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江戸時代の「奢侈禁止令」。
庶民、中でも農民には厳しい制限があったようです。 奢侈禁止令について教えてください。 1.「奢侈禁止令」という名の法令を幕府が出したのですか。 2.「奢侈禁止令」の条文をネットで読むことができますか。 何回も出されているので、そのうちのどれか1回分を読みたいです。 3.「奢侈禁止令」は、私領(大名領)にも出されたのですか。 領国経営は、領主の大名に任せるというのが原則だったと思っていたので質問しました。今の感覚では、領民が絹製の着るものを着て、おしゃれを楽しめるということは、国の経済がよいからだと、思います。そこへ幕府が口をはさんだということですか。 よろしくお願いいたします。
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<回答No.3の補足> 近世編年データベースは、検索結果一覧の画面の右端にあるマークをクリックすると本文画像のページが表示され、綱文だけでなく本文も読めるようになっています。 『史料稿本』は、編纂者の手書き原稿をそのまま公開したものになっていて読みにくいですが、刊本の『加賀藩史料』『日本財政経済史料』『東京市史稿 市街篇』は活字なので読みやすいです。 武士・町人向けでは、天保12年10月15日の綱文「幕府令して、老中水野越前守「水野忠邦」より直に、士民の奢侈を戒める触を渡す」が、農民向けでは、延宝六年四月十日の綱文「金沢藩、百姓の酒・地黄煎・小間物・呉服類等を購ひ奢侈の生活を為すを禁ず」が、内容的にまとまっていてわかりやすいと思います。
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- 4017B
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>>[続き: 2/2] そもそも論で言えば米も野菜や肉と同じく賞味期限がある生鮮食料品に過ぎないので、例え籾殻付きの玄米状態で保存していたとしても、収穫したての新米が最も価値が高く。それ以降は月を経る毎に商品価値が下がって行くため、これを拠り所に基準通貨の様に扱う事自体に無理がある事は誰の目にも明らかであるにも関わらず、幕府は米価を基準通貨として維持する事に固持しました。その様な子供にでも分かる明らかな矛盾を抱えた「米本位制」を、大阪商人を始めとした米問屋などの相場師達が見逃すはずも無く、江戸時代の米価は徹頭徹尾、相場師達によって完全支配されてしまい、終に幕府のコントロールを取り戻す事は無かったのです。 米本位制の社会において給料を全て「石高」という米価換算で貰っている武士にとって、米価が高止まりで安定している事が重要であり希望でもあるのですが。一方の相場師達からすれば単なる投機対象に過ぎない米価は、高くても低くても良いので、とにかく不安定で相場が乱高下した方が空売りなどで利ザヤを荒稼ぎし易いので。幕府と米商人達との利害は常に相反する性質のモノでした(つまりこの時点で実体経済プレイヤである商人達と、それを統制する側である幕府との間で、互いに協力して「Win-Win」になる関係性を築く事が出来ない社会構造だった)。 そんなこんなで幕府は物価高による武家社会の財政難に直面した時、武家にとっての基準通貨である米価の市場価値が極端に低い事が理解できず、その全ての原因は「農民が本分を忘れて米作に励まないからだ」という完全に明後日の方向性に舵を切り、これを徹底させるために何か良くない事が起きる度に倹約令を乱発しました。事実、江戸時代は時代が下るほどに、農民らが先祖代々の耕作地を放棄して近隣の都市部へ流入する「耕作放棄」が激増して行くのですが。これは農民が不真面目になったからでは無く、幕府が要求する米だけを作っていてはとてもじゃないが食っていけなかったためであり。多少なりとも才覚ある者であれば隠れて高値で売れる商品作物を作りましたが、そうでは無い大多数の農民達は米作至上主義に絶望して逃げ出したのです。 