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もし、仇討を復活させたら
日本人は死刑が大好きです。それは 死刑に仇討的な要素を求めている部分があるかもしれません。 でも、もし 日本で仇討を復活させたら どうなるでしょうか? 仇討とは 相手にも反撃の権利が与えられ、自分が斬られれば 相手が減刑、または無罪にさえなりえます。しかし、今の日本人にそんな 気概と潔さがあるでしょうか? そうなれば、死刑が廃止になるよりも 無念さに泣く人も増えそうです。 そこで質問です。みなさんは、もし、日本で 仇討を復活させたら 被害者遺族は救済されると思いますか? なお、ここでは 憲法に反するとか、前近代的とか、国際的非難を浴びるといった面は 度外視して考えるとします。
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世情の安定した江戸時代以降の仇討ちは被害者による報復、加害者への処罰が目的ではないことに着目すべきですね。 戦時体制から平時になっても武士の定員は変わらないので幕府、各藩は過剰人員を抱えていたので人員整理の意味から当主が殺害されたら相続を認めず取りつぶす、余りに理不尽なので成功率が非常に低い仇討ちに成功すれば取りつぶしせず相続を認めるというエクスキューズを残しただけ。 戦闘のプロがやっても成功率が低いのですから現代では一般人には能力もなければそれによって自分と子孫の職業、収入を確保するというモチベーションもありませんね。 せいぜいヤクザの抗争を合法化するくらい。
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- staratras
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No9です。少し補足させてください 詳しいご説明で、質問者様の考える「仇討」の仕組みはおおよそわかりました。公の司法制度の一部(選択肢のひとつ)として組み入れることになりますが、これでは被害者親族による被害者と一族の名誉回復という、昔の「仇討ち」の最大の意義が薄れるのではないかと思います。 >もともと、無期懲役または死刑に該当するでの、加害者が決闘で勝てば、刑の減免のチャンスもあります。 前の方のご回答にもありましたように、昔の「仇討ち」の表向きの最大の意義は、決して公権力による処罰の代行や、遺族による私的な復讐の奨励ではなく、殺されたという被害者や親族の不名誉を、被害者の親族が加害者を討つことによって自力で回復することにありました。つまり「仇討ち」は建前の上では被害者側に名誉回復の機会を与えるためのものであって、「仇討ち」が失敗したとしても被害者側が名誉回復の機会を十分には活用できなかったに過ぎません。(たとえ返り討ちにあっても「仇討ち」を試みたことだけでも立派であるという評価もあったでしょうが…)「仇討ち」の成否によって公権力による処罰が変わるのはおかしなことです。 ところがこの「殺されたことによる被害者(と一族)の不名誉」という考え方は現代の日本では希薄で、理解され難くなっています。しかしこの考え方が理解されなければ、名誉回復の手段としての「仇討ち」は社会的な意味(正当性)を持たず、単に私的な復讐を公権力が追認するだけのことになってしまいますので、あえて復活させる理由がなくなると回答者は思います。中世や近世に「仇討ち」が行われたのは、昔の人には「気概と潔さ」があったというような個人的な資質の問題ではなく、昔の人(特に武士)にとっては自分の家や一族の名誉を守ることが最優先であったということに尽きると考えます。「名誉を重んじ、家を個人に優先させ、一族を家に優先させる道徳」を復活させたあとでなくては、「仇討ち」を復活させることはできないでしょう。 しかしこの「自分の家や一族の名誉を守ることが最優先で、家を個人に優先させ、一族を家に優先させる道徳」は口先だけのきれいごとではなく、鴎外の「阿部一族」(熊本で寛永年間に起きた事件がもとになった小説)にあるように、「一族の名誉を守るためならば、主君に反抗して一族すべて討ち死にしても構わない」という過激な思想も含むものですから、21世紀の日本で通用する考え方ではないことは確かです。 >冤罪の可能性があったとしても、被疑者は遺族との決闘に勝って無罪を証明することになります。 これは乱暴な議論です。「仇討ち」を昔のように刀による勝負だとすれば、冤罪を晴らせるかどうかはその人の剣の腕次第ということになってしまいます。加害者が誰であるかを確定させるのは「仇討ち」以前に行われる真っ当な司法手続きによる必要があり、これだけは「仇討ち」を復活させるか否かにかかわらず、簡略化できないでしょう。 >心のケアを考えるのなら、命を命で償うという 日本人の固定観念を見直す必要があるでしょうね。 ご質問を拝見して思い出したのは、小泉八雲の「停車場にて」("At A Railway Station")という短編です。これは明治26年に九州の熊本駅で実際にあったことがもとになっているそうですが、命を命で償うということの意味を深く考えさせられる作品です。(「阿部一族」も「停車場にて」も「青空文庫」にあります)
