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最近の日本語についての違和感
- 最近の日本語について違和感を感じることがあります。特に、「名詞等+と思う」の表現がよく聞かれますが、本来の日本語ではないのではないかと疑問に思います。
- 「〇〇が来たら危険(形容動詞ですが…)と思え」とか、「これはパソコンと思う」といった表現がよく聞かれますが、違和感を感じます。
- 皆さんは「名詞等+と思う」の表現についてどう思いますか?本来の日本語としては適切ではないのではないかと感じますが、ご意見を教えてください。
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昼の休憩を利用しての投稿ですので推敲の至らない部分がありましたらご寛恕の程をお願い申し上げます。 質問の回答に応える前提として「日本語が持つ幾つかの独特な性質」を先ずは挙げていきます。 (1)語順の自由度 (2)読点の機能 (3)省略可能な言葉・敬語の発達 (4)「文末で」意味を決定する 特徴の(1)は「助詞」が他の言語に比較して発達していることに起因します。「僕は 本を 持っている」との文が遭った場合、「本を 僕は 持っている」とすることもできます。これは日本語が助詞によって、主語(「僕は」)や、英語の目的語に相当する語(「本を」)を示すことができるため、比較的、語順の入れ替えが自由になることを意味します。 一方、構文の形・文中の語の位置によって、主語・目的語などを決定する英語は、語順の入れ替えが原則として不可能となります。 しかしながら、そうした「語順の自由度」があることは、同時に「意味が曖昧になる可能性」も多分に持っているともいえます。 【例文】 「彼は微笑みながら話している彼女をみている。」 文法的に誤りのある文ではありませんが、「微笑んでいる」のが「彼」なのか、「彼女」なのか、肝腎な部分が、よくわかりません。こうした問題に解決の糸口を与えるのが(2)の「読点の機能」です。 (2)「読点」には大別して二つの機能に別れます。 (A)読点を打つことによる『意味の限定』を行う。 (B)読点の打ち方を工夫することによる『文のニュアンスに微妙な変化や奥行き』といった効果をもたせることができる。 先程の例文で説明するならば、「彼は微笑みながら、話している彼女をみている」の場合には「微笑んでいるのは彼である」となり、「彼は、微笑みながら話している彼女をみている」では「微笑んでいるのは彼女である」ことになります。 読点の位置によって「もうさよならだね」は「もう、さよならだ、ね」にも「もう、さよなら、だね」ともなり、話し手の微妙な心の変化を示す記述ともなります。 (3)「省略可能な言葉・敬語の発達」 日本語では、わかりきった内容や、前述した内容が主語になる場合、その主語を省略することが多い。これは説明的な文章でも文学的な文章でも共通する事項といえます。また話し言葉と書き言葉にもいえることです。 一方で「わかりきった述語」などが省略される場合もあります。これは互いに同じ話題を共有しているなどの前提に基づく事象です。 【例文】 「ああ、驚いた」 この文の主語が「僕」であることから、主語が省略されているといえます。むろん、この文の後になにがしかの文が続いているならばこの限りではありませんが、これが単体として独立しているならば、「驚いた」との意識や感覚は当人にしかわからないことですから、主語「僕」となります。 (4)「文末で」意味を決定する 英語の場合は文頭で意味が決定されてしまい、それが肯定文であるか否定文であるかそれとも疑問文であるかが明確になりますが、日本語の場合は「述語」が文末に来ることから、文末まで読まないとその文の性質を区別することも困難になります。 こうした幾つかの前提要件を踏まえるならば、確かに文法的な説明からは質問者様が憤りを覚えるお気持ちもわかりますが、文法的に不十分だからといって「日本語としての体を為していない」とされるのにはいささか早計かなと僕は考えもします。文法的な施行細則に則っても、読み手や聴き手に対し「言葉として最も大切な機能」である意思を伝えるとの点を疎かにしてしまったのでは元も子もない話になってしまいます。 もし質問者様が想定される「本来の日本語」を絶対的な基準としてしまうならば、その基準から一言一句はみ出してもそれは日本語ではないとの極論になってしまう印象が僕にはあります。 この最後の文も質問者様からすれば「極論になってしまうとの印象が僕にはあります」となるはずですよね?。そうした破格を許容とすることに殊更の問題があるかと考えもします。
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- TANUHACHI
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一つ補足します。 「~と」の「と」は引用を意味する語です。したがって、その部分が必ずしも「終止形である」必要もありませんね?。 引用の内容ですから、それが肯定文であるのか疑問文であるのか、あるいは否定文であるのかを本当ならば「完全な形」で示さないと、読み手が誤読する可能性があるからです。 文の読解と文法の問題をすり替えている回答が既にあります。文法は手掛かりになっても、それで全てを解決できることには至りません。 >これはパソコンと思う は述語部分が省略されていますので、本当のところは肯定文であるのか否定文であるのかそれとも疑問文であるのかをこの文だけから読み取ることは困難です。 したがって「これはパソコンだと思う」も一つの読み方でしかなくなってしまい、それが適切であるかどうかを判断する材料とすることはできず、その前後の「文章の流れと関係」に基づいて、識別することはできます。 こうした作業を「文章を読み解く」と呼びます。 このあたりでよろしいでしょうか?
