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江戸時代。大名同士の付き合い。
幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。 制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。 この法を監視する役職は何ですか。 違反して咎められた大名家はありましたか。 江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。 すると、婚姻圏は大きいと言えず、大名家同士、いっぱい親戚関係になります。 しかし、この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。 それをどこまで管理できたのかという疑問です。 よろしくお願いします。
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基本的には制限は無いと思います。 下記は江戸中期の大名交流の一情報に過ぎませんが… ・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>点取俳諧集 http://kikutsura.com/tentori/ 菊貫(真田幸弘)は、安永初年頃から文化12年までのおよそ40年間、 米翁(柳澤信鴻)や華裡雨(細川重賢)などの大名俳人や家臣たちと江戸藩邸や松代城下で、 百韻(俳諧連歌のひとつ)を巻いて遊んだ。 ・松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝>フォーラム案内 >真田フォーラム2010─真田フォーラム2010の記録冊子(PDFファイル) <9~16/64> 西田耕三先生「細川重賢の俳諧」 http://kikutsura.com/wordpress/wp-content/uploads/2012/06/2db36775d88aa353799ba8d1475c1af8.pdf <12/64> …それから興行場所は江戸藩邸が多い。細川の場合はほとんどそうですね、江戸です。… …それから上野の寛永寺でやっている。もちろん他でもやっている。 残っている作品で申し上げているわけですけどもね。 ですから、圧倒的に江戸藩邸が多い。表海楼という部屋と蘭嘯閣という部屋があって、 大名によって区別をしているんですね。 気の張る大名だったら蘭嘯閣に呼んで、それで大した、大したって言うのもなんですけども、… …親しい大名だったら表海楼、常の居間って言っているんですけど、そこでやるんです。 これ、歴然としているんです。そういう意味では、これ、参考になるんですね。… <13/64> …で、これは裏付けがとれるんです。これはまた、作品が残っているわけです。 で、今日は一点集中というか、安永四年、十月二十五日の俳諧興行について こういう約束が一つある。で、実際の俳諧が二枚目の下の段と上の段と言いますか、 上の段の下の方にある32段の百韻書き起こし、安永四年、十月二十五日、表海楼という、 これはさっき言った気の張らない仲間ですね。 これが先程の三花を呼んでくれという。で、三花は登場して来ませんからね、 多分都合が悪かったんだろうと思いますね、青木甲斐守。… 〇真田幸弘<信濃・松代藩主/宝暦2年(1752)~寛政10年(1798)> 外様(譜代格)/帝鑑間 [元文5年(1740)生─文化12年(1815)没] 〇細川重賢<肥後・熊本藩主/延享4年(1747)~天明5年(1785)> 外様/大広間 [享保5年(1721)生─天明5年(1785)没] 〇柳沢信鴻<大和・郡山藩主/延享2年(1745)~安永2年(1773)> 譜代/帝鑑間 [享保9年(1724)生─寛政4年(1792)没] 〇青木一貫<摂津・麻田藩主/明和7年(1770)~天明6年(1786)> 外様/柳間 [享保19年(1734)生─天明6年(1786)没] 以上 御参考まで^^
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>大名同士の付き合いを制限していたのですか。 単なる交際は制限していません。 武家諸法度の目的は軍事同盟の阻止です。 下記サイトを御覧下さい 大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済 - インターネット www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/zeitaku-2.html レポートの中に下記のようなことが書かれています。 江戸屋敷関係費用の最大の支出先は、幕府や他の大名との交際費だった。これは現在の企業が情報収集活動や営業活動に使う費用ともいえるものだった。この情報収集や営業活動の目的は、思いがけない天下普請や役務を命じらられないための”根回し”のための費用もむくんでいた。、あた、数年に一度の割合で確実に命じられる天下普請などの御手伝大名を大名どうしで調整して決める場合もあった。 また加賀前田家、筑後黒田家、薩摩島津家など主として外様大名の大藩の場合、御手伝普請担当の子会社ともいうべき2ないし3の支藩を設け、天下普請の時の万が一の事態の累が本藩に及ばない工夫をすることもいわば常識だった。