにちわ! ・死=過去のこと ・金=将来のこと だからではないでしょうか? 心配事(関心事)と言うのはこれから起きる(かも知れない)ことに対することで、過去に起きてしまったことを心配することはないですよね。 ・死→不安→心配→生活(お金)って感じ? 確かに人ひとりの死について思うことは人それぞれある(かわいそうとか…)と思いますが、それについて人と会話をすることはある種、噂話のレベルに等しいのかなと… 真剣に「死」について議論するのとは意味合いが違います。
お礼
議論というわけではなかったのですが、ただ私の考えというのは通用しないのかと思ったのです。お金と死って同じなのかなとも・・。私としては死と関わりのある仕事をしてますのである意味真剣です。 ありがとうございました。
確かに人の死は辛いです。私の叔母(母の父の妹)が亡くなったときはショックでした…死因は大腸癌との事。 当時大学生で別暮らしでしたので告別式に出ました。 ですけど、周りは泣いてないんですな。 お経を聞きながら不祝儀を持ってくる人に会釈する。料理食べて酒飲んで焼かれるのを待つ… 正直『なんじゃこりゃ?』でした… が、いざ焼かれ、まだ熱風がある骨を見ると泣き、あいばさみで拾う時も泣き。 でも現場の人はサラッと『入れ歯はどうしましょう?』と平然と聞くわけだ。 ほとほと人間って奴は…と思った瞬間でもありますね。 つまり『辛きゃ泣く』『悲しきゃ泣く』それだけなんだな。 そして『周りが泣いてりゃ泣く』と言うのもある。 火葬場に働く方は仕事ですから泣くわけもなく、料理食べている最中は泣くわけもない。 要所要所で泣き、もらい泣きし…その程度です。お葬式なんてものは… 『死んだ』と告げられた時に泣いていないならオイオイと突っ込むけれど。 一々泣いてたら仕事にならんのです。その後の生活もある。 数日経てば、うっかり故人を呼んだ時『お母さん!お父さんはもう死んだでしょ?(笑)』なぁんて笑い話になるんだな。 だけど、四十九日で泣き、三回忌で泣き、ふと良い思い出がよぎると泣く。でも墓参りで泣くのは極稀なんだよな… 私は涙もろい方ですが、日夜知人が死んだぐらいで泣きはしません。 それが例えばこの回答を書いたり、思い出が浮かぶとしんみりとしてしまう… 正直人間てそんなもんじゃない?と思います。そして資本主義国ですからお金の話にどうしてもなってしまう。 故人の思い出を振り払うべくわざとそういう話題をしているのかもしれませんよ? 一々泣いていては先に進めませんもん。 どうしても泣かせたければ、故人との良い思い出を涙ながらに話して見ましょう。 必ずといっていいほど泣くはずです。まぁ保険金詐欺をしているならば泣かない人がいるかもしれませんが…
お礼
Cranさんの回答読んでて和みました。人間って都合よく泣けたりするんですよね。HPもみました。とても気に入りました。お気に入りに追加して後からじっくり読みます。 ありがとうございました。
- ron777
- ベストアンサー率32% (32/100)
「人は・・・」というよりは、人の周囲を含めた環境・土壌・家系に大きく左右されると私は思っています。 商売屋の家に育った人とその周囲も自営業者が多い家系と公務員・政府系機関に勤める人が多い家系、サラリーマン一筋の家庭が多い家系、自給自足系農家・漁業等の家系と色々だと思いますが、結構纏まってしまう傾向が有ると思います。 自営業者が多い家系は、お金で苦労した経験を大なり小なり持っていますから、「何事もソロバン!お金」的発想になりがちです。 これが、政府系機関の多い家系となると、表立って「金・金」と言わない傾向が有ります。お金は、天から降ってくるか、地面から沸いてくる的な思考かも知れません^^; 「まずお金!」と言った人と貴女の発想の違いは、上記から来るもので、就いている職・育った家庭で、試しに人を分類してみると、気分も若干晴れるのではと一考しました。 個人的には、お金第一主義悲しい事ですが・・・
お礼
ronさんの意見は、なんか違った意味でそうなのかと納得しました。家系って恐ろしいです。 ありがとうございました。
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お礼
今回この質問し、回答してくださった方々の考えものすごく勉強になり、私自身も反省すべきこともありました。 質問させてもらって良かったと思っています。私の気持ちを押し付けてしまうようなお礼をいったかもしれません。 その中で共感してくださっているpapapikoさんの意見うれしく思います。私が亡くなるとき一人でも本当にお金なしで悲しんでくれる身内がいてくれること願い、娘達を育てて行きたいです。ありがとうございました。