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忠臣蔵で次席家老大野の親子
忠臣蔵で次席家老大野の親子はよく悪者にされますけど子孫の方はいないのですか?まっ、関係なくとも大野さんはやりにくいかと思いますけど、それでか言われても大丈夫の額面通りの大野さんもいますけど。
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こんにちは。 大野九郎兵衛: キーワード 交戦派・・・赤穂城に籠城して、幕府と徹底抗戦をする。 恭順派・・・素直に城を明け渡し、弟大学を以てお家再興を目指す。 元禄14年(1701)3月27日~29日の3日間に大石内蔵助を中心として赤穂城で評定が開催された。 交戦派と恭順派が激しく意見対立をした。 大野は恭順派であった。 しかし、どちらにしても赤穂城は明け渡すことになるであろう。 これまでの赤穂城内の金子の分配において、 大野は、「全員が一律とすべき」とも「重臣ほど引っ越しに金子が掛かるので役の順に応じて配分すべきだ」と主張した。 しかし、足軽の原惣右衛門元辰(もととき)の「下に厚く」の意見とが対立した。 大石は、原の意見を採用することと決した。 大野はこの決議を不満に思い、4月12日、嫡男群兵衛と共に赤穂を逐電した。 城の引き渡しが無事終了してから、大石は赤穂に残された娘と家財の一部を大野の隠遁地を探し当て届けた。 大野親子は、しばらくは普通の生活をしていようであるが、配分された金子も使い果たし、乞食同然の生活をしたようである。 http://www.geocities.jp/kimkaz_labo/ohno.html その後は、斎藤昌三郎が大野家の養子として入り大野家を継いだが、野に下った一介の人物でしかなく、その後の子孫は不明である。 http://www.geocities.jp/kimkaz_labo/ohno.html いずれにしても、九郎兵衛の血筋は絶えたものと考えられる。
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