現代人が持っているイメージの問題ですので、幾つかの要素が重なって個人のイメージが作り上げられたのかと思います。
単に戦費調達のための個人的な倹約ということが原因ではないのではないのかと思います。
時代の文化的な背景
織豊時代あるいは安土桃山時代と呼ばれる時代の、美術品などの遺産がもたらしたイメージ
拠点とした地方、即ち関東と関西が持っているイメージ
信長と秀吉は関西地方を拠点としていたのに対して家康は関東を拠点としていました。
歴史的に必要とされた政治的、経済的な政策の違いからくるイメージ
信長は室町時代から続いていた、あらゆる習慣や権益を破壊する必要があり、それを積極的に推し進めました。
比叡山を焼打ちしたのも、仏教を敵視したのではなく、比叡山が平安時代から持っていた政治的な権力や権威や影響力を破壊殲滅しただけです。
室町時代から市場を独占していた座を拠点とする豪商を潰して、今で言うところの市民への市場開放である楽市楽座という政策をとりました。
庶民も何がしかの富を手にいれられるようになりました。
このことは庶民に好感を持って受け入れられました。
鬱積していたものが取り払われたことによる明るいイメージが醸し出されました。
宣教師を優遇することで、南蛮文化と呼ばれるヨーロッパ文化を積極的に導入しました。
南蛮文化はスペイン、ポルトガル、イタリア(ローマ)など南欧の文化ですから、極めて明るくて華やかな文化でした。
秀吉は、通商を重視して商業経済を発展させました。
石見銀山の開発時期とも重なり、当時の日本は世界有数の銀の産出国となっていました。
大航海時代を迎えていたヨーロッパでは通貨としての銀の需要が旺盛でした。
結果として、秀吉の経済政策は銀を輸出して金を輸入する形となり大量の金を近辺に蓄積しました。
金張りの茶室を作るなどということをしたこともあって、秀吉には金が持つイメージがそのまま纏わりついてしまいました。
家康は都市というものが未発達な関東平野に新たに都市を建設するということを余儀なくされました。
飯の種ににもならない書画骨董、歌舞音曲よりも、土木建設に注力せざるを得ませんでした。
どうみても地味です。
家康は、農村を振興して、農業経済主体の政策を取りました。
ケチとかなんとか言う貨幣経済からくる価値観とはもっとも縁遠いイメージとなりました。
何処にも銭金がない、ケチな生活ということになります。
大阪で書かれた江戸初期の書物にも、浪速の庶民が武家を評価するのに石高を銀に換算してオレの方が金持ちで偉いといっているのは、考え違いだと書かれています。
家康以下徳川幕府は大名の経済力を削ぎ取る事に腐心しました。
江戸の街を作る際にも、外様大名に対しては地図の上で海面を割り当て、住みたければ自分で埋めろとやりました。
現在の日比谷公園一帯から新橋浜松町にかけては全部埋め立て地です。
一帯は大名屋敷が軒を連ねていました。
江戸城の築城土木工事も工区を割り当てて、やれ!というだけで金は出しませんでした。
まぁ~このへんもケチ!ということになるのかもしれません。
ざっと、そんなこんなで右代表である家康はケチというイメージになったのでしょう。
お礼
ichikawaseijiさん いつもありがとうございます。 なるほど、あくまでイメージの問題なんですね。 浪速の庶民の話は知りませんでした。確かに考え違いで滑稽ですね。 いつもありがとうございます。またお願いします