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人それぞれ とは?

よく耳にするのですが「人それぞれ違う」の省略でしょうか? あと 人それぞれ違うというのは論理的に真なのですか? 言い換えれば「みんな違う」ということですよね?100人いたら100人みんな違うってこと。 一人でも同じ人がいたら、この主張はおかしくなるのでしょうか?   それとも 全員が同じじゃないなら 「人それぞれ違う」ということになるのでしょうか? もしかすると「人それぞれ」の解釈が間違っているのかな・

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  • ベストアンサー
  • kurinal
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回答No.6

mikaze007様、 「たどたどしいにも、程がある」ということでしょうか。 (1)「「人それぞれ」とは、「人それぞれ違う」の省略でしょうか?」 「そんな選択もあるのか!」と、「周囲」が納得するための、感情の吐露であります。 (2)「あと 人それぞれ違うというのは論理的に真なのですか? 言い換えれば「みんな違う」ということですよね?100人いたら100人みんな違うってこと。 一人でも同じ人がいたら、この主張はおかしくなるのでしょうか?   それとも 全員が同じじゃないなら 「人それぞれ違う」ということになるのでしょうか? もしかすると「人それぞれ」の解釈が間違っているのかな・ 「論理的に真」か、どうかは、この際、重要ではありません。 (例)1万円札と1000円札と、どちらかあげる、と言われたときに、 1000円を選ぶ奇特な人間が居て。でも100人居れば2人、居るかも知れない。 残り98人は、1万円を選ぶ。 そうした事情を知る人間が、稀に2人に遭遇すると、 「人、それぞれ!」と嘆息することになる。

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その他の回答 (5)

noname#194996
noname#194996
回答No.5

>みんな違う」ということですよね? その通りです。(ひとりひとりが)別個の存在だということです。 > 一人でも同じ人がいたら、この主張はおかしくなるのでしょうか?   いいや、おかしくはなりません。現実にDNA(遺伝子)が同じ人間は存在します(一卵性双生児、など)。 でも、そんな2人であっても、一旦生まれた後は別個の存在になります。「人それぞれ違って当然」ということです。 >人それぞれ とは? 事実であるかどうかでなく、良くも悪くも人間といういきものの現実を、可能性としての多様性を宣言しているのだと思います。まったく同じ人間が多数居てもまったく変ではありませんね。夫婦などこんなことを言いあっていては困ることもあります。小泉さんは「人生いろいろ」とかいってこれを賞揚しましたが、あべさんなどは国民が愛国心を持たずこれを言い出したら困るのではありませんかね。

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  • raiden787
  • ベストアンサー率37% (179/473)
回答No.4

「人はみんなそれぞれ固有の存在」ってことです。 仮に私と全く同じ性格や感性の人間がいたとしても、彼と私は別人です。 私が私の事情で怪我をしても彼は傷つきません。 彼の経験を私が経験することはできません。 一卵性の双子はテレパシーがどうたらこうたらなんて与太話もありますが、それが仮に事実だとしても単に通信し合ってるってだけで別人であることに違いはないですよね。

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回答No.3

 こんにちは。  十人十色とも言いますね。  ★ あと 人それぞれ違うというのは論理的に真なのですか?  ☆ そういう事実として常識になっているようです。  多くの人が そのような事実認識を共有しているようです。  《論理的に真か?》と言えば そのための説明も成され得るようではあります。  それは では何が違うか? というとき 顔や体が違うほかに 一番の目安は ひとの意志です。意志のあり方であり 意志行為の中身が それぞれ異なるということにおいてだと見られています。  早い話が 家族であっても親友であっても 自分の意志の代わりをすることは出来ません。  友だちにおれの代わりにおまえが 大学の講義で代返しといてくれと言うことはできますが そしてそれが通っていくことがありますが それもほんとうには意志行為の代わりをおこなったことにはなりません。ウソが入っています。  ましてや おれの代わりにおれの胃袋のための食事をしてくれとか おれの代わりにおれの休息としての睡眠を取っておいてくれとか言っても 出来っこありません。  つまり 人それぞれだというのは 身体の問題もありますが 人の言わば固有の意志とその行為が違うということに帰着すると考えられています。  たとえば この哲学カテで 字面としてはまったく同じ質問をしたとしてもその質問という意志行為は 人によって違うと見られます。  答える人にしても まったく同じことを回答したとしても 意志行為としては別だと見られることになります。  簡単に言って まったく同じ内容だから 意志はひとつであるとか だから人間もひとりであるとかの見方にはならないからです。存在ということの重みでしょうか。  二人の人間がいて 互いに意志のあり方が違っている。もしそのとき自己表現としての思想が まったく同じだったとしても・つまりその意味で思想はひとつであったとしても 意志はふたつであり 人間はふたりいます。という見方が 論理的にまた現実として 基本になるのだと思います。    同じ内容の思想を表明していたとしても その二人は 意志の在り処が違うので 《人それぞれ》だと見なされます。また そうでなければならないと考えられています。  ひとは 掛け替えのない存在であると考えられているわけです。生命のとうとさも そこから出ていると思われます。

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回答No.2

人類は、多様性による分業化をベースとした、 社会性を特長として進化してきた。 そうした本質の認識において統一されはしても、 現象的には人それぞれ=多様化を志向する。 また、そうした原理的本質の認識にまで至らず 現象的な修正主義に留まる場合も、先述の多様 性を近似的な原理化する、 「人それぞれ」な考えが可能になる。

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.1

人それぞれに、人生がある、理由がある、都合がある、体面がある、思いがある、そんな裏を根掘り葉掘りしないための、人それぞれ、という慣用句があるのだと思います。

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