しかしそうなって来ると自由経済社会に生きる私達の感覚からすると、稲作農家が減少すれば需要と供給の関係で米価が上がって来るのでは~と思いがちですが。実際にはそうはならず、日本全国で農民全員が一斉に耕作放棄でもしない限り、江戸時代の米価は常に全国各地の「米どころ」から供給量が商人達によって完全にコントロールされていましたので、少なくとも幕府や農民らを笑顔をする様な方向で米価が推移する事はありませんでした。そしてますます米価は低くなり、そのため農民のさらなる耕作放棄や米以外の商品作物への転作へ走る動機となり、年貢米の収量は思う様に伸びずに返って減収する様になり。それを唯一の収入源として全ての生活基盤に頼っていた武家の生活はさらに苦しくなるという悪循環を繰り返しました。 遥か昔の奈良時代や平安時代には貨幣経済の先駆けみたいなモノが出来つつあったにも関わらず、家康がそれらに完全逆行して何故に無謀とも思える米本位制を江戸幕府の経済体制の主軸に置いてしまったのかは謎ですが…もしかしたら儒教的道徳観以外にも、金銀といった貴金属に頼るのは鉱山開発の様にやってみなければ分からないため非常に博打的だと感じていたのか。それに比べれば稲作は天候などに左右されるにしても、新田開発の様に人的努力によって多少なりとも確実に積み重ねが適用されるので、米本位制の方が最終的には安定確実だと錯覚していたのか。 質問者は「領民が贅沢できるのは豊かになった証では」と言いますが、前述の様に江戸時代の幕府や将軍達にはその様な考え方をする人間は一人も居なかったのです。まあ田沼意次とかは近い感覚を持っていたみたいですが、それでも本質的な部分では他の施政者らと同じく米本位制の呪いから完全に逃れる事は出来ませんでした。天保の改革を行った水野忠邦に至っては、領民が日干しになって餓死しようとも、その上に立つ武家さえ豊かになって守られれば後はどうなっても構わないという考えでした。 まあそういう訳で「倹約令」は江戸時代特有の儒教思想から来る禁欲的な道徳観念と、それらに裏打ちされた米本位制という非常に特殊な経済体制によって、歪に歪んでしまった米相場を何とか幕府のコントロール下に取り戻そうして四苦八苦していた無駄な足掻きであったと言えます。 P.S. # 『御触書天保集成』に記載のある文言 御代官え申渡 百姓の儀は麁服を着し、髪等も藁を以てつかね候事、古来の風儀ニ候処、近来いつとなく奢に長じ、身分の程を忘れ、不相応の品着用等いたし候ものもこれ有り、髪ハ油、元結を用ひ?? 右に随ひ候ては次第ニ費の入用多く成り候間村柄も衰え、離散いたし候様ニ成り行き、壱人離散いたし候得ば、右のもの御年貢、返納物等弁納ニ相成り、村方難儀も相重なる事に候。 右の示し手本のため、御代官、手代共衣服の風儀も、厳しく申渡し候事ニて、手代すら右の通り候上は、百姓共猶更少々たりとも奢り候事これ無く、古代の儀忘却致す間敷候。 百姓ニて余業の商ひ等いたし候類、又は村々ニ髪結床等これ有る儀も不埓の儀ニ候。以来は奢がましき儀相改め、随分質素ニいたし、農業相励み申すべく候。 右の趣、村々小前のもの迄も行届き、自然と教諭に感じ、百姓の風俗相改まり候様、厚く申含めらるべく候。 # 『徳川禁令考』に記載のある文言 一、不益に手間懸り候高直の菓子類、向後無用致すべく候。是迄拵へ来り候。共、相止め申すべき事。 一、火事羽織、頭巾、結構の品無用致すべし。并びに町方火事場まとひ、錫箔の外用ひまじき事。 一、能装束甚だ結構成るも相見へ候間、向後軽く致すべく候。并びに女の着類も、大造の織物縫物無用に致すべき事。 一、はま弓、菖蒲甲刀はご板の類、金銀かなもの并びに箔用ひ申すまじき事。 一、雛并びにもてあそび人形の類、八寸以上無用たるべく候。右以下の分は麁末の金入どんす類の装束は苦しからず候事。 一、櫛、かうがひ、髪さし等、金は決て相成らず候。銀、鼈甲も大造にこれ無くは苦しからず候。并びに目立ち候かざり、細工入組高直の品は売買堅く停止の事。 一、きせる其の外もてあそび同前の品に、金銀遣ひ申すまじく候。并びに蒔絵等結構に致すまじき事。 右の条々、急度相守るべく候。 # 幕府からの倹約令の通達を受けて萩藩が領民に対して出した御触書 - "武田家文書 大目付廻状写": http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/3-3-6-025.pdf いや~実に細かい!本当にどうでもいい様な些細な事を重点的に厳しく規制しようとしてる辺りが、確かに昨今の "ブラック校則" などと揶揄される様な「意味のないルールのためのルール」を彷彿させますね(笑)。髷を結うための紐は藁にしろとか、正にブラック校則にありそうな「女子の髪を結わえるのは無地黒一色のゴムバンドのみ、赤ピンク等のカラーゴムは禁止」みたいな感じです。この他にも「食事の際のおかずは漬物1品まで」とか、バカ丸出しの倹約令が多かったみたいです。 尚、web上にも自由閲覧可能な資料等は大量に存在しますが、それらは整理されてないものも多く。また必ずしも専門家の精査を受けていない、いわゆる「偽書」と呼ばれる眉唾物も多く含まれるため、単語検索して引っ掛かって来たweb記事などをうかつにそのまま受け取ってしまうのは危険です。 そういった事を防ぎ、また予備知見の乏しい学習途上者などにも必須かつ最重要な項目をバランス良く解説し、歴史学習の手助けになってくれる教科書的な本が以下に示す様な「高校生向け副読本」です。 - "詳説日本史史料集 (山川出版社)" - "精選日本史史料集 (第一学習社)" - "詳解日本史史料集 (東京書籍)" - "日本史重要史料集 (浜島書店)" これら「副読本」は第一線の複数の研究者らが様々な角度から丁寧に歴史的事象を解説してくれており、単なる受験対策用テキストだと侮って手に取りもしないのは勿体ないです。特に歴史教科書の分野では山川出版は非常に信頼できるため、多くの進学校でも標準教科書と言って良いほどに採用されています。実に嘆かわしい事ではありますが、自民維新を始めとする極右保守排外主義者たちに「自虐史観主義」などと攻撃されている教科書ほど、逆説的に非常に信頼に足る良書である証明だと思ってください。 他にも良書はたくさんありますが、著者名から信頼度などを裏取り調査して行くのはなかなか難しく骨も折れる不毛な作業なので。まずは現時点で信頼度が高い「山川出版」から始められてはどうかと提案してみます。むしろ受験勉強などから解放された大人になった今、改めて素の気持ちのままに読み物として読む教科書はとても新鮮で面白く感じると思いますよ。
お礼
懇切丁寧なご回答誠にありがとうございます。 よく分かりました、 しかし、『御触書天保集成』は、とてもじゃないですが私の手に負えません。 崩し字を見ていると何が書いてあるのか分からなくても、何しろ当時のものですから、書いた人の気持ちが伝わってくるような気になります。 また、そんな気分に浸りながら読むようにしています。 活字では出てこない感情です。 >天保の改革を行った水野忠邦に至っては、領民が日干しになって餓死しようとも、その上に立つ武家さえ豊かになって守られれば後はどうなっても構わないという考えでした。 領民が餓死してしまうような政治では、「米本位制」の大元(農民)が揺らいでしまう気がしますが、もう少し「米本位制」を勉強してみます。 それから、以前このカテで教えてもらって、山川出版社の『詳説日本史B』(2014年発行)と浜島書店の『新詳日本史図説』を持っています。
- 4017B
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>1 「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」という名称は学術用語ですね。ですので特に江戸幕府が発布したモノに限らず、古代日本の例えば平安時代とか鎌倉時代などにも似た様な「贅沢禁止令」が天皇の名において何度か出されていますが、これも一様に「奢侈禁止令」というカテゴリにまとめて語りますが。実際にはその時々で色々な名前や名目で禁令各種は出されています。 また日本に限らず西欧社会で発布された同様の法令なども同じく「奢侈禁止令」として語ります。ですので「奢侈禁止令」という言葉は何か固有の法律名を指して言う言葉では無く、こういった「贅沢禁止令」を意味する大きなカテゴリを表す学術用語ですね。 