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般若心経と浄土教

  色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であると説く般若心経。  易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗。 この2つ教えを一つの仏教として結び付け一つに統合したい。 どのように考えますか。    

みんなの回答

回答No.19

念ずるだけ、座禅を組むだけで、色即是空を直観できてもそれだけでは浅く不十分で、華厳経と量子論の知識が加わって初めて深き悟りに到達できるのです。 お釈迦様はブラフマンの存在を直観しながら、対機説法の立場から敢えてそれに言及しなかったのです。

utayomi_2011
質問者

お礼

  量子論などを持ち出して、仏教を科学と結びつけようなどと考えるべきではない。 科学を利用しようとする宗教は総じて邪教であることが分かっているからである。 仏教は信仰であり、信仰にとって科学は別世界である。 これにて何の問題もありませぬ。    

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回答No.18

 ★ (No.17補足欄) ~~~~~~~~~~~~    だからそこでぐだぐだ考えずに、ただひたすら念ずることが信仰でしょ。  ★ (同・お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~     >次の語の定義がさだまらなければ何とも答えようがありません。  だからそれはぐだぐだ考えてはならんのである、非思考、非思考。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まぁ 信仰の次元に揚げるというのなら あまり言葉も要らないとは思いますが それでも細かいことを言うならば:  ★ そこでぐだぐだ考えずに / それはぐだぐだ考えてはならんのである  ☆ という判断は あきらかに《思考》なる意志行為ですよ。はからひです。つまり 信仰ではないはずです。  けっこう めんどうくさいのです 信仰は。  だから確かにゴータマ氏も 苦労したのかも知れない。けれども 結果は ダメ。  かろうじて その趣旨をおもんぱかって解釈するとすれば:   ・梵我一如:梵(ブラフマン)≒我(アートマン)   ・無梵無我一如:無梵(無い神)≒無我(アン‐アートマン)  というふうになる。というお話です。  けれども 後世のブディストたちは 《無い神》の《無い霊》では さまに成らないというので    ・仏仏一如:アミターバブッダ≒ブッダター(仏性)       マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)≒ブッダター  のごとく信仰のかたちを捉えるようになりました。浄土系も真言系もまったく同じ信仰です。泣いても笑っても どうにもなりません。神は ひとつなのです。  世界のすべての神にかんしても 信仰は類型が同じで その神も 名前の違いにかかわらず やはり同じひとつの神です。  そして その信仰とは 義無きを以って義としている恰好です。

utayomi_2011
質問者

お礼

>けっこう めんどうくさいのです 信仰は。 てっことは非思考ではなく思考ってことだろ。 非思考であればめんどくさいはずはなかろう。 非思考だの思考だのと考えるからめんどくさいのである。 そんなことは考えずに、ただひたすら念ずればよい。  

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回答No.17

 ★(No.16お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  これ(省略)は単に次のように言い換えるのである。   けっきょく経験世界は相対性の世界である → この世の全ては無であり空である   義無きを義とする → ただひたすら念ずるのである  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次の語の定義がさだまらなければ何とも答えようがありません。  ・《無》とは何か?  ・《空》とは何か?  ・《念ずる》とはどういうことか?

utayomi_2011
質問者

お礼

  >次の語の定義がさだまらなければ何とも答えようがありません。 だからそれはぐだぐだ考えてはならんのである、非思考、非思考。  

utayomi_2011
質問者

補足

  だからそこでぐだぐだ考えずに、ただひたすら念ずることが信仰でしょ。  

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回答No.16

 ★(No.15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   >信仰は 思考に非ずなのだから 《念ずる》というような《思考ないし想像ないし情念》を手段としても 何にもなりません。   >《義無きを以って義とす》  《念ずる》というのは《義無きを以って義とす》と心得て念ずるのである。  つまり念ずるとは一切の疑いを持たず無条件に念ずるのであるが、なぜこれが《思考ないし想像ないし情念》を手段とすることになるのか。  で、上の2つはどのように整合するのかごまかしなしで説明してほしい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(1) 《念ずる》というのは 声を出す出さないにかかわらず 心に思いこの思いに集中することである。  《思う・心をひとところに集める》のは ひとの意志行為である。何らかの意識をともなっており それは《思考・想像・情念》の世界である。つまり 信仰ではありません。神にかかわるとは言えないでしょう。せいぜい人間の精神にはかかわっているというところまでです。  (2)  ★ 一切の疑いを持たず無条件に念ずるのである  ☆ 《無条件に》という条件がついていても 念ずるときには 意識をともない意志行為としておこなうのである。  《一切の疑いを持たず》というのは 疑いを棄てるという意志行為(はからひ)としておこなうことである。  つまり 人間の努力によって 神に近くあることが出来るのなら 誰でも そうするし そのことがすでに何億人ものあいだで実証されていることになります。無理です。  (3)  《義無きを以って義とす》というのは 《信仰》とは・または《神》とは何か? という問いに対して説明する言葉です。そのことを念ずるためのものではありません。  世の中は 不条理なことが無くならない。自然災害にしろ社会的な犯罪などの被害にしろ説明のつかない不条理なことに巻き込まれると 心はさまよい乱れてしまう。何を信じて行けばよいか? と途方に暮れる。  そういうときにも 《義無きを以って義とす》るということを ふと考えてみる。そのとき 思考に非ずなる信仰ないし神のことが 思いに持ち上がる。というそのきっかけにもなります。  信仰への入り口として よくひと言にまとめていると考えます。  (4) この義無きを義とする内容としての信仰のもとには けっきょく経験世界は相対性の世界であるということを示す《空》観は そのままふくまれています。  善悪の彼岸をすでに 見ている。といった意味です。相対性の世界をそれとして捉えている。その視点は あたかもこの善悪などの相対性の世界を超えているかに思われる。  生身の人間であるゆえ 《相対性の世界を超えているかに思われる》だけでよいのです。  《相対世界とそして絶対とのあいだの矛盾》――つまり《義無き》――についてこれを持ちこたえることのできる境地が さとりです。《義無きを以って義としている》わけです。

