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特攻隊「振武寮」について

特攻隊として出撃したにもかかわらず、何らかの理由で生還された方々が幽閉された「振武寮」というものがあったことを知りました。その方々は、表向きは戦死したとされ、家族にも戦死の通知が送られたとのこと。その方々は、終戦、戦後をどのように生きてこられたのでしょうか。

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回答No.4

”月光の夏”という本か映画をご覧になったんですか?「振武寮」という場所が第六航空司令部(福岡県)にあったとの事ですが、佐藤早苗氏の”特攻の町・知覧”に書かれてあるものしか私も見たことがありません。ところで、ご質問についてですが...知覧や加世田等から特攻出撃していった当時の方々の想いは、戦後生まれの世代には想像を絶するものがあったと思います。ご存知のように、出撃する時点で既に戦死したとして親族へ伝わっていたようですので、理由はどうであれ引き返した時の無念さ・嫌悪感・共に飛び立った戦友や親や郷里への詫、”もう一度チャンスをくれ!次は必ずやってみせる”と懇願したのではないでしょうか?再出撃を許可されず「振武寮」のような施設で軟禁されていた方々はそんな日々を過ごしていたと考えます。結果として、終戦後どのように過ごされたかは存じ上げませんが、あのような状況下であれば、一切を語らず過去を封印したでしょうし、戦死した方々のためにも一心不乱に戦後復興に身を呈したのではないでしょうか?「振武寮」ではありませんが、実際に特攻隊で生還された方が語っているものがありましたので、一度ご覧になって下さい。

参考URL:
http://www.hi-ho.ne.jp/tosio-okuno/touko_seikan.htm
pea3
質問者

お礼

大変参考になりました。ありがとうございました。

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  • toybox
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回答No.3

すみません、追記します。 祖父は海軍だったけど、参加したのは鹿児島の陸軍航空隊の基地で『チラン』と聞きました。チランでは沖縄海戦等に参加したようでしたけど・・。

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  • toybox
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回答No.2

(1)海軍特攻隊で出撃出来なかった(機体の故障、天候不良、その他隊員以外の要因)方は、特攻隊専用寮とは別の特別寮で入り口に近いベットで待機したそうです。理由は、入り口に近い=滑走路の機体に近いからだそうです。その特別寮のことなのかな? その後出撃の際は『一番に死んで来い!』と上官に言われたらしいです。海軍の掟では『自分の失敗は自分自身で償う』と言う湯のがあったらしい?!陸軍は分かりませんが、祖父が海軍で終戦間際特攻隊に志願したそうです。(祖父自身は戦時中は大陸で陸軍の食事係だったと言ってましたが、亡くなった時に、祖父の姉の方が海軍特攻隊だったと言ってました。終戦後は生きて帰ってきた際、家族は泣いて喜んだそうですが、村長から『なんで生きて帰ってきたんだ?』と言われたそうです。その後、上京して普通に生活を送ったのですが、結局上京してから一度も帰郷してませが・・・。 (2)ただ、戦闘終結からGHQの占領が始まるわずかな期間 特攻隊員はどこかに集められて寮生活を送ったそうです。それが『振武寮』??かもしれませんけど・・。

pea3
質問者

お礼

ありがとうございました。 ただ、「振武寮」とは、機械の不調等理由がなんであれ、特攻から引き返した「弱虫」とレッテルを貼られてしまった方々が、その存在が軍の士気を落さないよう、世間からは抹殺されて佐賀県(?)の住居に軟禁されていた現場らしいです。もしそのような事情をご存知でしたら是非教えてください。

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回答No.1

回答になっているかどうか分かりませんが・・・ 以前、帝国海軍所属だった方の話を聞いたことがあります。特攻隊ではありませんでしたが、乗っていた船が撃沈され、運良く生き残り、米軍の捕虜になる。 敗戦後、帰国して郷里に帰ったら自分の葬儀が済んでいて、墓まで建ててあったとか。そのせいで、一時は村中大騒ぎになったが、だからといってどうって事は無かったそうです。 結局のところ、戦後は普通に生活していたと思います。

pea3
質問者

お礼

ありがとうございました。 ただ、今回は特に「振武寮」について知りたかったので、もしそれについてご存知でしたら是非教えてください。

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