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小寺政職と黒田家
小寺政職は黒田家を浪人から姫路城代までとりたてたらしいです。 ですが姫路って播州の要衝で当時小寺の本城につぐ城ではないのでしょうか? 譜代より浪人を最重要拠点に据えるというのはなかなか聞いたことがありません。 姫路は実は当時としてはたいした城ではなく、譜代が詰めるもっといい城が小寺家にはいくつもあったのでしょうか? 小大名の小寺家にそんなにたくさんの城をもっているとも思えませんし、どうなんでしょう?
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jkpawapuroさん、こんばんわ。 実は小寺氏は播磨の守護赤松氏の分家だということです。だから、播磨では名門です。他にも城を持っていたようですが、姫路は御着城の支城で対赤松本家の最前線だったようです。 寝返れば大変です。だから、黒田氏に自分の姓を与えたり、自分の一族の女性を正室にするように優遇したのでしょう。さらに家老職まで取り立てたようです。 詳細は下記のURLを参照してください。 御着城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%9D%80%E5%9F%8E 黒田官兵衛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
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- あずき なな(@azuki-7)
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城代と言っても城主ではありませんし… そもそも姫路城が堅牢な城になったのは池田輝政が城主になって大規模改築してからと言われてます 黒田家が城代になった頃は砦に毛が生えたような城だったらしいですし さほど重要な城でもなかったのでしょう 小寺家は御着城があれば十分だったわけだし 当時は まだ一国一城制もありません 領内に城や砦がいくつも点在してても不思議ではないのです
お礼
NO1さんのリンクによると、当時から播磨を代表する城だったようですよ。御回答ありがとうございました。
お礼
御着城の項目に姫路城の記述があるとはもう点でした。 御回答ありがとうございました。