お礼
回答感謝いたします。 ありがとうございました。
話し言葉はその場で理解されればそれでいいので、とかく省略されることが多く、たしかに文法的には正確ではないことがおおく、論理的ではありません。 質問者様が例示されたものは皆話し言葉でしょうね。 >〇〇が来たら危険と思え これは本来、以下の2つの文がつながっているものでしょう。 A: 〇〇が来たら危険だ。 という文章と、「Aと思え。」です。 きっちり書くと、おっしゃるとおり”〇〇が来たら危険だと思え。”という命令文になります。 >これはパソコンと思う。 これは A:これはパソコンだ。 私はAと思う。 の複合文です。 きっちり書くと、”私は、これはパソコンだと思う。あるいは、これはパソコンだと私は思う。 となると思われます。 この例で見る限り、日本語としてまちがっているのではなく、最近の日本社会で、理解できる範囲で省略された話し言葉として通用しているものです。違和感が感じられるとおっしゃるのは理解できますが、明らかに間違いだとは私は思いません。多くの日本人がそう言って、相手も理解していますので、次第に普通の使用方法になって定着していくのではないかと思われます。
お礼
つまり、結局は、 時代により言葉は変化する 極端にいえば、言葉は生きている ということなのでしょうね。 昔は、『だ』を省略する人と会ったことがありませんでしたが、 『だ』を省略するのが 最近ですので、 これは時代の流れ…だと言えますね。
- ゆのじ(@u-jk49)
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「~と」の直前の文章は完結していなければならない。完結しているからこそ、「~と思う」という形が成立する。完結とは終止形でもあり、「だ」は、断定の助動詞の終止形。一方、体言止めという文章の完結の仕方もあるので、必ずしも、「だ」という助動詞を必要としない。よって、一般的な感覚としては、「だ」という濁音を加え無い方がスマートであり、音として汚くならないし、洗練されている気がする。
お礼
うーん、、 ホントに日本語って難しいですね。 日本語以外の言語って大概 言葉の微妙なニュアンス気にしなくても大丈夫ですが、 日本語の場合は、そういう細かいところまで気にしていく必要があるので…。
- jzajza
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(1)名詞等+と思う (2)名詞等+だと思う 上記の違いは、確定の割合の違いだと思います。 たとえば、例としてくださった「○○が来たら危険と思え。」は、○○が来たら危険なのです。 そして、「○○が来たら危険だと思え。」は、○○が来たら危険かもしれないし、危険ではないかもしれないという事です。 もうひとつの、「これはパソコンと思う。」は、これはパソコンですねという事です。 そして、「これはパソコンだと思う。」は、パソコンだとは思うけれど、パソコンではないかもしれないという事です。
お礼
ありがとうございました。
お礼
なるほど、興味深い話をしていただき、ありがとうございます。 これから更に(主は日本人ですが)日本語を勉強していこうと思いますw ウラルアルタイ語派の言語は、 主語 目的語 述語 の順序なんで、 確かに分かり切った述語は省略できますね。 古文でも特に日本人は、 言葉を省略していたのも学校で習ったので、 納得いきました。 語順の自由度も、納得いくことができました。以前に語学に関して書かれた本で読んだことがあり。