utayomi_2011
質問者

お礼

> (4) この義無きを義とする内容としての信仰のもとには けっきょく経験世界は相対性の世界であるということを示す《空》観は そのままふくまれています。 これは単に次のように言い換えるのである。 けっきょく経験世界は相対性の世界である → この世の全ては無であり空である 義無きを義とする → ただひたすら念ずるのである すると結果として、次の私が得た答えと同じものになるではないか。 *******************************************     仏教の唯一つの教え  「念ずるのである。   この世の全ては無であり空であると、   ただひたすら念ずるのである。   このように念ずることにより、   人はみな生きることの苦から解き放たれ、   救われるのである。」 *******************************************

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回答No.15

 ★(No.14お礼欄) だから「仏教の唯一つの教え」と題して、既にこの質問の中に掲げてあるでしょ。  ☆ ですから それについては 次のように類型として同じひとつの《信仰のかたち》を示すところで まとめているわけです。  ☆☆ (回答No.11) ~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただし 《アミターバ・ブッダ》がいくら普遍なる神を表わすからと言って それについて人間が  ★ 念ずれば救われる  ☆ というのは 子供だましです。  よく言えば信仰のきっかけになるかも知れませんが そのものとしては ただのおとぎ話です。鰯の頭教と同じです。  信仰は 思考に非ずなのだから 《念ずる》というような《思考ないし想像ないし情念》を手段としても 何にもなりません。念じて神に到るのならば 誰もがそうするでしょう。  そのようなひとつのまとめです。  さらには ユダヤイズムのヤハヱーなる神が 神みづからによってみづからを揚棄したという議論を紹介しておきます。  じんるいにとって全体としてひとつの普遍なる神へとみづからを揚げて ふるいおのれを棄てた。という《変革》の歴史です。イエス・キリストの登場をつうじて成りました。    【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8604161.html  ブディズムには こういう弁証法過程のれきしは ありません。  強いて言えば 梵我一如なる信仰類型のじっさいのあり方を 親鸞が《義無きを以って義とす》というひと言にまとめています。  《アミターバ・ブッダ(その霊)と人の心なるブッダター(やはり霊です)との一如》は しかしながら 梵我一如と同じ類型です。名前が変わっただけです。  キリストの神と人間の霊との一如も かたちとしては まったく同じです。  だって 神とは 全体としてひとつの普遍なる神しかないからです。(この命題は むしろキリスト・イエスが じんるいの歴史上では 語ったのです。と言っても 日本人なら ふつうのひとは ほとんど誰でも どこから入っても 同じひとつの神に行き着くと思っています。その素朴に捉えた信仰のかたちは 普遍的なものです)。

utayomi_2011
質問者

お礼

   >信仰は 思考に非ずなのだから 《念ずる》というような《思考ないし想像ないし情念》を手段としても 何にもなりません。 >《義無きを以って義とす》 《念ずる》というのは《義無きを以って義とす》と心得て念ずるのである。 つまり念ずるとは一切の疑いを持たず無条件に念ずるのであるが、なぜこれが《思考ないし想像ないし情念》を手段とすることになるのか。 で、上の2つはどのように整合するのかごまかしなしで説明してほしい。  

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回答No.14

 旧約聖書にかかわるユダヤイズムから新約聖書におけるイエス・キリストの信仰に到る過程――すなわち特には その《弁証法的な発展のありさま》――については つぎの質疑応答におけるわたしと plapota さんとのやり取りをごらんください。長いですが それだけの値打ちはありますから。  【Q:三位一体論は そんなに不人気なんですか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8598783.html  《二番煎じ》のほうが 普遍的であるという事例です。青は藍より出でて藍より青しなる事例です。  ブディズムは さに非ずと言っています。これまで それについておそらく三十個ほどの質問をすでに問うて来ていますから 議論をはぶいています。  ブラフマニズムを《変革》しようとしたのは その身分制の問題についてです。あるいは 論理学を その後のマハーヤーナーの時代には 発達させました。  けれども 信仰のあり方としては 梵我一如の類型を出るものではありません。ブッダターと名前を変えても アートマンとまったく同じ《神の霊》です。アルケーの神と名前を変えても じんるいにとって《全体としてひとつの神》しかなく すべては 名前違いだけのことです。  ★ 「仏教の唯一つの教え」  ☆ があると言うなら それを出せばよろしい。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >★ 「仏教の唯一つの教え」  ☆ があると言うなら それを出せばよろしい。 だから「仏教の唯一つの教え」と題して、既にこの質問の中に掲げてあるでしょ。  

