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歴史的認識を深める為には?

歴史の勉強をしているのですが、歴史的認識を深める為には何が必要だと思いますか?

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  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.4

現代社会では 東京電力の社員とこれらを製造した教育者はエリート面で日々送る訳ですが、 実際は日本を壊した張本人以外の何者でもありません。 何しろ、容器は壊れれば漏れる事すら教えられなかったのです。 歴史は使う物です。 省みるツールです。 私利私欲の為に日本の半分近い面積が放射線の危険にさらされています。 中国の鉄道など批判出来ません。 お役所の体質はこのレベルです。 全てを意欲的に吸収し、疑問に思えば聞いてみる。 そう言う時です。 分類は記憶してからでも遅くありません。

ajako254
質問者

お礼

なるほど。皆さんの意見有難うございます。

その他の回答 (3)

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 歴史の勉強ですが、その性質によって様々な位相があります。例えば趣味の延長である「考証学」もあれば、近代歴史学の一つの流れでもある「実証的歴史学」、更には一時期の「科学的歴史学」などもあります。  考証学に対して後の二者は時に「相互補完的」であり時に「峻厳な対立関係」にもあります。現代歴史学の潮流からいえば「歴史像をどう描くか」が一つのエポックであるともいえます。  歴史研究にとっての課題はミクロの視点でいえば「史実の解析」であり、マクロ的視点からいえば「その史実を時代の全体像にどの様に位置付けるか」の作業でもあります。そのため考証学には自ずと限界が生じ、他方歴史学には未来への模索を目的とするダイナミズムが作用することとなります。  では「歴史認識」を形成する土台は何かとの問題に直面することとなります。一つは「史料操作の方法」を熟知すること、と同時にもう一つ「理論構築のベースとなる隣接諸科学の方法論と成果」を積極的かつ批判的に受容することが大切です。方法論だけで歴史像を構築することはできません。証拠としての史料を冷静に分析する能力が必要不可欠です。「理論としての筋立て」に成功してもそれを裏付けるに足るだけの証拠がなくては理論として存立の基盤が危ういものとなってしまいます。  以前はこうした理論構築の手法としてマルクスの経済分析やらヴェーバーの政治社会学のモデルが爼上に登るケースが見られましたが、それも80年代半ば頃からのいわゆる「社会史」の台頭と共にアナールやらブローデル更にA.ネグリの「Empire」に触発された形で問題提起を進化させたE.トッドやG.アリギなどの方法論か注目されています。  逆に史料を読釈しただけでも「歴史を理解した」ことにはつながりません。「その史料から何を読み解くことができるか」が大切です。そのための「方法論」として多様な尺度や価値観を学ぶことが大切です。  先ずは古典的な高島善哉やら大塚久雄そして丸山眞男辺りから読み進めてみては如何でしょうか。彼らの思索からは「社会的存在としての人間をどう理解するか」との命題に真摯に対峙した西洋や東洋の思索の軌跡を読み取ることができます。  21世紀にはいりたかだか10年余りの年月が経過しているにすぎませんが、この間にも歴史の上ではそれまでと全く異なった展開が数多く見られていることもご存知でしょう。それまでの主たる枠組みとしての「国家」から「価値観を共有する団体あるいは組織」へと枠組みのあり方自体が変貌を遂げています。こうした中にあって「今、歴史学に問われているモノは何か」との問いかけが歴史学に携わる内部からも提起されていることも事実です。  象牙の塔に籠もり、一人自己満足的に史料に対峙するだけでは学問としての歴史学の存立自体が危ぶまれてしまいます。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.2

織田信長式を薦めます。 黒人を見て家臣に洗わせます。その後側近に抜擢する訳ですが、 まず疑ってかかる。(鵜呑みにしない。) 確認作業を怠らない。 失礼を弁える。 と、理想的です。 戦う前から「負けは決まっています。」 これでは何を学んでも無意味でしょう。 過去、負けたと言う事実を認識します。 そこから学ぶのです。(敗戦の理由) 敗戦の理由の内の1個~2個を排除してパラメーターを構築する作業が大切です。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

    僕は素人ですから見当違いかも知れませんが 1。時が違う。 2。習慣が違う。 3。地理、天候、湿度、気温などが違う。     こういうことを考えると「歴史的認識」を深めることになるのではないかと思います。現在の物差しで見ないこと、例えば、「四十七士討ち入り」の始まりとなった、浅野内匠頭のニュースが早籠で東京から赤穂まで何日かかったか、を忘れ、新幹線なら、何時間、という感覚では「歴史的認識」に欠けるものがあると思います。    これはごく簡単な例ですが、「卑弥呼」とかもっと昔、あるいはもっと遠い場所のことになると、かなり色んなことが違うので、注意が必要かと思います。

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