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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:子どもの時に感じたことについて)

子どもの時の疑問とは?成長に伴う思考の変化とは?

このQ&Aのポイント
  • 子どもの頃、成長に伴い疑問に感じたことは普通なのか、質問してみたいです。
  • 保育園の頃から急に思考能力が発達したことや、中学生の時に哲学的な考えに囚われた経験があります。
  • また、卵を割るとヒヨコになることについての疑問もありました。このような感じ方は普通なのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • vzb04330
  • ベストアンサー率74% (577/778)
回答No.3

心理士で、元大学の教員をしていました。 疑問に思われたことの3点は、発達心理学の領域で知られていることで一応、説明できます。 1つは、ピアジェという発達心理学者に代表される「認知発達」についての「発達段階理論」というものがあります。 詳細は、大学生向けの心理学や発達心理学のテキストにほぼ必ず載っていますので、書店で入手されるか、図書館で、読みやすいものをご覧になるとよろしいでしょう。 この理論は、認知発達は次の4つの段階に沿って発達すると考えています(示した年齢は目安であり、個人差もあります)。 1)感覚運動段階(0~2歳)……子どもの目の前の、今見えている世界が認知のすべてで、まだ思考と呼べるものは働いておらず、見る、聞くといった感覚や、触るといった運動によって外界と関わりを持つ段階。この段階の間に、記憶や、イメージが発達して、ことばが使えるベースとなる能力が形成されます。 2)前操作段階(2~6歳)……「操作」は、「思考」や、「認知」と同じと考えていただいて構いません。「ごっこ遊び」ができるようになり、イメージや、ことばが理解でき、使えるようになります。まだ思考の働きは不十分です。自己中心的な認知や、思考の段階で、「見かけ」の変化によって、数や量の判断を誤ったり、全体と部分との関係が理解できないなどの弱点があります。 3)具体的操作段階(6~11歳)……具体的なことがらについては、論理的な思考ができるようになります。たとえば、長さを比較しながら、長いものから短いものへ順に並べることができるなど、分類(カテゴリや、クラスに分ける)や、系列化(何かの規則にしたがって順番に並べる)、数や、量、重さなどは、加減の操作をしない限り変わらないことを理解するようになる。 4)形式的操作段階(11歳以降)……「形式的操作」とは、「抽象的な思考」を意味します。抽象的なことがらについても考えられるようになりますし、「仮説」を建ててそこから出発して論理的に考えるような「仮説演繹的思考」が可能となります。たとえば、「もし~ならば」という前提で考えることができます。また、時間についても、理解できるようになり、過去・未来など概念的な思考や、可能性などについても論理的に考えられるようになります。 一方で、コトバの発達を見ますと、幼児前期(2~3歳)くらいから、上記のような認知発達その他を背景にして、2歳過ぎから理解できるコトバの数が飛躍的に増え、1歳半から2歳くらいから「2語文(たとえば、パパ、会社など)」のように表現も複雑なものが使える様になります。こうして、コトバでのコミュニケーションが次第にできるようになります。 同時に、この幼児前期の終わり頃からは、耳新しいことばを良く覚えるようになりますし、好奇心も強くなり、「どうして?」「これ何?」ということをよくいうようになります。 幼児後期になりますと、まだ発音が幼かったり、語音の転置(オタマジャクシをオジャマタクシというなど)など発音の間違いはあるものの、3~4歳では、文章として、文法に沿った話し方が次第にできるようになりますし、マンガなどみても分かるように、話の筋道が理解できるようになります。3歳でほぼ自分のいいたいことは伝えられるようになります。5さいころになりますと、内緒話は小さな声でするなど、場面に応じて話し方もコントロールできるようになっていき、コトバでの伝達能力は大人の会話に近くなります。 この頃になりますと、コトバで自分の行動をコントロールできます。初めは、声に出して、「最初は、○○して、次に□□して」と良いながら何かをしますが、次第に頭の中で考えるだけで(内言といいます)、行動のコントロールが可能になります。 さて、前置きが長くなりました。 (1)の「保育園の頃、急に考えることを覚えた」とおっしゃるのは、ピアジェの理論でいえば、屋や早いものの、「具体的操作段階」に入って来られたのとともに、ことばも発達してきて、内言によってご自身の行動をコントロールできるようになって来たことに関わると思われます。 (2)の「小学校中学年くらいから、哲学的な考えにとらわれた」というのは、ピアジェの理論でいえば、「形式的操作」が可能になってきたため、抽象的なことがらについて思考ができるようになったということと符合すると思います。 (3)は、おそらく、具体的操作が十分に可能になったこと、また、形式的操作が次第にできるようになりつつあるくらいの頃のエピソードではなかったかと思われます。 また、質問者様は、おそらく幼少の頃から、好奇心が強く、ことばの発達のところで触れたような、「なぜ?」「どうして?」という疑問をよくおもちになったのではないでしょうか?これらが関係して、こういう疑問を持たれたのではないかと推測します。 ここで書いた説明がすべてであるとか、これで全部説明できたとはもうしませんが、このような認知、思考、言語の発達が背景にあって、疑問に思われたようなエピソードが生じていたと考えられます。 多少は、ご参考になれば、幸いです。

その他の回答 (4)

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.5

簡単なことです。 前世で信仰上の悟りの修行をしていたわけです。あまりに熱心だったのであなたに刻まれていたわけです。 (1)、(2)は常人が得るには難しい認識ですがまだ未熟です。(3)の認識は常識です。 続けるか続けないかはあなた次第であり、この現在において優れてはいなくても 正道の師を探すのは困難でしょう。 未熟な観念は危険です。哲理の観念を捨てるか忘れて来世にゆだねるか。 誠実であれば無駄な生というものはないのです。