江戸幕府が何回か出した「贅沢禁止令」には特に固有の法律名等は付いておらず、基本的には「御触書(おふれがき)」とか「御掟書(おんおきてがき)」みたいな名目で他の様々な項目とまとめて一緒に出されます。まあそれだと後世の我々が議論する際に面倒なので、それらの中から各項目のみを抜き出して便宜的に「天保の倹約令」などと固有名を付与して語る場合が常です。ただ一応は江戸時代の幕府内用語でも「倹約令」という表現を用いていますので。敢えて「固有の法律名は?」と問われるのであれば、その場合は「倹約令」と答えるのが間違いでは無いかなと思います。 インターネットあるあると申しましょうか…この手の「贅沢禁止令」とか「倹約令」とかでGoogle検索すると、元の検索単語をGoogle側で自動的に "意訳" して、検索結果の一番最上段に「Wikipedia: 奢侈禁止令」を表示する様になっているので。それに飛び付いて深堀りせずに「それは奢侈禁止令です(キリッ」という "正解" を云う人が多い印象です。 >2 一応、読むというか見る事は可能ですが…年代別や項目別などに整理されていないので、閲覧者自身で読み解きたい箇所を自力で探して読み解く必要があります。まあ普通に考えて相当に古文漢文の知識と、それにも増して「くずし字」を読解出来る眼力が要求されますので、ちょっと無理無茶無謀の三無族って感じがします。 - "御触書天保集成": https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004370&ID=&TYPE=dljpeg 上記リンク先から倹約令なども含めた、江戸時代の御触書をまとめて編纂した法律書である『御触書天保集成』の全107巻!を全てPDF形式でDLして読む事が可能です。確か倹約令関係のヤツは第89巻に記載されていた様な記憶がありますが…確証は無いので質問者自身の目で確かめてみてください。 >3 はい、この手の倹約令は幕府が大名家に対して発布された「公事方御定書」及び「武家諸法度」などと、それとは別に大名家が家臣や領民に対して発布する「御触書」とがありました。厳密に言うと公事方御定書は法令では無く、江戸時代成立までの過去の公事方事例をまとめた判例集みたいなモノですが(あ、「公事方」と言うのは「お裁き≒裁判」みたいな意味です)。幕府将軍家はこの「公事方御定書」を前例踏襲して万事、治めるべしという方針であり、また領民に対して出された「御触書」もこの公事方御定書に記載された判例に倣う形で作成発布されますので。これらは事実上の江戸時代の憲法&法律書として機能しました。 ですので幕府や将軍家が直に大名家の領民に対して何らかの御触書を出す事は、鎌倉幕府以来の武家政治の根幹である「御恩と奉公」の精神に抵触していまうため、出来ませんでしたししてはならなかったのですが。間接的に幕府が大名家に対して「領民の模範となる様にこうしなさい」と通達を出す事は可能だったので…「最近のOKWave藩の領民は贅沢を覚えて何だか風紀が乱れているみたいだが。それは藩主たるOK殿が質実剛健の武士の規範を忘れているからではないのか?」みたいな言いがかりというか通達を大名家に出す事により、これを受けた各々の大名家は「まこと上様の仰る通り!早速、領民の風紀を引き締め、私も文武両道に努めます!」みたいな流れで各藩の領民に対しても幕府の思惑が浸透して行く次第となっていました。 で、質問者が疑問の「なぜ贅沢を禁止したのか?」についてですが。これには大きく分けて2つの理由があり、1つは「当時の物価高を抑制するため」で、もう1つは「当時の道徳的価値観を守るため」です。 道徳的価値観を守るためというのは、何となく現代日本人でも理解出来る範疇の理由ですね。21世紀の令和の時代ですら「贅沢はけしからん」とか「母親になったらマニキュア控えるべき」みたいな考えの人はかなり数多く見られますので、江戸時代での大多数の一般的な道徳的価値観は推して知るべしです。また当時は(いや今でもか?)