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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大奥の女性は気軽に将軍に話しかけたのか。)

大奥の女性は将軍に話しかけていたのか

このQ&Aのポイント
  • 大奥の女性たちは、あらゆる階層の人びとからの頼まれごとを将軍に“直訴”していたようです。
  • 大奥の女性たちは、誰がどんなやり方で大奥に接触し、何を頼んだのか、具体例があれば知りたいです。
  • 老中下知状によると、大奥の女性たちは御前に申し上げることもあったようです。

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  • fumkum
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回答No.1

こんにちは 問題は、「訴訟」にあります。「訴訟」は現在では裁判関係の意味につかわれますが、近世社会では、現在の訴訟の意味では「公事」もしくは「公事訴訟」と続けて使われる言葉を用いていました。 では、近世の「訴訟」の意味は、第一義的には「願い事(をすること)・嘆願(をすること)・詫び言(をすること)」の意味で使われます。もちろん、「公事・奉行所に訴え出る」などの裁判関係の意味もありますが。ここでの「訴訟」の意味は、「願い事(をすること)・嘆願(をすること)・詫び言(をすること)」です。 「諸大名内儀かた、公家、門跡、御旗本の面々、出家、町人」とありますが、大奥は閉鎖された社会ではなく、意外と外部との接触が多く見られます。大奥と大名家の奥とは儀礼などにより、交流があり、さらに将軍子女が大名家に嫁いだ場合、多くの女性が大名家に付従いますので、それらとの交流はより盛んです。それらのために、大奥女中の職制に、御客応答(おきゃくあしらい・御客会釈とも)と言う役職があります。時代によっても変化しますが、上は上臈御年寄から下は御半下まで21の職制がありますが、御客応答は上臈御年寄・(小上臈)・御年寄に次、上位3(4)番目の高位の役職です。職掌は、御三家・御三卿・諸大名などからの女使の接待役で、御年寄や中臈などの隠居役とされますが、ともかく職掌にあるような相手からの客が、大奥にはあったことになります。 なお、呉服之間以上が御目見得できる者で、将軍・御台所への目通り可能でした。しかし、お目見得が可能でも、お目見得の機会がそうそうあるわけでもなく、目見得できたとしても、将軍に話しかけることができた大奥女中は当然上位の女中に限られることになります。これは、表と同様で、一般大名は集団で拝謁し、言葉を発することなく終わることが普通で、将軍と直に会話することなく、一生を終えるのが普通でした。ですから、大奥女中全体で考えると気楽に将軍に話しかけられるような雰囲気にはなかったと思います。ただ、閨ねだりに類することがあったようで、添寝の中臈が存在したのはそれが原因であったされています。また、この大奥法度が出されたのが四代将軍家綱の時代で、春日局の後の時代で、法度の宛先である矢島は将軍家綱の乳母です。矢島局は大奥での権勢を近江局と争いますが、その近江局が法度の出された寛文10年2月22日の一か月ほど前の1月27日に死去しており、矢島局の権勢の増大、春日局の再来を恐れた幕閣による牽制の一面があったと思われます。ただし、矢島局の権勢は考えたほどでもなかったようですが。ともかく、大奥の上位の女中が将軍の権威を背景に表の政治に口を挟むのは、確実な資料があるわけではないのですが、よくあることであったようで、そのためにも法度が出されたのでしょう。 さらに、大奥の女中の主力は幕府の旗本・御家人の女性ですが、御末頭以下の下位の奥女中には、御家人を含め、陪臣・有力町人・名主クラスの百姓の子女が採用されており、各々実家との交流を持っています。