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般若心経と浄土教

  色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であると説く般若心経。  易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗。 この2つ教えを一つの仏教として結び付け一つに統合したい。 どのように考えますか。    

みんなの回答

回答No.9

 ★ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~     「念ずるのである。   この世の全ては無であり空であるとただひたすら念ずるのである。   このように念ずることにより人はみな生きることの苦から解き放たれ、救われるのである。」  質問の件、取りあえず自分なりに答えを導き出す事が出来ました。  完成です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だとすれば このように《完成》した答えも すべて《無であり空であると念》じなければなりません。そうしないと 《生きることの苦から解き放たれ 救われる》ことはありません。

utayomi_2011
質問者

お礼

この世の全てってことは、この世の全てってことです。 その通り、それでいいんです。 それが分かれば悟ったことになります。      

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

教祖は、アナタ。

utayomi_2011
質問者

お礼

  です。  

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回答No.7

 こんばんは。  ★ 易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗  ☆ 易行道であることにマチガイありませんが ほかは もし親鸞についてならば すべてマチガイです。  念仏は 《非行非善》だと言っています。  修行に非ず。称名念仏を修行として 往生に到るという考えは マチガイです。  善行に非ず。念仏という善をおこなった。ゆえに往生に到ると考えるのは 親鸞ではありません。  《即得往生》と言っています。これは 即身成仏と同じ意味だと思います。  あるいはつまり  ★ ただひたすら念ずれば救われる  ☆ ということは一切言っておらず それどころか そのいまおこない歩んでいる道を行けば――即得往生であることにマチガイないと思っているその道を行けば―― 往生するというふうなことは いっさい分からないというのが 親鸞の心です。  ただし すでに親鸞じしんは アミターバ・ブッダによってあたかも魚となってのように網で掬われたとは思っていますし それは 同語反復のごとくにでも 即得往生であるのです。その網にひっかかった一瞬にすべては決せられたという意味です。死んでからどうなるかは もう問題ではなくなっています。あとは その場その時に応じてそのつどおのれの生き方を考ええらびあゆむという実存の姿勢で すすみます。  般若心経の《空》観は その《即得往生および そのつどの実存なる姿勢》における世界観と一致すると言えるでしょう。  参考資料です:  ▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  1.(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  2.(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  3.(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  4.(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~     ☆ アミターバの名をわが心に受け容れたそのとき 《即得往生》である。と。

utayomi_2011
質問者

お礼

  「念ずるのである。 この世の全ては無であり空であるとただひたすら念ずるのである。 このように念ずることにより人はみな生きることの苦から解き放たれ、救われるのである。」 質問の件、取りあえず自分なりに答えを導き出す事が出来ました。 完成です。    

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回答No.6

 “色即是空空即是色”に「無」という表現はありません。  色は空であり、空はまた色である、と云うのはこの世の現象の事を云っているのだと思います。  この世の現象は一つとして変化しないものは無いと云う事、それを、いずれ時がたてば変化してしまうので実体とは言えない、言い換えれば「空」である、と表現したんだと思います。  色は空である、と云うのは結構理解されやすいと思いますが、空は色である、と云う事をうまく説明できるんでしょうか。  今回の質問に接して改めて考えてみました。  宇宙の存在。  我々が今こうしてここに生存しているのは両親があってこそ。  宇宙の存在にも両親が居るはず。  『宇宙の本体は“絶対(唯一無二・相対する物のない)”の大心霊体』  これを信じることが出来れば、この宇宙の親は“絶対”の大心霊体だと云えます。  親の子に対する思いがあるように、大心霊体の“思い”がこの世を現象させているんでしょう。  あるお坊さんは、このこと(宇宙と云う現象)を「大心霊体(如来)の意志の力(エネルギー)」に依る と云っています。  空は色である、とはこのこと、即ち空=この世(宇宙)、の現象は色であると。  その“色”の世界に誕生した生命が発達し、高度の精神を獲得し発揮している人間が生きる上で体験せざるを得ない苦しみから逃れようと“救い”を求める対象が神仏。  赤子が親の御胸にい抱かれて心安らぐように、人の精神は宇宙の生みの親の懐に飛び込んでこそ安心(救い)は得られると思います。  そうしたいがための方法が念仏。  赤子が母を求めて泣き声を上げるように、人は念仏するのです。  そして、その神仏の懐に飛び込むことを、明治から大正にかけて活動された我らが日本のお坊さんは『帰趣』と表現しました。  

utayomi_2011
質問者

お礼

  念ずるのである。 この世の全ては無であり空であるとただひたすら念ずるのである。 念ずることにより生きることの苦から解き放たれ救われるのである。   いかがでしょうか。 これでよければ答えは出たことになります。      

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回答No.5

浄土思想というのは、本来、 この娑婆世界には様々な制約があるので、極楽浄土などの浄土に行って、仏道の修行を完成しよう、 というものです。 そのために、広大無辺の慈悲を有する阿弥陀仏におすがりするんです。 で、仏道の修行とは何かといえば、大乗の行であり、般若心経などで説かれる六波羅蜜行です。 般若心経では、般若波羅蜜しか説いていませんけれどね。 バカには、深遠な般若心経の教えや仏の教えは理解できない。だから、お利口になれる極楽浄土に行こう、ということで。 ただ、このバカが如何なるものであるか、これには注意を払う必要があります。 《愚禿》の《愚か》とは何か? なぜ、親鸞は自らを《愚禿》と言ったのか? このことについて深く考える必要があると思います。

utayomi_2011
質問者

お礼

  「念ずるのである。 この世の全ては無であり空であるとただひたすら念ずるのである。 このように念ずることにより人はみな生きることの苦から解き放たれ、救われるのである。」 出来ました。 完成です。  

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回答No.4

仏教は元々お釈迦様の精神を伝えようとしているのだと思われます。その伝来の過程でそれぞれに分裂したのではないでしょうか。ご本尊を阿弥陀様とする浄土真宗、大日如来様とする真言宗、お釈迦様とする曹洞宗、薬師如来とする天台宗などが有ります。ご本尊によってお経も違いますし、焼香の仕方も異なります。それこそ聖戦でもしなければ一つに統合できないのでは。

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回答No.3

 仏教という一つの大きな幹に、人それぞれ多様に流れてきた人生の先の枝分かれのそれぞれに適した受け皿がある、という感覚はどうでしょうか?

utayomi_2011
質問者

お礼

   「念ずるのである。 この世の全ては無であり空であるとただひたすら念ずるのである。 このように念ずることにより人はみな生きることの苦から解き放たれ、救われるのである。」 出来ました。 完成です。  

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  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1854/6060)
回答No.2

天台宗でいいじゃないですか。 別れたものを一つにまとめるより要素を保ちつつ分かれていない根本に立ち返るのが本筋でしょう。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >天台宗でいいじゃないですか。 念ずるとは南無阿弥陀仏と念ずることでございます。    

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回答No.1

あそこに月があると指さすと、その指の指し示す 方向を見ると月が見つかります。 月が見つかれば指は忘れていいです。 月が真理で、指が言葉です。 言葉に囚われていてはいけません。 登る道は違っても山頂は1つです。 別々の2つの道を統合しなくていいです。 すべての仏の道は、同じ山頂(衆生救済)につながっています。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >すべての仏の道は、同じ山頂(衆生救済)につながっています。   衆生救済、これは大乗の世界だ。 有り難いね。  

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