本気で「経済不況や自然災害の多発は人心の乱れに原因が有る」と信じられていましたので、当時の幕府としては「領民の道徳的規範を引き締める=良い政治をする」だったのです。 では物価高を抑制するとはどういう事だったのか?これはちょっとピンと来ないですよね。これを理解するためには当時の経済体制がどの様になっていたのかを理解する必要があります。江戸時代の日本は資本主義では無く、況してや重商主義ですら無く、その実態は「米価至上主義=米本位制」と言えるものでした。そしてそれは幕府による表向きの「米本位制」と、裏の実体経済を掌握して完全にコントロールしていた大阪商人達による「銀本位制」との、二重経済体制だったとも言えます。 資本主義とはその名の通り「資本を所有する資本家が全てをコントロールする経済体制」ですが(貨幣経済主義という意味では無い事に注意)、江戸時代の「米価至上主義」は米の値段、即ち "米価" によって全てが支配される経済体制の時代でした。ですので幕府の経済に対する主な役目は「米価をコントロールする事」にありました。そしてそれは江戸300年間の間、一度も成功せずに終焉を迎えました。この江戸時代の日本に固有のフシギな「米価至上主義」に関しては、それだけで1つの論文が書ける様な非常に多岐にわたる内容を含みますので、詳細な解説は文字数制限などもあるため割愛させて頂きます。 で、米価が基準となってその他の物の値段、即ち「物価」が決まります。幕府を始めとして武士は全て給料を「石高」という形での「米価」として受け取ります。つまり「お米」という現物支給になる訳ですね。しかしながら現実としては幾らお米をたくさん持っていても、自分が食べる分以外は無用に溜め込んでいても仕方無いですし。何より出仕のための裃や着物を整えたり、武家としての馬を飼育するための費用、つまり現金がどうやっても必要になります。ですが武家は副業を禁じられていましたし、給料はお米という現物支給でしか貰えないため、他に必要な現金を得るためには貰ったお米を商人に売って現金に変えてもらう必要がありました。 これだけだと現代の農家が自分で作った作物を農産物として、青果市場やスーパーの青果部門に卸し販売するのと変わらない様に思うかもしれませんが。これには決定的な違いがあって、それは販売側である武士は直接には商品である米の生産には一切タッチしていないという事実です。言い方は悪いですが、形式上は武士は年貢米として受け取った米をそのまま横流ししてるだけの存在です。しかも江戸時代以前の荘園領主の様に主体的に自分の領地での稲作などに関与して、作物の量や種類などをコントロールしているのであればまだしも、藩主である大名家以外は基本的には領民に対して「こういった作物を作れ」みたいな指示などは出せませんので。 家臣としての武士はあくまでも俸禄としての米を藩主からそのまま受け取るだけの存在です。お米は嫌です、代わりに大豆とイチゴにしてください~みたいな事は出来なかったのです。そうなって来ると現代の農家とは違い、市場の流れを見て今一番高く売れそうな作物を出荷するみたいな事が全く出来ない訳です。不作だろうが豊作だろうが、高値だろうが値崩れを起こしていようが、武士の商品棚には1年中お決まりの「米」しか並べる事が出来なかったので、この様な状態ではどんなに商売上手の口上手であったとしても、手足を縛られて喧嘩するみたいものですので。武士が禄として貰ったなけなしのお米は、ほとんど最低価格で海千山千の商人達に買い叩かれるだけでした。 武士にとってはこの禄として貰ったお米の値段がそのまま得られる唯一の現金収入となり、正に米価の多寡は生命線となるため、この「米価=米相場」が幕府のコントロールを離れて常に乱高下する状態は何としても防がねばならない訳ですが…当時の江戸幕府の将軍や幕閣達は全くもって市場経済の仕組みや貨幣経済の流動性と言った本質的な経済の仕組みをほとんど理解出来ず、ただひたすらに無闇矢鱈と禁令を乱発するしか能がありませんでした…>>[続く: 1/2]
- D-Gabacho