ただ、お目見得以上、以下でずいぶん違うようで、畑尚子著『江戸奥女中物語』を見ると、手紙に関しては家族の男子にも出し、宿下がりにも監視は付かず、弟と会ったりしています。これに対してお目見得以上では宿下がりは原則できず、稀に出来たとしてもお付がついて、常時側を離れない状況であったと記述しています。逆に大奥に女性の親類に9歳以下の男子を呼んで泊まらせることも可能でしたが、それも二泊まででした。 さらに大奥女中が外の世界と接触するのは、寺社への参詣・代参があります。絵島事件・延命院事件などを見ても、寺社と大奥女中の結びつき、代参後の遊宴などは知られます。 ただ、「誰がどんなやり方で大奥に接触し、何を頼んだのか、具体例があれば知りたいです。」とのことですが、大奥女中が外部と接触できる機会は上記のように意外と多いのですが、大奥に関する史料については、伝聞記事や憶測による記事がほとんどで、どこまでが真実なのか分からないのが実情です。ただ、頼んだ内容ですが、人事・手伝い普請などの忌避・寺院の新設や祈祷所の指定など寺格に関すること・御用商人の指定など多岐にわたることになるようですが、これも伝聞・憶測ではあります。 まとまらない回答になってしまって申し訳ないのですが、本当に大奥については分からないこと、はっきりしないことが多くあり、書いていても地に足がつかない感じですので、適当に読み飛ばしてください。 ただ、訴訟についてですが、願い事の意味で用いるのは武家や公的な関係では普通の事なのですが、確認のために全部で5種類ほどの江戸語辞典関係を見たのですが、東京堂出版の『江戸語辞典』以外は見出しをたてていないか、願い事の意味を記載していないかのどちらかでした。どちらかと言うと、古語辞典関係の方が記載されているような傾向が見られます。ともかく、寛文10年2月22日の女中法度黒印状条々の「訴訟」については、前後の文脈から見ても願い事の意味で間違いはないと思います。 ところで、この頃締め切りに間に合わないことが数回あって、締切後の投稿をしようかと思っていたのですが、ちょうど良い機会なので、長くなりますが続いて記述させていただきます。 @武家諸法度について こんにちは 講談社現代新書の山本博文著『参勤交代』に「参勤交代の制度化」の小題で次のような文があります。 「寛永十二年(1635)、将軍家光は、武家諸法度を改訂して諸大名に伝えた。この法度の第二条に、次の有名な参勤交代の規定があった。 -規定は質問とほぼ同じ(ひらがな使用)なので省略- これによって、西国大名が三月の末から四月の始めにかけて江戸に参府し、江戸にいた東国大名が暇を与えられて国許に帰り、次の年の三月末から四月にかけて東国大名が江戸に戻って来ると、西国大名に暇が与えられる、という形式が成立した。これが、二百数十年に及ぶ徳川幕府の支配を支えた制度の始まりであった。 もちろん、この頃にはすでにこのような体制はほぼ固まっていた。しかし、このように明文化して発布されたことの意義は大きい。大名たちにとって参勤交代は、伺いを出して許可された上で参勤し、次にはいつ国許に帰れるかわからない、といった状態だったから、制度として確定することのメリットははかりしれない。 また、同時に参勤交代の人数の削減も命じられている。それまでは、上洛の時の軍役規定があったため、江戸参勤もその軍役規定に準じる形で供の者の数を調達していたのであろう。それが、その大名の事情に応じて減少してもよいことになった。 幕府が釘をさしているのは、政治的なデモンストレーションである上洛の員数は法令通りにすることと、公の役は石高に応じて負担するという二点である。参勤の人数については、幕府もあまり要求する必要はなかった。 むしろ逆に、参勤の人数は、家格を示す表象となるので大名側からは減らさず、幕府は交通渋滞の原因になる参勤人数の削減に苦慮することになる。」 また、他の書籍には、「公役ハ分限ニ随フベキ事」の部分を、「役目は身分にふさわしいものにすること。」としているものも多く見られます。 