こんばんは。
★ 易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗
☆ 易行道であることにマチガイありませんが ほかは もし親鸞についてならば すべてマチガイです。
念仏は 《非行非善》だと言っています。
修行に非ず。称名念仏を修行として 往生に到るという考えは マチガイです。
善行に非ず。念仏という善をおこなった。ゆえに往生に到ると考えるのは 親鸞ではありません。
《即得往生》と言っています。これは 即身成仏と同じ意味だと思います。
あるいはつまり
★ ただひたすら念ずれば救われる
☆ ということは一切言っておらず それどころか そのいまおこない歩んでいる道を行けば――即得往生であることにマチガイないと思っているその道を行けば―― 往生するというふうなことは いっさい分からないというのが 親鸞の心です。
ただし すでに親鸞じしんは アミターバ・ブッダによってあたかも魚となってのように網で掬われたとは思っていますし それは 同語反復のごとくにでも 即得往生であるのです。その網にひっかかった一瞬にすべては決せられたという意味です。死んでからどうなるかは もう問題ではなくなっています。あとは その場その時に応じてそのつどおのれの生き方を考ええらびあゆむという実存の姿勢で すすみます。
般若心経の《空》観は その《即得往生および そのつどの実存なる姿勢》における世界観と一致すると言えるでしょう。
参考資料です:
▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~
1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。
2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。
3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。
4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。
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☆ アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。
お礼
この世の全てってことは、この世の全てってことです。 その通り、それでいいんです。 それが分かれば悟ったことになります。