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1. 法令に名前はついてません。歴史学者が便宜上、奢侈を禁じる内容のものにそう名づけて呼んでいるだけです。 2. 東京大学史料編纂所の近世編年データベースで「奢侈」をキーワードに検索すると、いろいろ出てきます。 https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/ 3. 大名領でも出されています。幕府が出したのに応じて同様の法令を出すこともあれば、幕府と関係なく独自に出すこともあります。 お察しの通り領国経営は領主に任せるのが原則ですが、武家諸法度に「万事江戸ノ法度ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行スベキ事」と定められており、幕府の法を諸藩も遵守しなければならないことになっています。ただ、あくまで領国経営は領主に任せるのが原則で、基本的に細かいことに幕府は口出ししませんから、すべての藩が幕府の出すすべての法令に一々したがっていたわけではありません。
お礼
的確なご回答誠にありがとうございます。 東大の「近世編年データベース」をこんなふうに利用できるとは知りませんでした。 「奢侈」という実にあいまいな言葉が、具体的に何を指しているのか、どんな文言で書かれているのか、条文を知りたかったのです。 農民に対して、また着るもの一般について、どこまでこまごまと幕府が指示したのか、です。 結局、条文そのものは、ここに記載された本を調べるしかないのですが、代官所が領内に出した「触れ」は、いくつかネットに出ていますから、多分、幕府が示した条文をそのまま「触れ」にしたのでしょう。 気になった項目は、 ・享保17年5月25日、条:1、綱文内容:辛巳、将軍吉宗、名古屋城主徳川宗春の奢侈、度なきを以て、小姓組番頭瀧川元長・目付石河政朝を其邸に遣して、之を譴責す ・享保18年2月是月、条:1、綱文内容:幕府、諸国代官に令して、奢侈を戒め、心を民事に竭さしむ 徳川宗春の奢侈を譴責するについて、幕府の沙汰の伝達に下っ端役人が遣わされていたのは意外でした。 また、同じころ幕府は、諸国代官にも「奢侈を戒め、心を民事に竭さしむ」指令を出していますね。 読めば読むほど面白くて、新しい疑問が次々湧いてきます。
- oska2
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>「奢侈禁止令」という名の法令を幕府が出したのですか。 この名は、俗称でお触れをだす度に名前は変わっています。 当然、幕府が出しています。 >「奢侈禁止令」の条文をネットで読むことができますか。 出来ますよ。 読みたい幕府の布告を検索して下さい。 「百姓は、死なない様に貯めない様に」by徳川家康。 「ゴマの油と百姓は、絞れば絞るほどよく摂れる」by江戸幕府。 「ゴマの油と国民は、絞れば絞るほどよく摂れる」by自民創価学会連立政権。 >「奢侈禁止令」は、私領(大名領)にも出されたのですか。 その通りです。 各藩も、幕府の命令に従います。 幕府が「〇〇の令」を布告すれば、各藩も同様の布告を行います。 有名なのは、吉宗の倹約令ですよね。 この方針に反した尾張藩主徳川宗春は「隠居閉門」を幕府から命じられましたよね。 お墓には、死後から昭和の代まで「墓石は(犯罪者を意味する)金網で覆われて」いました。 ※昭和の代に、徳川宗家の子孫が「許す」と尾張徳川家の子孫に通知。 親藩の雄でもこのありさまですから、全国各地の藩も幕府に従います。 >領国経営は、領主の大名に任せるというのが原則だったと思っていたので質問しました。 もちろん、各藩に自主的な政策があります。 が、今と同じで「中央の意向には逆らわない」のです。 現在でも、政府が決めた政策に従って地方政治が行われていますよね。 同じ事です。今も昔も「独自の地方自治は存在しない」のです。 余談ですが・・・。 当時も「反骨精神」を、多くの国民が持っていました。 例えば「全国各地のちらし寿司(郷土料理)」 ご飯の表面には具が無いのですが、ご飯とご飯の間に具だくさん! 例えば、香川県などの「お雑煮のお餅」。 見た目は京風の白い丸餅ですが、お餅の中には「砂糖いっぱいの餡子」入り。 