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回答No.13

 ★ 「仏教の唯一つの教え」  ☆ は ありません。という回答です。  すでに廃れた思想だという意味です。  ブラフマニズムにおける梵我一如なる信仰に 無我(アン‐アートマン)も仏性(ブッダター)も すでに含まれている。単なる二番煎じである。こういう意味です。  よく噛みしめてみなさい。

utayomi_2011
質問者

お礼

  全てのものは弁証法的に進化発展するものである(ヘーゲルの言葉)。 宗教とて例外ではありません。 だから仏教はバラモン教から生まれ、変革したのである。 またユダヤ教から生まれ、変革したのがキリスト教である。 しかしこの事実をもって仏教は二番煎じであり、廃れた思想だと見なすのなら、あらゆる宗教は二番煎じであり、廃れた思想ってことになるんではないのかい。 よく考えてからものを言って下され。 それにしてもこの程度の発想で長々と信仰について語り続けておるとは・・・、ただただ呆れ返るばかりですよ。 後は何を言っても無駄なんだろうな。    

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  • fuukakou
  • ベストアンサー率22% (200/870)
回答No.12

う~ん、う~ん、難しい… 考えてみて、これなら何とかなるかな?を。 た~だ~し~、私は虚無だと思ってるから、そっちがベースになるよ どっちも知ることが大事なのかな? 世界は無が姿を変えたものなのね。それは揺らぎみたいなもの。無は有で有は無なのね。 虚無の中で姿を変えて個はすべてで、すべては個なのね、そして多様で、無の中で生じて遊び踊るのね だからすべては無に内包してるのね その中にどうやって発生したかは知らないけど、浄土があって、如来がいるのね まだまだ幼い迷子を見つけて、浄土に掬い上げてくれるのね 幼い子たちは其処で学び遊び、更なる道を知るのね、その為に在るのね でもすべてはうんとこさ広いので、浄土を見つめ指導する如来がアンテナを張ってる耳に、心にここに迷子がいて助けを求めてるの、と通じるように念仏を唱える。 助けを求め、そこで学ぶ(生きる)気があって(たぶんピックアップしてるところはたくさんあるんだと思う)「師匠!あんさんの所について行きます」という表明みたいな? と考えたらどうでしょうか。 真面目な人に怒られそうな内容だなぁ…ついでにバカっぽい。

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回答No.11

 ★ (No.10お礼欄) 質問文に提示したように「仏教の唯一つの教え」と題して、自分なりに仏教の教えを短く一つにまとめここに提示して見せてくれ。  ☆ (1) ありません。     (2) 親鸞を《仏教》に入れるのなら その信仰論としての《義無きを以って義とす》です。  (3) インド以外の地の人びとには 《ブッダター(仏性)》をつたえた。という功績があります。  (4) ただし インドでは すでにこのブッダターは ブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》を指し示していました。まったく同じものです。わが心なる《非思考の庭》にやどる神の霊のことです。  (5) 《オシエ》はありません。あっても たいていはどの思想でも言っていること・また言いそうなことだからです。  (6) というのは オシエは 神ないし信仰のための補助線でしかないからです。  参考:  ☆☆ 【Q:ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ】 ~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8404970.html  ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~~~~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を〔有から無へ〕裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

utayomi_2011
質問者

お礼

  >★ (No.10お礼欄) 質問文に提示したように「仏教の唯一つの教え」と題して、自分なりに仏教の教えを短く一つにまとめここに提示して見せてくれ。  ☆ (1) ありません。 呆れたものである。  自分の考えを自分の言葉で表現出来ないでどうする。 とにかくあんたには自分の言葉ってものがない。 その後の文面はただのコピペで読む気にもならん。 悪いが顔を洗って出直し、与えられた練習問題をやってここに提示して見せてくれ。 それが出来んのなら話にならんからとっとと消え失せてくれ。  

utayomi_2011
質問者

補足

  科学であればコピペでも通用するでしょうよ。 しかし宗教や信仰の世界でその外面的事象だけコピペして連ねてそれが何になるんだい。 自分の言葉で一つの信仰の核となる最も大切な教えを言えなくてどうするんだい。 だからここで「仏教の唯一つの教え」は何かと訊いたのである。 そんなことが答えられず、人様に対し「土台が まだなお 成っていません。」なんて良くも言えたもんだよ。 とにかく呆れ果てております。  

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回答No.10

 土台が まだなお 成っていません。  わたしでよければおしえてやる。まなべ。

utayomi_2011
質問者

お礼

では練習問題を与えるので自分で考え答えてみてくれ。 練習問題: 質問文に提示したように「仏教の唯一つの教え」と題して、自分なりに仏教の教えを短く一つにまとめここに提示して見せてくれ。   とにかくノウガキはそれからである。  

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