こんにちは。調べてみたのですが、これだという決定的な結論は出ませんが、なぜ、このような同規模の神社が集まっているのかについてははっきりとした来歴は明らかではありませんが、ある程度想像することはできます。どうも総社に関係あるのではと思います。長くなりますが、その理由は以下の通りです。
静岡浅間神社について浅間神社・大歳御歳祖神社・神部神社の三社の総称で、麓山神社は境内神の扱いです。なお、明治までは、麓山神社も独立の神社で、四社独立であったと言われていますが、現在は独立性を失い境内社-他の神社で言えば摂社の扱いになっています。浅間神社・大歳御歳祖神社・神部神社ももともとは独立の神社で、現在も独立の神社として祭祀は行われますが、宗教法人としては、「神部神社・浅間神社・大歳御歳祖神社」という名称の単一の法人という存在です。古代に神の依り付く山(神奈備山)だったとされる賎機山の南麓に存在します。
神部神社・浅間神社の本殿は流相殿造(比翼三間社流造り-二棟の本殿を一つの屋根の下に納めたもので、左右対称)で、拝殿の奥にあり、向かって右が神部神社、左が浅間神社になっています。楼門・階段が分かれていますが、一つの本殿と間違いやすい構造をしています。
ところで、神社の移動などについて、例えが正確ではないとは思うのですが、分かり易く例えると。
神様(神社)は、出張所を設けてくれと頼まれれば出張所を設けます(分霊・勧請)。それどころか本社を遷してしまうこともあります(引越し-遷座)。住宅(社殿)も一戸建てで一人(一座・一柱)もありますし、集団生活もあります。棟割長屋に似た住居もあり、神社の形式も様々です。
神様(神社)の引越し(遷座)の例としては、今年遷宮の伊勢神宮の皇大神宮が有名です。皇大神宮に祀られている(御神体の)八咫鏡は最初宮中にあったものが、崇神天皇の時代に、宮中で祀るのは畏れ多いということで、大和の中の笠縫村に遷して祀ります。垂仁天皇の時代に倭姫命が新たな鎮座の地を求めて各地を巡り、最終的に現在地に落ち着いたとされています。また、現在でも20年毎の建て替えに伴う遷宮ということからも、神様(神社)の引越し(遷座)はあることです。
さらに、伊勢神宮は、皇大神宮と豊受大神宮を正宮とする神社で、両正宮は離れていますが、同じ神社の中に、二つの正宮(神宮)がある形式です。なお、豊受大神宮も雄略天皇の時代に丹波国から遷座されたとされています。
ところで、一つの場所に同格の神殿が集まる例としては、奈良の春日大社と、大阪の住吉大社の例があります。春日大社は、四棟の本殿が東西に並び、東から第一殿が武甕槌命、第二殿が経津主命、第三殿が天児屋根命、第四殿が比売神という配列です。住吉大社は、西側の北から、第一本宮(他より少し大きい)底筒男命、その南に第二本宮中筒男命、さらにその南に第三本宮上筒男命、第三本宮の東に第四本宮息長足姫命という配列です。両大社共に各本殿・本宮が独立の神社とはなっていませんが、同じ規模の正殿が同じ境内に独立して存在する構造となっています。なお、春日大社の武甕槌命は常陸の鹿島神宮から、経津主命は下総の香取神宮から、天児屋根命と比売神は河内の枚岡神社から現在地に勧請したとされており、古代でも一つの地に神を集めることが行われていた例でもあります。
さて、神様(神社)を一所に集める形式で平安時代に成立しただろう制度に、「総社(惣社)」があります。この総社の制度と、一宮・二宮などの格付制度が、「神部神社・浅間神社・大歳御歳祖神社」の成立に大きな影響を与えたのではないかと思います。
律令制度ができ、令制国に下向する国司の重要な職務に、国内の神社の神拝がありました。当初は国内を巡って各地の神社に神拝し、奉げ物をしたようです。それが時代下り、平安時代に入り、国府の近隣に国内の神を集めてまつり、国司が神拝するようになります。このような神社を「総社(惣社)」と言いますが、国によりその形式はまちまちで、新たに総社を造営したもの、既存の神社を総社としたもの、一つの神社に神々を合祀したもの、主要な神社(一宮以下五宮・六宮ぐらいまで)を勧請し各々社殿を設けてものなど、成立時期等を含め千差万別だとされています。さらに、総社の存在が曖昧な令制国があったり、現在までの間に衰退・廃絶し、当初の形態が分からなくなった総社も多く存在します。