訳はともかく、この規定に出てくる内容は、参勤と上洛だけでなく、公役もあり、3項目であることが分かります。 >参勤交代とは、どんなつながりがあるのですか。 少し細かくなりますが、参勤は本来「参覲」と書きますが、「参」は「まいる」で、身分が下の者が、身分が上の者のもとに行くことを示します。「覲」は「まみえる」で、君主に謁見することを示します。ここでは江戸に参府して、将軍に謁見することであり、将軍と大名の封建関係を確認する重要な場とされます。つまり、参勤は服属儀礼という事です。そのため、参勤しないことは反逆とみなされ、討伐・改易等の処せられる可能性がありました。 上洛(供奉)は置いて、「公役(くやく)」は、本来は律令国家で公的な課役の意味で、国家が負課する労役・夫役を意味したが、中世荘園領主による国家的色彩の強い公事に類する税の呼称として用いられた。江戸時代は一般に江戸市内の町人地に地子免除のかわりに課した賦役の事を言います。しかし、武家諸法度の宝永令の語句解説である、「新令句解」(新井白石著)に、「公役の支料を儲蓄ふへき事  大名小名其分限に随ひて公事の職役有、勤番普請又は火消・馳走の事遠近使等の如き皆是なり。其用度を支ふへき料を常に儲け蓄ふへしとなり。治まる代に公役あり、乱るる時に軍役あるは武家の定まれる役なり」とあるように、古代よりの公的な課役・夫役(金納の場合も)を引き継ぎ、将軍・幕府から命じられた「勤番普請又は火消・馳走の事遠近使等」の事とされます。つまり、江戸城の門番、大坂城や改易された大名の城の在番、名古屋城などの天下普請の城の建造、江戸城の普請や堀のさらい、大名火消(奉書火消)、勅使接待役など多岐による課役を公役と言います。ただ、大名などの場合、公役も軍役とされます。 これに対して、上洛=将軍上洛時の供奉は、大名が率いる従士は軍役規定によることになります。 ともかく、参勤・上洛供奉(軍役)・公役は、大名が将軍に奉公すべき内容=現代風に言えば、大名の行うべき三大義務についての規定と言えます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答、真にありがとうございます。 この条文の「そしやう」の意味は、「願い事(をすること)・嘆願(をすること)・詫び言(をすること)」だったのですか! よく解りました。 これらの条文から将軍の素顔を想像できるので面白いです。 表では難しい顔をして、決められた儀式用の言葉を発するだけだったのでしょうが、大奥では女中どもの世間話に相槌を打っている様子が窺えます。 第4条には「世上のとりざた承り、諸人よしあしのうはさ、みだりに御前へ申上らるべからず」とあります。 聞きたくなかったら拒否すればいいのですから、それをしないということは、結構将軍も楽しかったに違いない、と想像しています。 >大奥女中が外部と接触できる機会は上記のように意外と多いのですが、大奥に関する史料については、伝聞記事や憶測による記事がほとんどで、どこまでが真実なのか分からないのが実情です。 >ただ、頼んだ内容ですが、人事・手伝い普請などの忌避・寺院の新設や祈祷所の指定など寺格に関すること・御用商人の指定など多岐にわたることになるようですが、これも伝聞・憶測ではあります。 そうだと思います。 ほとんどが伝聞や憶測ばかりでしょう。 しかし、こんな下知状があることを知ってからは、あながち伝聞や憶測も“ウソ”とは言えないと思うようになりました。 将軍は、男には強いが女には弱かったようです。 それから、「武家諸法度の質問」を早く締め切ってしまってすみません。 自分の考えた理由を確かめたくて質問したところ、私が想定していた回答を得たものですから。 もう少し待つべきでした。 >幕府が釘をさしているのは、政治的なデモンストレーションである上洛の員数は法令通りにすることと、公の役は石高に応じて負担するという二点である。参勤の人数については、幕府もあまり要求する必要はなかった。 >むしろ逆に、参勤の人数は、家格を示す表象となるので大名側からは減らさず、幕府は交通渋滞の原因になる参勤人数の削減に苦慮することになる。 そういうことですか、よく分かりました。

