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定冠詞 the の謎(the Passion of the Christ)

この the の意味は何ですか?(普通 Christには the はつけないのでは)

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  • pearl17
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回答No.3

キリスト教にあまり馴染みのない日本人にとって、Christはなんとなくイエスの姓のように思えるしもしれません。 Christは、そもそも旧約聖書において、「救世主」を意味しました。 その場合は、つねにtheを伴います。 普通名詞ではあるけれど、ひとりの救世主、ふたりの救世主ではなく、まだ誰かはわからないけれども、予言された唯一の救世主であったからです。 そしてイエスが登場し、救世主となりました。 ですからそもそもの最初は、「救世主であるイエス」という意味で、theがつきました。Jesus the Christですね。 一種の尊称と考えていいでしょう。 それがいつのまにか、イエス・キリストとして、フルネームのように使われるようになりました。 そしてtheなしのChristでも、イエス個人を示すようになったのです。 ですから、Christにtheがつくのは、べつにおかしなことでもないのです。 この映画の場合、イエスの「救世主」としての側面を強調したいのでしょう。

その他の回答 (3)

回答No.4

こんにちは 'Christ'と'the Christ'の違いについての見解の一例 http://www.awmach.org/webo THE HOLY BIBLE (Darby Translation) Darby's Notes on 2 Corinthians 1:5b Christ I would take this opportunity of drawing attention to the difference between 'Christ' and 'the Christ.' 'The Christ' is a title, the designation of a condition or office, not a name; 'Christ' is a name. These are not used indifferently, and in the Gospels, where in Greek the word occurs alone, it is almost invariably 'the Christ,' the Messiah, or Anointed; while in the Epistles it is rarely so, but is used as a name. Some cases are doubtful, because the structure of the Greek phrase requires or prefers the article: this is the case here. However, on the whole I believe the article should be inserted here in English. When the article is inserted in this translation, the office or condition is considered to be the prominent thought. Darbyの註解:コリント人への第二の手紙第一章第五節について 大意 'Christ' と 'the Christ' の違いについて、注意を喚起しておきたい。 'Christ'は単なる人名だが、'the Christ'は人名ではなく、a condition or officeを指し示す称号である。dj註(1) 聖書は、両者を意識的に使い分けている。 ギリシャ語原典において、the Gospels 福音書では、単独で出てくるとき(dj註:例えば、Jesus Christのような形ではないという意味か)は、ほぼ一貫して'the Christ'のかたちをとり、the Messiah 救世主またはthe Anointed油を注がれた者の意味である。 ところが、the Epistles 使徒の書簡では、'the Christ'はまれにしか見られず、'Christ'が人名として多用される。dj註(2) 使徒の書簡においては、ギリシャ語の性質からして疑義が生じる箇所がいくつかあり、本箇所コリント人への第二の手紙第一章第五節もそのひとつである。dj註(3) しかし、英語訳としては、theを添えるべきである。dj註(4) theを添えることによって、the office or conditionキリストの地位・務めが、the prominent thought神の特別な配慮であると理解されるからだ。 dj註(1)a condition or officeはタームとしての特別な定訳があるのではないかと思いますが、私は立ち入れません。地位、務めというのだから、端的に、救世主たること、神たることなど、つまりはキリストという存在の本質を指すと推測します。 dj註(2)http://www.hti.umich.edu/r/rsv/ ↑のsimple searchで、the Christ, Restrict by testament; New Testamentで検索すると52 matches Christ では、534 (the付きの52が含まれる) dj註(3) 以下の事情をさしているもよう。 たとえば、ギリシャ語本Greek New Testament Stephanus – 1550では 5οτι καθως περισσευει τα παθηματα του χριστου εις ημας ουτως δια χριστου περισσευει και η παρακλησις ημων のように、ふたつのχριστουのうち、ひとつめには定冠詞τουがついているが、ふたつめにはついていない。 http://bible.gospelcom.net/bible?passage=2COR+1&language=greek&version=TR1550 註解者はこの欠落を疑問視。 (ちなみに、もうひとつのギリシャ語本Westcott-Hortでは、ふたつとも定冠詞がついている 5οτι καθως περισσευει τα παθηματα του χριστου εις ημας ουτως δια του χριστου περισσευει και η παρακλησις ημων  http://bible.gospelcom.net/cgi-bin/bible?passage=2COR+1&language=greek&version=WHNU ) dj註(4) たとえば、英訳本King James Version (KJV) 1611 は、 5 For as the sufferings of Christ abound in us, so our consolation also aboundeth by Christ. のように、どちらもtheをつけない。 http://bible.gospelcom.net/cgi-bin/bible?passage=2COR+1&language=english&version=KJV これに対して、ここの註解者John Nelson Darby (1800-1882) は、Darby Translationで、 5 Because, even as the sufferings of the Christ abound towards us, so through the Christ does our encouragement also abound. のように、ふたつともにtheをつける。 http://bible.gospelcom.net/cgi-bin/bible?passage=2COR+1&language=english&version=DARBY ちなみに、以下の英訳本では、theをつけない。 Revised Standard Version 1946 5: For as we share abundantly in Christ's sufferings, so through Christ we share abundantly in comfort too. http://wyllie.lib.virginia.edu:8086/perl/toccer-new?id=Rsv2Cor.sgm&images=images/modeng&data=/texts/english/modeng/parsed&tag=public&part=1&division=div1 New Revised Standard Version of the Bible 1989 5For just as the sufferings of Christ are abundant for us, so also our consolation is abundant through Christ. http://bible.oremus.org/browser.cgi?passage=2Corinthians+1 これはDarby派という一宗派の解釈のようですが、問題箇所の翻訳の是非は私などの判断を超えているとしても、theの使い分けについての基本的な姿勢は、必ずしも特殊・偏頗なものではないという印象(あくまでただの印象ですが)を受けました。 ここから判ること。 (1)そもそも英訳のよりどころである、ギリシャ語本において、定冠詞の意識的な使い分けがなされており、その場合定冠詞のあるなしには、宗教的意義のうえで、明瞭な〔決定的な〕違いがある(という考え方が成立しうる)。 すなわち定冠詞がないと、キリストの人間としての側面を表わし、定冠詞があると、端的に神〔救世主〕としての側面〔キリストの本質〕を表わす。 (2)英訳のtheの有無は、翻訳の過程で、ある意味で自動的に、(1)に従った結果、と考えるべき側面がある。つまり、本来、英語のthe自体に発する問題ではなく、ギリシャ語本の定冠詞の(1)の事情が反映されているだけである、と考える余地がある。とすれば、英訳において、theがないとキリストの人間としての側面を、theがあると端的に神〔救世主〕としての側面を表わす、とする考え方は、言わば自動的に成立しうる。(このようなtheの使い方は、言語史的に、後々の英語定冠詞の一般的な用法の中になんらかの影響を及ぼしてはいないのだろうか、という想像。) (3)ちなみに、この註解で言っているのは、ギリシャ語原典自体が、定冠詞の使い方が曖昧なとき〔(1)の使い分けの原則を守っていないと判断されるとき〕は、英訳する側で、原則に戻して訳出するべし、ということらしい。(原典に定冠詞がなくても、解釈上、あるべきと判断されるときは、英訳にはtheを入れる) (4)参考までに、ギリシャ語 定冠詞+キリスト(男性単数形のみ) 主格 ο χριστος キリストは  属格 του χριστου の  与格 τω χριστω に(よって) 対格 τον χριστον を  (与格は未見。自己流で捻出〔捏造?〕。間違っているかも。) 「ギリシャ語入門」岩波全書(購入以来ほとんどさわったことがない)によれば、(古典)ギリシャ語では基本的に人名には定冠詞をつけない。ただ、「前出あるいは既述の」という含意のあるときとか、特に著名な人物の場合などには、つけることがある、とのこと。 お尋ねのthe Passion of the Christを訳すとすると、上に〔Darbyに〕従えば、 「救い主キリストの受難」「神の子キリストの受難」というようなことになりますか(訳そのものは、かくべつ変わり映えしないかもしれませんが、訳の姿勢として、必ず、救い主とか神の子のように、本質を規定する表現を添えなければならない、というようなことです)。 私はむしろ、passionが、通常、情熱など人の感情を表わすのに、ここではなぜ「受難」なのかのほうに、興味がある。

  • JIJI-N
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回答No.2

 こんばんは。これはあくまでも私の予想なのですが、訳は「救世主の受難」みたいな感じでいいと思うのですが、救世主=イエス様と映画(映画のパッションのことですよね?)の内容から察することができます。  これまた予想ですが、theいうのは特定の一度文章にでてきたものやもうわかっているものにつけるものですよね  例)A dog is walking. And the dog looks small. 文章には自信はありませんが、これらのことから察して、わざとtheをつけたのではないでしょうか(私はつけるべきものだと思いますが)

  • d-y
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回答No.1

辞書を引くと、語源的にはChristは「聖別された者、救世主」の意味のようですから、theがついても良いようです。 もちろん今では、Christ=イエス様の意味で、固有名詞扱いにして、theがないのが普通ですけど。

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