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「差別」について。

「差別」について思うことを教えてください。 私は 「軽蔑を伴った不当な区別」だと思っています。

みんなの回答

  • akiko1er
  • ベストアンサー率47% (8/17)
回答No.4

どこかのお坊様の言葉です。「差別なき平等、平等なき差別は共に仏法にあらず」でした。 例えば、子供には納税・勤労の義務がない、など平等があって差別もある、差別はあるが根底に平等があるということが大切だと判りました。

alterd1953
質問者

お礼

なるほど。 仏教について詳しくありませんが「大悲心」に通じる 大きな捉え方だと感じます。 また「融通無碍」の感覚もあるように思います。 ご回答ありがとうございました。

alterd1953
質問者

補足

そろそろ締め切らせて頂きます。 未だ正当な区別と不当な差別に明確な境界線を引く事は困難であるように思いました。 皆様ご回答ありがとうございました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.3

誤解に基づく優劣判断と思います。 例えば、有色人種は劣っている、など。 差別は、一人では完結できない人々の代償を求める作用として現れるのではないかと思いました。

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 根本に「誤解」があるのは明らかでしょうね。 そして、その誤解の背後には そう思うことによって自分が有利になる強い動機があるように思います。 ご回答ありがとうございました。

noname#209756
noname#209756
回答No.2

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%88%A5 (差別) 以前は個人の違い、個性化の時代でしたが、今は違う集団に属するものを特別(悪い?)扱いすることでしょうか?

alterd1953
質問者

お礼

そうですね。 人間には往々にして自分と違うものを排除する傾向がありますが ある違いを持った集団を丸ごと差別してしまうのは あまりにも短絡的だと言わざるを得ないでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.1

 私見をおりまぜながら、以下のとおりお答えします。 >「差別」について思うことを教えてください。 >私は >「軽蔑を伴った不当な区別」だと思っています。 ⇒そうですね。そのとおりと思います。  このような軽蔑や悪意を伴った差別はなくすべきである、ということは言うまでもありませんが、ただ、一筋縄ではいかない面もありますね。よくある勘違いは、悪意でも軽蔑でも何でもないことを差別行為と解釈して、これを禁じたり撤廃したりする現象です。それに類する例は枚挙にいとまがないほどです。例えば、こうです。  アメリカでaffirmative action(差別撤廃運動)が起こったとき、それに呼応して差別用語の撤廃運動も起こりました。そして、例えば、Mr.に対して、Mrs.でもMissでもないMs.が登場し、cripple(かたわ)を廃して、physically handicapped(身体障害者)が用いられるようになりました…などなど。そこまではよかったのです。  ところが、short(ちび)をvertically handicapped(垂直方向に不自由)などと言うようになると、これはもはや「お笑いの世界」ですね。あるアメリカ人作家が、これを"politically correct"(政治的に正しい)などと揶揄しているとか!  ある語学参考書の中に『シンデレラ』の物語が採用されましたが、なぜか一部が抜け落ちていました。ガラスの靴をシンデレラに履かせてみようとする使者に、継母が「時間の無駄ですよ。その娘は卑しい掃除女ですから」と言う場面です。欠落の理由を出版社に尋ねたら、「掃除を職業とする人に対する差別表現なので削除した」というのがその答えでした!?  かつて昭和天皇が四国の阿波踊りを観覧した際に、「踊る阿呆に見る阿呆…」の後半、「見る阿呆」は天皇陛下に失礼との意見が出て、その部分を削除したとか!  ところで、ちょうど今、春の高校野球大会が行われていますね。かつてはこの試合中によく聞かれた「○○高校倒せ~!」というような応援が今はまったく聞かれなくなりました。高野連によって禁止されたからだと言われます。「野球の試合で、相手を倒す」ことのどこに悪意があるというのでしょうか?  かつて大学野球では、応援合戦で相手校をいかにこき下ろすかというのが、試合とは別のもう1つのショーでした。しかし、応援で相手校をクソミソにこき下ろしたからと言って、それで両校が喧嘩したとか、険悪な関係になったなどという話は聞いたことがありません。  上記のような、奇妙な「配慮」をすることに、一体どんな意味があるというのでしょうか? 私はこのような珍現象を「正し過ぎ症候群」と呼びたいと思います。それは、表面上は似ているけれども、本質はまったく異なる事柄を混同しているところから来ると考えます。つまり、自然から由来する、あるいは自然に応じた「差異」と、人為的になされる、悪意のある「差別」との混同ではないでしょうか。スポーツの試合や競技の応援で、「相手を倒せ!」と応援するのはごく自然なことであり、そこには何の悪意も軽蔑もないと思います。  それを禁じたりする発想のほうがよほど不健全で、これこそまさしく、「差異」と「差別」の混同であり、「逆差別」であるとさえ言えるかも知れません。なぜこのような世相が登場したのでしょう。思うに、現代人の意識が「洗練」され過ぎ、人工性に毒されてしまった結果ではないでしょうか。あるいは、人間本来の感性を侵されて軟弱化し、自然を有り体に見られなくなった結果ではないでしょうか。このような勘違いが今後も営々と続くようであれば、現代人はますます軟弱化し、脆弱化していくこと必定…と言えるかも知れません、よね?  以上、少々ヒステリックになってしまいましたが、ご回答まで。

alterd1953
質問者

お礼

仰りたいことは良く分かります。 何事も行き過ぎはダメですね。 まず「軽蔑」の感情が背景にあるかどうかが分かれ目でしょうが それすら判定が難しいですし ましてや、「正当」と「不当」の判定はもっと難しいでしょうね。 いずれにせよ、歴史の中で振り子の振れ幅が少しでも少なくなって行くしか無いのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

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