お礼
再度ありがとうございます。 >公の司法制度の一部(選択肢のひとつ)として組み入れることになりますが、これでは被害者親族による被害者と一族の名誉回復という、昔の「仇討ち」の最大の意義が薄れるのではないかと思います。 死刑賛成派の主張の一つに「昔は 仇討があった。」と言うのがあります。しかし、私は 仇討というのは 遺族の復讐感情を満たすのが第1の目的ではなかったと思うんです。 >「仇討ち」の成否によって公権力による処罰が変わるのはおかしなことです。 ていうか、日本人は 武士道的な美学を失っても 因果応報の考えが根強いので、日本人の価値観に馴染まないと言った方が正確かもしれません。 >これは乱暴な議論です。「仇討ち」を昔のように刀による勝負だとすれば、冤罪を晴らせるかどうかはその人の剣の腕次第ということになってしまいます。 確かに乱暴ですね。しかし、現代だって 同じ犯罪を犯しても 金持ちが凄腕の弁護士をやとうのと、 貧乏人に国選弁護士がつくのとでは違いますからね。 >ご質問を拝見して思い出したのは、小泉八雲の「停車場にて」("At A Railway Station")という短編です。 わざわざ、買うまでもないでしょうけど、今度 図書館に行ってみて あったら借りて読んでみようと思います。
- key00001
- ベストアンサー率34% (2878/8340)
> 日本人の多くは key00001さんみたいに ロジカルに考えるのが苦手でです。 「国際成人力調査」において、OECD加盟国の中でトップクラスの日本人が、「ロジカルに考えるのが苦手」であれば、世界はもっと苦手です。 設問もそうですが、アナタは根拠の無い「個人的な思い込み」を前提に、理論を展開しているので、以降もグダグダなのですよ。 アナタも日本人なら、もう少しロジカルに考えてください。
お礼
再度ありがとうございます。 key00001さんと議論するつもりはありませんが、日本人の大部分は key00001さんみたいに頭がよくないということですよ。ですから、ご自分の価値観を基準に 典型的な日本人像を考えると大きな落とし穴に はまることになります。頭のいい人ほど、苦手な傾向がありますけどね。もっとも、私は key00001さんの考え方も 模範からは かけ離れていると思いますけどね。 >「国際成人力調査」において、OECD加盟国の中でトップクラスの日本人が、「ロジカルに考えるのが苦手」であれば、世界はもっと苦手です。 「国際成人力調査」において、OECD加盟国の中でトップクラスであることと、ロジカルに考えられるのは 別問題です。key00001さんが 関連付ける根拠は何ですか? TOEICのスコアと 日本人の平均的英語力の関係みたいに当てにならないと思いますよ。 >設問もそうですが、アナタは根拠の無い「個人的な思い込み」を前提に、理論を展開しているので、以降もグダグダなのですよ。 このサイトは質問者も回答者も 最初に正しい視点を決めてしまう傾向にあります。ということは 色んな視点から物事を考察するのが苦手だということです。 この質問は 私自身の考えと言うよりも、一つの視点を仮定し、その上で質問を出してみました。 このサイトには色んな回答者がおります。考え方も様々です。(他のサイトに比べると、ステレオタイプな傾向は少しありますが。) それと、このサイトは 対戦的・説諭的な回答がつきやすい傾向があります。
- staratras
- ベストアンサー率41% (1498/3648)
例えば殺人事件に限定して、被害者の親族による加害者への「仇討ちを復活させる」と仮定して、加害者に対する公的な刑罰はどうするのでしょうか。 公的な刑罰を存続するとすれば、死刑であれば「仇討ち」は不可能となりますし、有期刑であってもその期間中(取り調べ→裁判→服役中)は「仇討ち」ができません。被害者側にとっては長期間待たされることになり、加害者側にとっては公的な刑罰を終えたのちにさらに「仇討ち」が待ち構えているという二重の刑となります。 かといって、公的な刑罰を廃止してしまえば、被害者側の事情で「仇討ち」ができない場合は「お咎めなし」ということになってしまいます。 現実的な解決としては、被害者側が「公的な刑罰」か「仇討ち」かを選択できるようにすることくらいしか思いつきませんが、その場合でも被害者側の親族内で意見が分かれた場合どうするのかや、「仇討ち」が失敗した場合は、加害者に公的な刑罰を加えるのかどうかなど問題は山積しています。「仇討ち」が失敗したら公的な刑罰を加えるとすれば、やはり加害者が二重の刑罰を受けることになります。 