総社の文献上の初見は平安時代末の承徳3年(1099)の因幡守であった平時範の『時範記』の記述とされていますが、それ以前からあったのではないかとされています。これに関係して、古代の主要神社の一覧を記載している延喜5年(905)に開始され、延長5年(927)に完成した『延喜式』の中の「神名帳」に、総社の記載が一つもないので、この頃が総社設置の上限になるのではないかと思います。
この延喜の時代頃から平安時代末にかけて、令制国で総社の設置、一宮以下の設定と共に、それに関係すると思われる、神社の国府付近への還座・勧請(惣社に合祀されない)が行われた令制国があります。
静岡浅間神社も延喜元年(901)に富士宮の本宮浅間神社から分霊して現在地に勧請されたとされています。隣国の有名な三島大社については、『延喜式―神名帳』には、鎮座地が賀茂郡(今の下田市などの地域)とされており、『延喜式』の時期から平安末期までの間に現在地である田方郡の伊豆国府の近くに還座(最初は新宮として分霊との説もあり)したとされ、一宮であると共に、総社に指定されたとの説もあります。
駿河国に戻すと、駿河国の総社は神部神社だとされています(否定する・疑問視する説もあり)。浅間神社は同じ場所にあっても総社の中に入らず、独立の神社として存在し、(富士)新宮と呼ばれ、「総社・新宮」と併称される存在で、『吾妻鑑』の貞応三年(1224)二月に、「当国惣社并富士新宮等消失。神火云々。」との記述があります。
この件に関連して、前記の平時範の『時範記』には、承徳3年(1099)の2月15日に国府に到着し、26日に神拝の儀式を行いますが、時範は惣社・宇倍宮・坂本社・三嶋社・賀呂(かむろ)社・服(はとり)社・美歎(みたに)社に自身が参拝、遠方には使者を派遣しています。3月1日には、惣社と宇倍宮神社に朔日の奉幣を行っています(青木和夫著『古代豪族』より要約)。この内、宇倍宮神社は因幡国一宮とされており、惣社に一宮が入らない例があります。
これに対して、相模国の総社の六所神社や、武蔵国の総社の大国魂神社(六所宮)のように一宮以下を合祀(最初から合祀の形式であったかは不明)している例があります。
このようにくだくだと述べてきたのは、延喜頃から平安末期ごろまでの間に、令制国で億府の近くに分霊・還座・合祀などの違いはあっても、神社を集めようとしたということです。駿河の場合、国府の近くに賎機山という神奈備山があり、神社を集める地として適していたことがあると思います。さらに、富士本宮浅間神社が、駿河では図抜けて格式の高い神社(神名帳の名神大社。他は全て小社)であり、そのため勧進社は総社に入らなかったものと思います。
浅間神社は駿河国の一宮の分霊。神部神社と大歳御歳祖神社は国府のある安倍郡にある神名帳に記載された神社(式内社)で、神部神社は駿河の開発神を祀り、異説があるものの惣社とされます。大歳御歳祖神社は、安倍河畔にあった安倍の市の守護神とも奈古屋神社といったとも言われます。麓山神社は元々賎機山の山上にあったものが、麓に下った神とされています。このように各々由来が異なる神社が同じ境内に集まったのは、国司が総社の設置等と関連して、国内の神を集めようとした結果、現在のような形になったのではないでしょうか。
ところで、前記した『吾妻鑑』の貞応三年(1224)二月に、「当国惣社并富士新宮等消失。神火云々。」の記述ですが、この後、鎌倉幕府二代執権北条義時により再建され、現在のような神部神社・浅間神社が現在のような本殿が相殿になったとされ、また、「当国惣社并富士新宮等」と「等」とあるように、惣社・新宮以外の神社も焼けていることが想像される記述になっていることからも、この時期までに大歳御歳祖神社・麓山神社なども還座したものと考えられるのではないでしょうか。
最後に、神部神社の祭神は現在大己貴命とされていますが、古来の祭神は不明とされています。このように神・神社の来歴は不明な所があり、中世に衰退・焼亡・廃墟となった神社(静岡浅間神社も同じ)も多く、分からないことが多いのですが、一応推論してみました。以上、参考まで。
お礼
膨大なる資料を送信下さり有り難うございました。 ご助言により先週、群馬総社にある上野総社に行って 貴説通りであることを知りました。 有り難うございましたw。