「忠臣蔵」の浅野本家と赤穂支藩の場合はその好例だが、なぜかそのことを今まで指摘したものはほとんどない。 どうしても御手伝を避けたければ、幕府の担当役人に”しかるべき”運動をすることはことより、他の大名家の諒解を予め取っておく必要があった。この場合、大名家側の相談と幕府の担当者などとの事前調整=談合によって、天下普請を担当する大名が決まるシステムだったと考えられる。この辺りの事情は、現在の公共工事にからむゼネコンの談合を想像すれば間違いはないだろう。 建設談合の場合でも「利益の薄い工事や赤字工事が発注されると関係者が事前調整を行って、その工事で”泣く”業者を決め、”泣いた”分は後日の工事で補填するケースがある」との新聞報道が盛んにされている。つまり、幕府やほかの大名家との交際の上手下手は、大名家の運命を左右するほどの重要なものだった。 近世大名家の政治秩序 repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135509/... 親類大名の役割が記載されています。 近世大名庭園の造形に見る農本主義の影響 www.hues.kyushu-u.ac.jp/education/student/pdf/2008/2HE07076Y... レポートの中に以下のような説明がされています。 白幡洋三郎がその著書「大名庭園ー江戸の饗宴」の中で、大名庭園が、私的な慰楽でkを目指したものではなく、公的な儀礼空間としてもつくられた装置であり、対将軍家並びに他の大名家との「儀礼」と「交際」のための、そしてまた、藩主の家臣に対する供応のための場を実現するための機能を大名庭園の注目すべき構成要素としてあげている。 東京新聞:尾張徳川家の至宝 江戸東京博物館 開館20周年記念特別展 www.tokyo-np.co.jp/event/bi/owari-tokugawa/txt/130130.html 尾張徳川家第22代当主で徳川美術館の館長である徳川 義崇(とくがわ よしたか)氏の談話の中に以下のことが書かれています。 大名というのも職業の一つだと思う。現代でたとえると株式会社尾張徳川家が尾張 という土地を管理している。この社長がお殿様。そういった社長さんが各地にいて、お 付き合いがある。その中で、ちょっとゴルフぐらいできなきゃとか。同じイメージで大名 同士のお付き合いで生まれたのが大名文化。 徳川家斉が寵臣の水野忠邦の屋敷を訪問したことを揶揄する川柳があります。 沢瀉のなかを葵が通りぬけ 将軍が家臣の家に遊びに行くのは如何にも体裁が悪ので、御三家水戸家の下屋敷を尋ねる際に水野の屋敷を通り抜けるのだと口実を付けたのを江戸っ子がからかった川柳です。 沢瀉:水野の家紋 葵:将軍家の家紋
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ご回答ありがとうございます。 的確な解説でとてもよく解りました。 ご紹介のサイトはどれも疑問の解決に直結するもので、素人の私でもすぐ理解できました。 >近世大名家の政治秩序 親類大名の役割が記載されています。 なんと! こんなケースがあるのですね。 この論文には、「蜂須賀蓬庵の婿である譜代大名井伊直孝が親類大名として蜂須賀家の家中統制に発言力を持つとともに、蜂須賀家の対幕府交渉において指南的な役割を果たしていた」とあります。 >近世大名庭園の造形に見る農本主義の影響 なるほど! 大名庭園から大名どうしの付き合いを知ることもできるのですね。 まったく思いもつかなかったです。 私は疑問が解消してすっきりしましたが、それでもこれらの付き合いは「必ず公儀を通して行われた」という反論もあるかも知れませんので、もう少し締め切らずに開けておきます。
- ithi
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ithiです。 一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。 訳:謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。(wikiから) まことにその通りです。婚姻を口実にするという考えですね。だから、許可制にして規制し、、私婚を禁じたのです。 ほかの冠婚葬祭の儀礼についてもそのように考えられるので、あえて幕府に伺いを出したとかという話もあるようです。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 私婚の禁止は、武家諸法度に「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」と明記されています。 >ほかの冠婚葬祭の儀礼についてもそのように考えられるので、あえて幕府に伺いを出したとかという話もあるようです。 江戸中期以降の事例を知りたいですね。 「話もあるようです」とのことですが、何か思い出していただけませんか。 ここが知りたい疑問の核心なのです。
- ithi