実は「仇討ち」が一定のルールを守れば公に認められていた江戸時代でも、「殺人」を行った者は公的な処罰を受けることが原則であって、「殺人事件すなわち仇討ち」ではありませんでした。「仇討ち」が日常茶飯事であったとまでは言えず、「仇討ち」を公に認めてもらうには所定の手続きを事前に行う必要がありました。こうした手続きを踏んで「仇討ち」の許可を得、他国(外国の意味ではない)に逃亡した加害者を追跡して発見し、首尾よく討ち果たせたのは幸運に恵まれたごく一部の人だけでした。 そこで現代の日本で「仇討ち」を復活させるとすれば、少なくとも「被害者の親族による事件の真の加害者に対する正当な「仇討ち」であるか否か」を審査する司法手続きが必要になることは間違いなく、現行の刑事裁判と事実認定の部分においては同様のことを行うことになるでしょう。そうした手続きを踏んでまで、「仇討ち」をしたいと考える被害者の親族はほとんどいないのではないかと考えます。 この「仇討ち」を行えない被害者の親族はもとより、ごく少数の「仇討ち」を成し遂げた人たちにも心のケアが必要になる可能性があり、全体として被害者遺族の救済には決してつながらないと考えます。
お礼
回答ありがとうございます。 >例えば殺人事件に限定して、被害者の親族による加害者への「仇討ちを復活させる」と仮定して、加害者に対する公的な刑罰はどうするのでしょうか。 死刑は留保し、拘置所または留置所に収監することになります。 >公的な刑罰を存続するとすれば、死刑であれば「仇討ち」は不可能となりますし、有期刑であってもその期間中(取り調べ→裁判→服役中)は「仇討ち」ができません。 裁判を簡素化し、判決が出た後に、遺族に仇討申込み権が与えられます。もし、冤罪の可能性があったとしても、被疑者は遺族との決闘に勝って無罪を証明することになります。 >加害者側にとっては公的な刑罰を終えたのちにさらに「仇討ち」が待ち構えているという二重の刑となります。 二重の刑にはなりません。もともと、無期懲役または死刑に該当するでの、加害者が決闘で勝てば、 刑の減免のチャンスもあります。 >実は「仇討ち」が一定のルールを守れば公に認められていた江戸時代でも、「殺人」を行った者は公的な処罰を受けることが原則であって、「殺人事件すなわち仇討ち」ではありませんでした。 仇討を復活させても、加害者は刑務所または拘置所に収監されるので、処罰からは逃れられません。 >そうした手続きを踏んでまで、「仇討ち」をしたいと考える被害者の親族はほとんどいないのではないかと考えます。 私もそう思います。まあ、質問でも書きましたが、今の日本人は 昔の武士のような 気概と潔さを持ち合わせている人は少数だと思います。 >この「仇討ち」を行えない被害者の親族はもとより、ごく少数の「仇討ち」を成し遂げた人たちにも心のケアが必要になる可能性があり、全体として被害者遺族の救済には決してつながらないと考えます。 他の方も仰っておりましたが、仇討の最大の意義は 遺族の復讐心を満たすものではありません。 心のケアを考えるのなら、命を命で償うという 日本人の固定観念を見直す必要があるでしょうね。
- wakaranyo2
- ベストアンサー率8% (81/940)
封建時代の基本ルールです。やったらやられるとは、核もそのルールで用いられて秩序を築いています。秩序を保つ大切なものです。そして、合意点がうまれるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 アメリカの同時多発テロも やられたらやり返すの論理ですけどね。 核に関しては 抑止力とかミリタリーバランスの問題で、封建時代の基本ルールとは関係ないと思いますけどね。
- key00001
- ベストアンサー率34% (2878/8340)
> 日本人は死刑が大好きです。 「死刑存置の容認派が多数」≠「死刑が大好き」ですが? > 憲法に反するとか、前近代的とか、国際的非難を浴びるといった面は 度外視して考えるとします。 「刑法で仇討ちを認める」と言う法律的な話しにおいて、そんなコトは不可能でしょう。 言い換えれば、それら現代人の感覚を度外視して考えれば、「実際に仇討ちと言う制度は存在した。」と言う事実に過ぎません。 仇討ちは時代の進化で淘汰された制度であって、何ゆえ淘汰されたか?と考えれば、不完全,未発達な要素を含むからで、その中には当然、被害者遺族の救済に関しても、不完全や未発達であったからと言う部分も含まれるでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >「死刑存置の容認派が多数」≠「死刑が大好き」ですが? 日本人の多くは key00001さんみたいに ロジカルに考えるのが苦手でです。 それでも、死刑には矛盾点や疑問点を認識しつつも、死刑の存続に強く執着するのは やはり、好き嫌いの問題の範疇でしょう。 