その他の回答 (2)

  • fumkum
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回答No.3

この巡見使について、『国史大辞典』は次のように結論付けています。 「天領・私領の別なく在地の民衆を直接監察し、個別領主の「仕置の善悪」を監督することに主眼が置かれていた。しかし、個別藩側の模範回答作成などにより監察の実効性を失い、次第に儀式化する傾向が強かった。-中略-諸国巡見使は私領・天領の別を問わぬ全国一元的監察である点に特色があり、それが幕藩体制の分権的側面の壁にぶつかった時、儀式化を余儀なくされた。-以下略-」 この内、「幕藩体制の分権的側面の壁にぶつかった時、儀式化を余儀なくされた。」の部分は、国目付にも共通する傾向で、大名の個別的領主権による藩政の自主的運営(自分仕置)が認められ、巡見使に与えた書付にも、「公事、訴訟、目安、一切被2請取1間敷之事」との一項を設け、自分仕置に介入しない姿勢を見せています。 しかし、初期には巡見使の派遣により、改易された大名(高力隆長)もあるなど、国目付を含め、大名の藩政に介入・干渉した例も見られます。それが、藩権力の確立と安定化が進み、大名の個別的領主権による藩政の自主的運営(自分仕置)の条件が整備され、さらに幕藩関係も安定するのと並行して、武断政治から文治政治へ転換し、官僚化が進行し、安定の反面、事なかれ主義、不干渉主義に墜した面も否めないと思います。 さて、関連する幕府法の全国性についてですが、『岩波講座 日本歴史 第10巻 近世I』に次のような文章があります。 「江戸法度の遵守は、慶長一六年の三か条誓詞に示され、寛永令でも再令されたが、実際に発令された「天下御法度」は慶長一七年のキリシタン禁令、同二〇年の一国一城令、喫煙および煙草の売買・栽培の禁止、寛永二年(1625)の鉄砲改めぐらいであり、かつ幕府年寄連署奉書によって個別に伝達された。時期にもよるが、全国令の発布は限られており、地域領主は地域の第一人者として自分仕置が認められていた。」 とされます。武家諸法度の寛永令には、「万事江戸ノ法度ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行スベキ事」とあり、その後発布された武家諸法度にも受け継がれます。 この件に直接関連するのは「高札」です。『国史大辞典』の高札の項目で次のように解説しています。 「法令・禁令などを板札に墨書し、町辻・橋詰など人目につきやすい場所に掲示したもの。制札ともいう。-中略-江戸時代の法は公儀御法度(幕府法)と自分法度(藩法)の二つに大別され、それに伴い高札も公儀御高札と自分高札の別があったが、重要なのは前者であり、幕領の高札場のみならず私領の高札場でも、大高札と呼ばれる五枚の高札など公儀御高札が主流を占めた。-中略-(大高札について、幕初には頻繁に高札が発せられ、書き改められたが、綱吉からは一代一回の書き改めになり、家宣の正徳元年の書き換えを最後として書き換えは行われなくなり、幕末まで正徳の高札が維持された。)これは初期から存した雑事(忠孝・親子)・キリシタン・毒薬・駄賃(貫目)・火付(火事場)の、いわゆる大高札と呼ばれる五枚の高札および浦高札などについてのことであり、これ以外の高札については、正徳元年五月以降にも数多く発せられた。その主たるものとして、正徳四年二月抜荷、享保六年二月鉄砲、同七年十一月新田、同年十一月火付嘱託、同十一年正月博奕、明和七年四月徒党、天保十四年七月十四日浪人の諸札などを挙げ得る。」 としています。 さらに、 大高札以外の高札に掲示された幕府法度・「天下御法度」が多いか少ないかは研究者の観点・見解にもよるでしょうが、幕府法度・公文書を大名(領民にも必要に応じて伝達されます)に伝達するために、幕府は伝達方法の変更・改革を何度かしています。 