庶民も、色々と秘密の贅沢をしていた様ですよ。 幕府も各藩も、「お目こぼし」として不満のはけ口として大目にみていました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 実際の条文を読みたいので検索すると「慶安の御触書」がヒットするのですが、これは真偽のほどが不明ですね。 吉宗の倹約令が出たのは享保9年(1724)で、宗春が謹慎させられたのは、元文4年(1739) ですから、御三家の尾張藩でさえ倹約令に素直に従わなかったと解釈できます。 丁寧に回答していただいたのに、なんのかんのと反論するようで、誠に申し訳ございません。
- eroero4649
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A2%E4%BE%88%E7%A6%81%E6%AD%A2%E4%BB%A4 まあこんな感じで、色々と出ていたようですね。出すのは幕府名義で出していましたが、各藩はそれに従うのが原則だったと思いますね。そうじゃないとお取り潰しの格好の口実を与えることになるじゃないですか。「領内のその贅沢、目に余る」とね。 贅沢禁止令って、要するに今の学校の校則と同じですよ。全国各地にバカバカしい校則があって、それが有名無実化していて実際は運用されていないってケースもよくあるじゃないですか。じゃあそんな校則なんてなくせばいいのにと思いますが、「目に余る」ようだと取り締まる必要があり、その口実として校則があるわけですよね。 江戸時代の贅沢禁止令も同じなんですよ。目に余るときに取り締まれるようにしてあるのです。 江戸時代の商売ってとっても自由で、基本的に税金がないんですね。まあ冥加金とか様々な名目で金は払わされるのですが、今の税制と違って利益に対する累進課税はありません。だから儲かれば儲かるほど、儲かるんです。当時の商家は。 それで武士以上にお金持ちになって、そのマネーパワーでぶいぶいいわす。大名はそんな商家に頭を下げて借金をするわけです。ごく一部の金持ちがお大尽なことをやると庶民も腹が立ちますよね。今でいうならユーチューバーがお金持ち自慢をして食べ物を無駄にするような動画を作って炎上するようなやつです。で、そういう度を越して品のない贅沢をするやつを幕府が「成敗」すると世論もスッキリするというわけです。 だから江戸時代も現代も、あまり変わらないんですよ。現代にあるものは(テクノロジーとして不可能なものを除けば)だいたい江戸時代にもあるんです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうか!!校則みたいなものか、なるほど!なるほど! 「校則」の一語で疑問のモヤモヤ、一気に解消です。 絹の着物を着ることならぬと、何度も触れが出たということは、それだけ 多くの人が着ているからこそですね。 ところが、農民は絹の着物など着てはいけないから、限られた人だけしか着ていなかったと思いがちです。 地方史(村の歴史)を読んでいますと、ふつうの農民が泥棒に入られて、“絹”の着物を盗まれたという、被害届を役所に出している例を散見します。 >だから江戸時代も現代も、あまり変わらないんですよ。現代にあるものは(テクノロジーとして不可能なものを除けば)だいたい江戸時代にもあるんです。 そうですね!同感です。
お礼
再度のご回答誠にありがとうございます。 よく理解できました。 そもそも「画面の右端にあるマークをクリックする」ことを知りませんでした。 山二つの変なマークだなと思ってスルーしていましたが、こんな便利なシステムになっているのですね。大いに助かりました。 加賀藩の延宝六年四月十日の項を読みましたが、「近年作毛宜候之故、密々相背申者有之山に候間」とあります。 こういうのを読むと、当時の百姓の気持ちになり、歴史を身近に感じます。 古文(候文)は疎いです。 「有之山に候間」は、“山に”の部分をとばして読みましたが、「有之哉に候間」の意味かも知れません。 いずれにせよ、意味は分かります。 「地黄煎」も調べました。 興味は尽きません。質問した甲斐がありました。 ご教示に感謝申し上げます