ある人は、死刑の抑止力を挙げるけど、抑止力のないことが証明されても 考えをがんとして曲げません。 また、ある人は遺族感情を挙げますが、これも、問題点を指摘されても 頑なに 死刑の存続を支持します。 また、ある人は コスト面を挙げますが、たとえ ナマポの身分になっても やっぱり国民の血税とか言い出します。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”一線を超えた時に 殺人に及ぶのだろうと思われます。” ↑ そういう人もいるでしょうが、それは少数派です。 米国の研究ですが、常習的犯罪者の95%には 染色体異常が認められる、という調査結果が あります。 8人の女性殺しで有名な大久保清の父親も祖父も 同類の犯罪を侵しています。 特別な訓練した人間でないと、ひとは容易に殺せ ないものです。 CIAでは残虐なビデオを繰り返し見ることによって 神経を麻痺させるとか。 昔の武士は、子供の頃から刑場に一人でいかせ、生首 を持ち帰る訓練をしていたとか、 そういうことをやらないとひとは殺せないものです。
お礼
回答ありがとうございます。 hekiyuさんには 釈迦に説法だと思いますが、殺人を犯しても 死刑になるのは ほんの 1~2%止まりです。確かに、その 1~2%は hekiyuさんの仰る 染色体異常の可能性が高いでしょう。 しかし、残りの98~99%は 衝動的だったり、怨恨だったり、歪んだ正義感だったりします。
- wakaranyo2
- ベストアンサー率8% (81/940)
基本的にやったらやられることで、犯罪抑止しているので、それが無くなると無秩序状態に成ります。
補足
ちょっと意味がわかりませんが。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”日本で 仇討を復活させたら 被害者遺族は救済されると思いますか?” ↑ 普通の人間に、人殺しなど出来ません。 事実、加害者に報復した遺族、なんて話は 聞いたことがありません。 そんなのは、小説の世界だけです。 それに対して、加害者は人殺しの経験者ですし、 多くの場合、平気で人殺しが出来る、特別な メンタルを持つ人間です。 返り討ちになるのが関の山です。 ”自分が斬られれば 相手が減刑、または無罪にさえなりえます” ↑ 私が加害者だったら、やられる前に遺族を 殺しますね。 少し小細工すれば、返り討ちということに出来、 それで減刑、無罪になるのですから もうたまりませんわ。
お礼
回答ありがとうございます。 >それに対して、加害者は人殺しの経験者ですし、 多くの場合、平気で人殺しが出来る、特別な メンタルを持つ人間です。 これは少し違うと思います。殺人者も殺人を犯すまでは 筋金の死刑賛成派の人が殆どです。しかし、 レイプや悪質な交通事故のように日本では死刑にならない案件も死刑にしろとか喚いているような人が、 一線を超えた時に 殺人に及ぶのだろうと思われます。 >少し小細工すれば、返り討ちということに出来、 それで減刑、無罪になるのですから もうたまりませんわ。 日本人は因果応報の考えが非常に強く、その一方で 運とか勝負を否定する部分もありますからね。
- akagi3939
- ベストアンサー率22% (63/285)
まず、その仇討ちがどういうものなのか、がわからないとなんともいえないです! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E このwikiによると 江戸幕府によって法制化されるに至ってその形式が完成された。 範囲は父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、 卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。 又中世の血族意識から起こった風俗であるので、主君のように血縁関係のない者について行われることは少なかった。 と、なってます。 現代においては、上で認められていないとされる方への死刑要望が多いと思いますよね また、武器は何でも良いのか?助っ人はありなのか?いつ狙ってもいいのか?などなど その復活させる仇討ちの内容を示さないとわからないです
お礼
回答ありがとうございます。
- yama891
- ベストアンサー率13% (191/1368)
人と人が、ある意趣返しによる行為行動を制限する為に、文明国が一様に法制化をしている訳であり、正義_公明正大なりし事象ならば、万民こぞって”ヒーロー誕生”の熱気を感じて新たな社会現象となりうるやもしれず。夢妄想も無きにしも非ずかと言えるが、誰も責任持てずの無秩序社会が実現
お礼
回答ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。