以前回答した「江戸幕府公文書の配布」に関する回答の中にの、「元禄一五年(一七〇二)五月に発令された、馬に重荷を負わすことを禁じた法令の伝達経路・享保五年の唐船抜荷取り締まりについての法令(http://sanwa.okwave.jp/qa8185998.html)」の「馬に重荷を負わすことを禁じた法令」は生類憐れみの法の一部をなす法令であり、「唐船抜荷取り締まりについての法令」も合わせ、「天下御法度」として大名及び有司等に伝達されたものです。 以上の事から考えると、幕府法は原則全国法であるとも言えるのですが、幕府にも個別的領主の側面が当然あるわけで、幕領内部に限定された法令は全国性を持たなかったと思われます。 ともかく、幕藩体制下にあって幕府と個別領主である大名・藩の関係については、以前は中央集権的な側面が注目されていましたが、近年、個別的領主権による藩政の自主的運営(自分仕置)による分権的な側面が強調されています。 長く、標題だけでない内容も含まれますが、参考まで。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答、真にありがとうございます。 >しかし、初期には巡見使の派遣により、改易された大名(高力隆長)もあるなど、国目付を含め、大名の藩政に介入・干渉した例も見られます。 >それが、藩権力の確立と安定化が進み、大名の個別的領主権による藩政の自主的運営(自分仕置)の条件が整備され、さらに幕藩関係も安定するのと並行して、武断政治から文治政治へ転換し、官僚化が進行し、安定の反面、事なかれ主義、不干渉主義に墜した面も否めないと思います。 なるほど!! 江戸幕府も260年間続いたのですから、全てを一律に見てはダメですね。 藩政に幕府が介入したかという質問は、スケールが大きすぎたようです。 しかし、広く大きな視野で歴史を捉えることの大切さがよく分かったという意味で、質問した甲斐がありました。 歴史街道や宿場町を歩いたとき、高札場を何回か見たことがあるのですが、公儀御高札と自分高札の別があったとは知りませんでした。 いろいろ丁寧に教えて下さって真にありがとうございました。

  • fumkum
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回答No.2

>ここで言う上洛とは、二条城へ入ることですか。 寛永12(1635)年の時点では廃城になっていますが、京都南郊の伏見には伏見城があり、家康・秀忠・家光三代の将軍宣下は伏見城で行われています。家光の将軍宣下は元和9(1623)年で、伏見城の城割が行われている途中で実施されて、この後に伏見城は廃城になります。しかし、伏見城は特殊な城で、秀吉晩年の居城で、天下の政庁と言うべき城でしたし、秀吉はこの城で没しています。その後、関ヶ原の役で落城し、再建されますが、家康は関ヶ原の前後に、豊臣政権の筆頭大老、実質天下人、将軍、大御所として慶長11(1606)年まで毎年伏見城に長期滞在し、政務にあたっています(以後駿府)。一部に関ヶ原以降から慶長11年までの時期を伏見政権と言うことがあるくらいです(以後駿府政権ともいう)。最初の武家諸法度である元和令は大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ直後に、秀忠が参陣の大名を伏見城に集め、発布しています。なお、禁中幷公家(中)諸法度は家康により二条城で発布されています。 さて、伏見城廃城後の将軍・大御所の上洛は、寛永3(1626)年と、11(1634)年の二回だけで、後は幕末の家茂の上洛まで将軍の上洛はなくなります。皮肉なことに寛永12(1635)年の寛永令発布後は、上洛はなくなることになります。寛永12年の時点で上洛と言えば、二条城に入ることになるのですが、歴史的経過を見ると、伏見城の持つ重みも無視できないのではないでしょうか。 @幕府の藩政介入・干渉について こんにちは 「幕府は原則、藩政に介入しないことは承知していますが、では、全く介入・干渉したことはないとは言い切れないと思います。」についてですが、いつもあげる資料ですが、山本博文著の『江戸お留守居役の日記』に次のような記述があります。 「(慶安四-1651-年萩藩では当主の毛利秀就が1月5日に亡くなり、2月20日に数えで13歳の千代熊-綱広-の跡目相続が認められた。幕府老中の松平信綱に萩藩の家老と留守居役が面談したついでに、非公式に「国のため家中のため」目付の派遣を願ったところ)この年の暮れ、萩藩に幕府から国目付が派遣されることになった。 国目付とは、幼少の者が跡目相続した大藩に、幕府から派遣される監察官のことである。これは、使番や書院番士を務める旗本二名によって構成される臨時の役職である。研究史的には幕府の藩への監察の側面が強調される国目付であるが、はたしてそのようなものなのであろうか。-中略- 国目付両名は、十二月二十日に萩到着、翌年正月十二日、その報告が幕府にとどいた。 萩での国目付の動きの重要な事項をあげれば、まず、藩の領地と家臣団の把握を行っていることである。 家臣団の把握は、分限帳(知行取りの名簿)・無給帳(切米取りの名簿)を提出させてこれにあたり、領地については石高の総計を提出させている。また、城を見分し、城下を見回り、四月十日よりは周防・長門両国の国廻り(領内巡見)を行っている。これは十五日間の日程で、民情の把握に努め、二十五日に萩へ帰着、幕府へも報告があった。 六月二十六日には、萩城の天守閣にものぼった。-中略- また、この国目付のはたらきにたいしては、萩藩より合力米(国目付に給付する米)が給されている。 この件で彦右衛門(*萩藩留守居役)は、六月十二日、信綱に相談に行ったが、「此儀は、さして御公儀より御指図これなき儀に候らへば・・」-幕府が指図することではないからと、国目付を派遣された他家の例を参考にするようにと指示された。そこで、大番頭田中吉官に相談を持ちかけ、たとえば、斉藤利政の場合、知行二千三百五石であるから在任期間半年分の四ツ物成(年貢40%)四百六十一石を給することにした。 そして、七月晦日、両名は無事半年の任務を終えて、江戸に帰着。-以下略-」 以上の事実を述べた後に、 「旗本が藩領へ立ち入る以上、国目付は幕府の藩政への公然たる介入であり、そこに藩への監察の任務を見出すことは自然である。しかし、そもそもそのために派遣されたのだときめつけてよいのだろうか。-中略-毛利家にかぎらずこの時期の藩は、かならずしも一枚岩ではなかった。領国に藩主不在のまま数年を過ごす間に、一門や家老の反主流派が藩内に政争を巻きおこすことも考えられ、そのような不祥事をまねいては藩自体の存立をあやうくするもととなる。これをさけるためには、なにか藩を超越した権威が必要となるが、そうした国主の代理をなしうる役者は幕府をおいてほかにない。幕府から派遣された国目付こそ、幕府を背景に、藩内の対立抗争を未然に防ぎうる権威であった。そのため、藩当局は国目付の派遣を願ったのである。-中略-国目付は、幼少にて国元に帰って政治をとることができない国主の代理であったと考えることができるのではないか。」 また、大石学編吉川弘文館発行『江戸幕府大事典』には次のように国目付について記述しています。 「-前略-本制度のはじまりは、慶長・元和期(1596‐1624)に求められるが、当時は藤堂高虎などの大名や、安藤重信などの奉行職にあるものが選任され、藩の内政に干渉し、藩政運営の後見的役割を期待されるなど、きわめて実質的な意味合いのもとに派遣されたようである。国目付は、幼少相続となった大藩に多く派遣されたが、天災地変のおりおりにも派遣されることもあり、四代将軍徳川家綱期までは一大名家に複数回派遣されることもあった。五代将軍徳川綱吉期以降には一代一回限りで派遣されるようになり、以後幕末まで継続される。