19世紀末~20世紀初頭に社会科学分野において「価値判断論争」という論争が起こりました。
歴史主義学派の経済学者シュモラーが倫理的理想を歴史的に把握し,この理想によって社会問題に実践的・政策的提言を行うべきであると主張しました
それに対して,たのに対して、マックス・ウェーバーは社会科学的認識において、認識の客観性を保つためにはそこに実践的な価値判断を持ち込んではならないと力説します。
「歴史認識」についても,彼らの論争は大変な示唆に富んでいます。
例えば,よく「朝鮮のインフラは日本が統治時代に整備したものだ」と主張され,さらに「だから日本は良いことをしたんだ」との主張がよく聞かれます。
しかし,前者はただの「事実」であるのに対して,後者は「良い・悪い」という「価値判断」が含まれています。
「良い・悪い」というのは,多分に主観的な「価値判断」です。
韓国のインフラについて,「良い」と判断すれば「日本が統治時代にインフラ整備してあげた」となります。
逆に「悪い」と判断すれば,「日本は統治時代に無理やりインフラを整備した」となります。
どちらも「朝鮮のインフラは日本が統治時代に整備したものだ」という「事実」に対して,「良い・悪い」の価値判断をしていることになります。
果たして,そうした価値判断を学問(この場合なら歴史学ですかね)に取り入れるべきか,排除すべきか。
難しい問題です。
>感情の奴隷だと思いますが、いかがでしょう?
感情の奴隷とはユニークな表現ですね。
歴史学に限らず,学問において感情に囚われすぎると事実を見誤ることが多々あります。
どこまでその感情を抑えうるか。
「感情」となると完全に主観的な問題ですから,いきおい意見も十人十色になりやすい。
そして「感情」と「感情」は屡々衝突します。
こうなると後は水掛け論に陥りやすい気がしますね。
まとまりのない文になってしまいましたが,参考になれば幸いです。
お礼
書き込みありがとうございます。 「価値判断論争」 お教え下さりありがとうございます、ゼロか全部かと言うのは不可能な話ですよね。 人間は感情と不可分な生き物です。 しかし自身の都合の満足の為に、世界を作り変える事は不可能な話です。 自ずと心が乖離を起こしてしまいます。 擦り合わせをして行くしか方法は無いと私は考えます。 議論の中に「己」が居ては、事実の究明ではなく、自己実現の為のモノに成り下がります。 大なり小なりこの問題は学問に付いて廻りますが、悲しい事だと私は思います。 貴重なお話、ありがとうございました。
補足
今回の私の迷惑行為に対して、皆様の書き込みをありがたく思います。 其の中で問題のポイントを端的な言葉で表して下さった事に感謝をし、ベストアンサーとさせて頂きます。 ありがとうございました。