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花の色はうつりにけりな
花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身よにふる ながめせしまに (古今和歌集113) 百人一首にも採用された小野小町の歌です。古来より、2句切れ(五七、五七七)か、3句切れ(五七五、七七)か、で論争があります。近年では、「いたづらに」が上2句と下2句の両方にかかるといふ考へが主流となつてゐるやうにおもはれます。 では、あへてこの歌を「切る」とすれば、2句目ですか、3句目ですか。
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1)桜の色香の移ろい 上七「移りにけりな」と、助動詞終止形「気付きのケリ」に更に終助詞「な」のダブルで詠嘆を強調した時点ではっきり切れます。 2)わが身の虚しさ、詰まらなさ 上三句目の五「いたづらに」は下句の「世にふる」に掛かって「わが身」へと焦点が移ります。 3)「ふる」に加えて「ながめ」の縁語の強さ 「いたづらに」がこの末句にまで掛かってくること。しかも全てわが身の「涙」のみならず「雨」の縁語であることの強調振りから、「…せしまに」と持続性が余韻を超えて高潮し、ついには上五七句へと還元され連環付けされてしまいます。 4)漠然から判然の二重性へ 降る雨、眺めていたうちに⇒上五七句「花の色は うつりにけりな」に再び戻されて、花とわが身の二重性の結構が判然となる。 そして、その時初めて上三句目の五「いたづらに」が全篇に流れる通底音として利いていることに気づかされる。 さくらが色あせた⇒私も虚しく日を過ごした⇒ただただ様子を見ているばかりで。 上句に戻り、 ⇒いたずらにこの長雨で桜の色香が移ろった ⇒いたずらに私の容姿を移ろった ⇒いたずらにめそめそ悲しむばかりで ⇒いたずらにあなたを去らせるほどに
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- kine-ore
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#2です。 >私はどうしても、2句で切れてしまひます。切れた時間で、「うつりにけりな」を考へつづけます。小町が訴へたかつたのは、桜が色あせることや、顔がブサイクになることではなく、心変りしてしまつたことではないのか、そんなことを妄想してゐます。 : 実にごもっともな「妄想」でしょう。 上五七の第一印象は「あなたの心は移ろってしまったのね!?」(詠嘆1(断定)のケリ!+詠嘆2(未練)の終助詞?)を感じます。 この歌の直前の「散る花を…わが身もともにあらむものかは」からの流れからの影響も受けざるを得ないですから。 ただ、「古今集」では「巻2春歌下「落花」」に収められている経緯から、一般に「桜の花の移ろい」を第一主題として意識せざるを得ない面もあります。 また、百人一首としては、「世を憂し」として「宇治山」への<憂し><隠棲>を詠った歌と、「行くも帰るも分かれては」「知るも知らぬも」の逢坂の関の<別離>の歌に挟まっていますから、どうしてもあの人の心変わりへのダメージの歌にも思えてしまいます。 ともあれ「花の色」だって、「花」は中身の不誠実、「色」は愛人・情人の意ですから、つまりは次の歌のように…。 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける http://manapedia.jp/text/index?text_id=2154
お礼
妄想におつきあひくださり、ありがたうございます。 >>この歌の直前の「散る花を…わが身もともにあらむものかは」 >>からの流れからの影響も受けざるを得ないですから。 単独ではなく、勅撰集のなかの「流れ」としてとらへる読み方は、私も好きです。「社会」を感じさせます。 >>百人一首としては、........ 百人一首は、恋歌もしくは恋歌もどきがほとんどですので。 >>あの人の心変わりへのダメージの歌にも思えてしまいます。 私の妄想は、小町の「上から目線」を考へてゐます。「自分の心変りのせいで、たくさんの男が苦しんだのね。かはいさうなことをしたわ。」 この時代の和歌の常識とは正反対ですが、小町ほどの女性であれば、そんなことを考へたくなります。 >>色見えで移ろふものは.......... これは古今集の恋歌ですね。 こんなに資料を提示してくださつて、ありがたうございます。私は妄想のみです。このQ&Aサイトは、書籍やネット情報の受け売りが多く(それが悪いわけではありませんが)、自由な意見がもつと出てこないものかと願つてゐます。今回のやうな回答をいただけると、質問をした甲斐があります。ありがたうございました。
- bgm38489
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>>あへてこの歌を「切る」とすれば 三句目ですね。花の色は、いたづらに変わる。私の容貌と同じように。 この頃の短歌は、「あそび」というものがありますから、上二句と下二句にかかるという解釈の方がいいですが、どちらかを選べと言われたら、上二句です。
お礼
おはやうございます。先日は、日本語の韻についての興味深いお話をありがたうございました。私は和歌は、口に出して読むことが多いので、韻なども気になります。 私の場合、この小野小町の歌も、声にだすと、「うつりにけりな」の「な」で切れてしまひます。(質問文にもそのやうに書きました。) >>この頃の短歌は、「あそび」というものがありますから、 >>上二句と下二句にかかるという解釈の方がいいですが 両方にかけたほうが、世界が広がります。bgm38489さんのお考へが、現在の定説なのかもしれません。ありがたうございました。
お礼
こんばんは。お名前の意味はプロフィールにお書きになつてゐるのですね。私には初見です。あとで調べてみます。 >>「な」のダブルで詠嘆を強調した時点ではっきり切れます。 さうなのです。私には、この印象が強すぎて、純然たる2句切れのやうに読めてしまひます。 >>「涙」のみならず「雨」の縁語であることの強調振りから 「涙」とみる解釈は、すばらしい。花と容姿に限定して、感情にふれない解釈には、つねづね疑問を感じてゐます。こんなお話をうかがへるのが、Q&Aサイトの魅力です。 >>その時初めて上三句目の五「いたづらに」が全篇に流れる通底音として >>利いていることに気づかされる。 これが、現代主流の読み方ですね。 私はどうしても、2句で切れてしまひます。切れた時間で、「うつりにけりな」を考へつづけます。小町が訴へたかつたのは、桜が色あせることや、顔がブサイクになることではなく、心変りしてしまつたことではないのか、そんなことを妄想してゐます。根拠はありません。 貴重な御意見、まことにありがたうございました。