  • mudpuppet
  • ベストアンサー率35% (388/1095)
回答No.4

正直にお応えしますと、特に問題のある疑問でもありませんし、 特筆すべき児童であったとも言えないのではないかと思います。 質問者さんの抱いた疑問に関連して、 哲学的な人たちが幼少期に抱く疑問を幾つか挙げてみます。 たとえば 1.自分のクローン(そっくりさん)の群れに紛れ込んでしまったとき どうして自分自身を間違えることができないのか。 2.他人の感じていることを感じることがなぜ不可能なのか。 3.なぜ世界は自分を中心に広がっているのか。 4.お腹が空いていることを間違えることができないのはなぜなのか。 5.自分が殺されるのは嫌だから人を殺していけないのだとすれば、 いつ死んでもいいという人は人を幾ら殺しても構わないのか。 僕が言いたいのは、質問者さんが抱いた疑問は 何の変哲もないごく当たり前の疑問だということです。 そしてそれに固執することなく親や教師の言うことを受け入れ 常識的な大人に育っていくということです。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

自我の成長と共に始まる、自分の世界と他の世界の分離に伴う戸惑い・疑問ですね。 疑問内容や年齢は個人による差異がありますが、レベルの差は有れど誰にでも訪れるものです。 これが無いとレベルによっては社会化出来ない個体となってしまい、所謂社会不適応者の烙印が押されます。 (1)質問者様は時期的にも早く、内容も高度だと思います。 早熟な子供だと言えるでしょう。 (2)所謂、「色即是空」や「胡蝶の夢」に代表される、自己の存在の定義とも言える疑問ですね。 これも早熟かもしれませんし、この様な内容は考える人間が少ないかもしれません。 私はデータ・統計は知りませんが、何処かにあるかもしれません。 (3)残酷とは言えません。 唯の純粋な疑問と言えるでしょうし、命を食べる事に気付く契機かもしれません。 知識としての答えが欲しかった時に疑問の否定をされたのは不幸だとは思います。 しかし他人の対応に自分の行動の答えを探しても無意味です。 他人が貴方と同じ感性で物事を考えるとは限らないからです。

回答No.1

あまり詳しくはないですが、哲学(人生の意味を考える)は好きなほうと自覚しています。専門的な回答は無理ですが参考になれば。 ご質問を拝見して、内容は若干違いますが私の子供のころを思い出しました。おそらく、大抵の人が口にこそ出さないかもしれませんが、小学生くらいのときにそれまでと違った感覚にとらわれるという経験をしているはずと思います。表現がむずかしいのですが、それまでは何も考えずにただ天真爛漫に毎日をぼ~と暮らしてたのが、ある日突然、自分という存在の意味を考えるようになるという感じでしょうか。 この世に生まれてきて、赤ん坊時代はただ寝て起きて泣いての繰り返しですが、ある程度の年になると自意識が目覚めます。私の場合、小学4年ごろでしたがある朝目が覚めたとき、それまで感じたことのない不思議な感覚にとらわれました。なんていうか、なんで俺は今ここにいるんだろう、俺はいったいどこから来たんだろう、という感覚かな。 この両親のもとに生まれてきて、この家に暮らしてるけどなぜだろう、そういう必然性があったのかなあ。生まれる前は、いったいどこにいたんだろう。という疑問が頭からしばらく離れなかったです。 結局、その後疑問を追及しはじめ、以来50年ほどたちますが自分なりにいろいろ本などで勉強しました。その結果、生まれた意味についてはある程度、たぶんこういうことだという結論めいたものは理解したつもりです。ただ、あなたのご質問と直接関係はありませんので、割愛しますが。 質問者様もかなり、幼少のころ疑問をお持ちだったようで多感だったようですね。成長に伴い、その種の疑問をもつのは全く普通だと思いますよ(私もそうだったように)。むしろ、何もないほうが心配です。早いか遅いかは、その人の精神年齢の発達度合に個人差があるので一概に言えないでしょうね。 (1)(2)については、その若さでかなり高度な疑問を持ったなという印象です。お答えできそうなのは(2)のほうかな。むずかしいですが。自分が見てる世界は幻で、自分がいなくなったら見る人もいなくなり、友人も家族も消えるかも・・・ いなくなるというのは、具体的には「死んだら」という意味でしょうか。それとも最初から存在しなかったらという意味かしら。 主観と客観という観点から考えればいいのかなあ。夢の世界がそうですね。目が覚めれば、それまで見てたものは正しく幻なのできれいさっぱり消えてしまいます。しかし、目覚めたあとの世界は現実だから、たとえ自分が死んだあとでも、先に死んだ人を除けば友人・家族はまだこの世にいる。しかし、その人たちもいずれは死んでいくんですが。ちょっと論点がずれてるかもしれませんね。 (3)は私も似たようなこと考えます。このまま、食べられないで温めればひよこになるんだよなあ・・・。 良くも悪くも人間は他の生物の命をもらって生きているから、常に感謝の気持ちを忘れないようにしないといけないと思います。お母さんは、あなたの言うことが的を得ているので逆にいやな気持ちになったのでしょうね。 この手の問題は数学等と違い答えはひとつではないので、いろんな考え方がありますがそれが哲学の醍醐味ですね。

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