-中略-国目付派遣時には、将軍より受け入れた大名に黒印状(*黒印条目)が発給され、国目付にも下知状が出され、家中の諸事や農工商のことなど指図しないこと(*内政不干渉)、ただ藩政(*国中仕置)の良否を報告することなどが指示されており、国目付の職掌としては、藩の内情をよく監察して、幕府に報告することが求められていたことがわかる。藩側でもその点を警戒しており、国目付の来訪には神経をとがらせていた。」 とあります。国目付の活動内容や合力米の給付については毛利氏の例の通りです。国目付の実態について、相反する記述があるようですが、物事は一つの目的だけでなく複数の目的や、表裏があるのは当然のことではないでしょうか。幕府は藩権力の確立と安定化のために、幕府・将軍と言う藩の上位の権威・権力を背景として、藩主の代理者として、また紛争の調停者としての国目付を派遣する一方、国目付を通じて、藩の実情把握に努めるのは当然のように行われたと考えられます。分限帳・無給帳の提出による家臣団(軍団でもある)の把握は、軍事情報の取得でもあり、石高の総計の提出は経済状況の把握。城・天守閣・城下・領内巡見は当然民情と軍事施設の視察ですから、藩は丸裸とまでは行かなくとも、半裸程度になるのではないでしょうか。 さらに、時代により、国目付の性格も変化しており、高松の生駒家に対する藤堂高虎の行為を見ると、生駒家の家老を呼び付けて、具体的な指示を出したり、人事にも介入しており、藩主代行として、藩主権を行使しているとみられます。 さて、藩政に対する介入という面では、(諸国)巡見使の制度があります。第一回目は国廻と称して、寛永十(1633)年に実施され、第二回目は寛文七(1668)年に諸国巡見使として実施されます。この、寛文の巡見使については、巡見項目についての仰せ付けられた書付の内容が『古事類苑』(この項目は『教令類纂』より)に記載されています。主なものは、「町在々所々仕置之善悪」、「吉利支丹宗門之仕置、盗賊等之仕置」、「運上・諸色」、「公儀御仕置と替たる事有レ之候哉」、「買置いたししめうり仕候もの有レ之候哉」、「金銀米銭相場」、「高札の設置状況」、「浦方船数運上役之儀」、「浦々船数水主数」、「浦々湊々ニおゐて、博奕・賭之諸勝負、遊女設置」などとなっています。その報告書の一部が同じく『古事類苑』(「西海道巡見志」の伊予国の一部)に記載されています。 一 (宇摩郡)余木村 御預所是より松平壱岐守(*松平定永) 一 片浜、一 高三十九名、一 家数数十軒、一 舟数十艘猟舟、一 加子(*水主)数二十人 ○略(以下略のこと) この報告書を見ると、書付の内容で監察したことが覗えます。 第三回目の巡見使派遣は天和元(1681)年の五代将軍綱吉の時代になります。将軍代替わりに、全国を八つのブロックに分けて実施するというパターンが成立し、七代将軍の家継時代を除き、十二代家慶の時代まで巡見使が派遣されます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「藩政に介入したか」という質問では、「介入」とか「干渉」とかの用語の定義にまで発展しそうな雰囲気になったので、そしてここは議論をする場ではないので、打ち切りました。 もちろん、私自身は議論できるほどの知識は持っていません。 自論を強烈に主張される回答者もありますが、態々時間を割いて回答してくださっているので、私はそのような見方もあるとして、全ての回答を尊重するようにしています。 藩政に幕府が介入した例として、国目付や巡見使の例もあること、 詳述してくださったのでよく解りました。 この場合も国目付の派遣を藩が要請または了解しておれば、幕府が介入したことにはならず、助言したに過ぎないという理屈も成り立ちます。 >国目付の実態について、相反する記述があるようですが、物事は一つの目的だけでなく複数の目的や、表裏があるのは当然のことではないでしょうか。 まさに仰るとおりです。

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