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罪の赦しについての教えを求めます
- 受洗して3年以上経つものの、罪が赦された実感がありません。信仰や悔い改めの足りなさ、他人を赦すことへの困難さなど、さまざまな要素が絡み合っているようです。
- 精神疾患に悩まされながら日々過ごしているが、イエス様の苦難を思い起こして耐えようとしても、いやされたり喜びに満たされたりする感覚は得られない。
- へりくだりの足りない性格や他のクリスチャンとの交流の困難さもあり、この質問をするに至っている。また、罪が赦された状態とはどのような感覚や状態なのかも知りたい。
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質問者が選んだベストアンサー
新約聖書において、罪の赦しは、神の国と同義です。 イエスさまは (神の国は)「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。(ルカ17:21) と言っています。これは、神の国(罪の赦し)が目に見えるものではないということです。あなたが、罪の赦しのしるしを求めるなら、それは違うということになります。実感として何か、こういうことをすれば神の国(罪の赦し)なんだとか、ああいう状態になれば神の国(罪の赦し)なんだというようなものではないのです。 その同じ箇所の続きの御言葉はこうです。 いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21) これは衝撃的な言葉です。どこにあるかと捜していますが、実はただ中にある。これはいったいどうしたことか。本当に自分の中にとか、人々の中にあるのか?? しかし、これはイエス様のことばです。これを信じるかどうかーーなのです。感情ではなく、本当に罪の赦しがあるのなら、神の国は自分の心の中にあるのです。 主の祈りに 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」とありますね。 天の御国で神様の御心がなるーーというのは誰もが受け入れられる考えです。 しかし、それが地にもなりますように、さらに言えば、あなたのこころにもなりますようにーーというのがその祈りの意味だと思います。 ということは、天の御国の御心があなたの心の中と同じになるーー言換えると、あなたは神様と一つとされているーー神様と交わり、神様を愛して生きているーーそもそも罪とは、神様を礼拝しない心、神様の御顔を避ける心なのですからーーその罪が赦されるとは、礼拝者となる、神様を心から礼拝するーーという人なのです。あなたが、神様を礼拝し、神様のみを礼拝し、神様以外の偶像を持たなければ、そして、それができるようになるために、イエス様が自分の罪の身代わりに屠(ほふ)られたことを信じるなら、あなたは罪赦された人なのです。 洗礼という儀式があなたの罪を赦すのではありません(それでは割礼をほどこして救われると言うパリサイ派の人たちと同じです)、イエスさまの十字架の死とよみがえりの力により救われるーー赦されるーーのです。 以上、ご参考になればと思います。
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- ukiyotonbo
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具体的な被害者に直接、損害を賠償し、謝罪し、許しを請い、許されたら終わり。 刑事責任があるなら、自首して罰を受けなさい。 それ以外の罪などありません。 原罪の宗教的意義について理解しますが、それによって精神疾患などに陥るものではありません。そして、これを利用した宗教屋さんのトリックには気づいたほうがいい。 気持ちが鬱々とした状態に付け込んで、「罪」という言葉で罠に嵌め、告白だの、懺悔だので、あたかも開放したかのような気分にさせるあほらしいマスターベーション。 実生活での罪の償いは相手に対して行うこと、宗教や神に対する償いとはまったく異質なものです。これを取り違えると人生を間違いますよ。 クリスチャンに多いんです。実生活で犯した罪の償いを神に対して行う輩が・・・。
お礼
参考にさせていただきます。 ご回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
許されたいという事自体が甘えだ。 真に他人の事を思うなら、罪悪感を 抱いて尽くし続けるべきだ。 自分は地獄に落ちても人を救いたい と思う善人で、地獄は満員だ。
お礼
参考にさせていただきます。 ご回答ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
○ 【Q:クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8374193.html ○ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか? 新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。 ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13)~~~~~~~~~~~ もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。 「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、 新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。 「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。 「それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。 「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、 彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 彼らはそれぞれ自分の同胞に、 それぞれ自分の兄弟に、 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」 (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34) 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち たたき台として 次です: (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。 ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。 板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。 すなわち (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。 ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。 ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 水によるバプテスマではなく 聖霊によるバプテスマを受けた者でした。
お礼
参考にさせていただきます。 ご回答ありがとうございました。
お礼
私は救われるの意味を勘違いしていたようです。 ご丁寧な回答に感謝します。