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kouki-koureisyaさん、こんばんわ。 江戸時代の初期は徳川家に敵対するであろう大名がたくさんいたので、婚姻などで誼を通じて同盟を結ばれては一大事だったので、届け出制にして制限しました。 具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。 武家諸法度です。 この法を監視する役職は何ですか。 大目付という役職がありました。3000石高の旗本の役職です。 江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。 大広間詰の外様大名の場合、甚だしいところでは清華という家格のお公家からも輿入れしました。 この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。 たぶん、3代前くらいの当主のところからしか交際していないと思います。それ以上になるとかなり頻繁に贈答を繰り返し、ただでさえ莫大な交際費がさらにかさんでしまいます。
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ご回答ありがとうございます。 武家諸法度は、一応読んでから質問したのですが、交際を禁止すると解釈できる項目を見つけることができませんでした。 次の項目を拡大解釈するのでしょうか。 一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。 訳:謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。(wikiから)
- trajaa
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・役職は大目付 ・武家諸法度 ・別に交際を制限していたわけではない 但し、疑いをもたれるような行為を避けるというのが必要な作法 ・婚姻や養子縁組は、幕府に届け出て許可を得れば問題無い 問題なのは、許可を得ずに勝手に行う事
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ご回答ありがとうございます。 >別に交際を制限していたわけではない >但し、疑いをもたれるような行為を避けるというのが必要な作法 確かにそうだと思います。 このことを確認したかったのです。
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いつもご親切な回答をありがとうございます。 「真田フォーラム2010─真田フォーラム2010の記録」は、将に待ち望んでいた話です。 このフォーラムは気付きませんでした。 私が知りたかったのは、大名本人どうしがお互いの藩邸を私用で行き来したのか、という疑問でした。 当時の日記が3百藩全て残っているわけではなく、残っていても幕末の記録が多いです。 このフォーラムの講師の発言で、鳥取藩の『御留守居日記』の話が出てきます。 私にとって大変参考になる個所です。 (以下、引用) 鳥取の資料にはですね、俳諧っていう言葉は、私は一度も見たことないですね、どういうわけか。どこどこへ行ったということはしょっちゅう出てきますけれど、俳諧のために行ったとか、蹴鞠のために行ったとか書いてないんですね。 それは資料の性質にも拠るんだと思いますけどね。『御留守居日記』というまあ、公のものだからかもしれません。で、これは裏付けがとれるんです。(引用終わり) ここで、蹴鞠の話が出てきますが、これも興味深いです。 (以下、引用) それから、その次の「鞠壱ッさかし出さるゝ寺の秋」。本当に優雅なことしていたと思うのですが、このように藩邸で句会を催した時には、きっと句会ばかりではなくて、その前にお茶の席を設けたり、あるいは蹴鞠をして遊ばれたんだそうですね。 そういう事が先生方の論文の中に書いてあります。そういう事を考えるとやはり殿様たちがこういうことをして、連句を詠んで、そして最後には宴会を催して夜中にお帰りになった時の風景が、何となくイメージとして湧いて来るような気がします。(引用終わり) さらに、驚いたことですが、俳諧が趣味の大名の奥さまが、主人不在の場合(多分お国に帰国)一人で俳諧の場である他藩の藩邸へ出かけ、出席していることです。 (以下、引用) おそらく御主人の升来公(肥前島原藩主松平忠恕)が参勤交代で島原へ行っているんだろうと思うんですね。で、一人の時は菊貫といっしょに一人の俳諧宗匠として、あるいは俳諧の作者として春秋館へ出掛けて行っているということがわかります。 だいたい出かけているのが陸州の春秋館と白日楼、すなわち、松代の菊貫公の屋敷へ一人で出かけているという事になります。もちろん侍女だとかのお供を連れて行列を作って行くわけでしょうが。 ここで僕が一番おもしろいのは、俳諧の場に置ける女性が身分的に自由であるということですね。 譜代も外様も趣味の世界ではそんなに格式ばらずに付き合っているようですが、好き嫌いはあるようですね。これが面白い。 >圧倒的に江戸藩邸が多い。表海楼という部屋と蘭嘯閣という部屋があって、大名によって区別をしているんですね。 >気の張る大名だったら蘭嘯閣に呼んで、それで大した、大したって言うのもなんですけども、……親しい大名だったら表海楼、常の居間って言っているんですけど、そこでやるんです。 >これ、歴然としているんです。そういう意味では、これ、参考になるんですね。… 菊貫(真田幸弘)は、安永初年(1772)頃から文化12年までのおよそ40年間、諸大名と俳諧を通して付き合っていますね。 関ヶ原から170年経った頃の大名どうしの私的な交際の様子が大変よく解りました。