帝政というのは、共和制のシステムに内包されています。
皇帝(インペラトール)は、最高神官職やプロコンスル、護民官の官職をひとりでもち強大な権力を有していたものの、特に初期では(アウグストスなどは特に)必ずしも執政官にはなっているとは限りませんでした。
執政官というのは共和制ローマ時代の元老院が認めた最高指揮官であり、彼としては現代の大統領と同等と考えていた役職であり、執政官を毎年2名選出し交代することで王政につながる独裁者を排除する狙いがありました。
共和制ローマは、そもそも暴君だった王を追放して共和制になったため、当初は執政官でさえ連続で選出されることはなかったぐらい、君主制嫌いだったといえます。
しかし、時代が下り属国まで持つようになると、元老院が最終決断する寡占政治では判断が遅く、さまざまな人間関係が役割に影響して、有能な人物が常に適正な役職につけるとはかぎりませんでした。また、元老院などにつならる富裕層と兵士として徴兵される平民との経済的な差もどんどん大きくなり、それを適正にコントロールするのがむずかしくなってきたのです。
これを最初に解決しようとしたのはスッラですが、彼は独裁官という非常大権を手に「独裁」をすることで一時的にローマの政治を改革したのですが、粛清された人も多くスッラが他界したあとは元に戻ってしまいました。
なぜなら人々は独裁=君主制につながることを恐れていたからです。
次に皇帝制に近づいたのは、事実上の皇帝制の生みの親であるカエサルですが、かれも終身独裁官に就任したことで、元老院の「君主嫌い」に火をつけ、結果として暗殺されてしまいました。
「ブルータスよお前もか」はさまざまなブルータスが上げられていますし、さまざまな「お前もか?」の意味が考えられていますが、煎じ詰めれば「お前のように若くて聡明な男が、今のローマの現状をみてもまだ独裁制(後の皇帝制)の重要性がわからバカ者か!」という言葉になります。
グラッスク兄弟による改革の失敗以降、聡明な人々には共和制、とりわけ元老院制の限界が自明のものであったからです。
そしてカエサルの後を継いだオクタウィアヌスは、人々の「独裁嫌い」をいち早く察知して、元老院から贈られた独裁官を拒否し、それ以外のカエサルがもっていた権限を受け継ぎます。
アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」と述べています。
この時点で、元老院すらスッラの改革・カエサルの改革と独裁制の利点を段々理解しつつあったことです。しかし、独裁ならまだしも君主制になってしまった場合、元老院の権威と権利は一気に瓦解してしまいます。これがカエサルを暗殺させた、政治的な圧力になっているのです。
そのためアウグストスから3世紀の危機の時代まで、寡頭制の中にひそやかに皇帝制を埋め込み、誰が見ても独裁なのに、仕組み上は「いや、第一人者の特権があるだけだよ」というように君主アレルギーをうまくごまかしていたのです。
しかし、この体制が300年近くも続き事実上の独裁制の元での繁栄を享受した後では、君主アレルギーも相当に薄まったため、軍人皇帝時代の危機からの改革として皇帝が事実上の元首であるようになったのです。
質問者様の言を借りて書き直せば
初期の皇帝制は
「皇帝は、市民の第一人者として、元老院から大権を委託されたようにカモフラージュし、君主アレルギーからの抵抗を薄めたため」一見、共和制のシステムのように見える、ということになります。
現代でも「解釈を変える」ということが行われていますが「解釈を変える」とまったく違うシステムになってしまうこともありうる、というのがここで学ぶべきことだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。参考にさせていただきます。