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足利尊氏
建武の新政において、尊氏討伐を命じた後醍醐に対し、尊氏は何故後醍醐にとどめを刺さなかったのでしょう。 その後60年にわたって天皇が二人存在するという南北朝時代といわれる混乱した世の中になるのは解っていたはずです。 これまでに至る経緯は省いていますが、尊氏の人物像に鍵があるように思われます。 一説によりますと、カリスマ性はあるが、政治的能力はそうでもなかったとか。 皆さまはどう思われますか。私にとってこの時代の不思議です。
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- ithi
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hiro706さん、こんばんわ。 大塔宮護良親王を殺したことで、弟直義が逆賊として討伐されそうになった経験から彼は逆賊の汚名を受けないために後醍醐天皇を殺さなかったのでしょう。もともと、大覚寺統と持明院統との迭立で成り立っていた朝廷ですから、こうなることは最初からわかっていたことです。ちなみに後醍醐天皇の倒幕の理由はこの両統の迭立から自分の子孫による皇位独占が本当らしいです。 確かに尊氏は武士達に非常に高い人気がありました。源家将軍家が耐えた後の清和源氏の嫡流であり名門ですが、戦争にはとても強いのに政治力はあまりないというのはあたりだと思います。むしろ政治力は弟の直義の方が上だという説があるくらいです。ただそれだけではなく、後醍醐天皇と敵対した後も尊氏は後醍醐天皇を尊敬していたという説もあります。ちなみに尊氏の「尊」は後醍醐天皇の実名の一字です。後醍醐天皇の死後、その霊を慰めるために 天竜寺というお寺を建立しました。しかし、戦続きで幕府の財政に余裕がなく、中国との貿易でお金を作って建立したようです。
- Nebu3
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はじめまして。 (1) 後醍醐天皇云々にかかわらず朝廷内での皇統争いはありました。 (2) 南北朝~戦国の室町時代に古代勢力が衰え新興勢力が台頭します。 足利尊氏自身は「御家人」という古い武士でありながら新しい時代を つくる分岐点に身をおいた矛盾する存在。だから古代勢力の頂点である 天皇が役立たないのでやっつけて島流しというそれ以前には考えられない 行動に出たけれど、「悪党」にはなりきれない(天皇の権威に怖れ) (3) 南北朝の本質は全国で新しい武士層(悪党=新興地侍)が成長して 各地で領地争いを続けた。その都合で隣の領主が北朝なら自分は南朝 について争いの大義名分を手にいれた。ある地侍の親子はわざと北朝と 南朝に分かれてどちらが勝っても損をしないようにしたという。 (4) 室町幕府そのものそして将軍の力が弱かった(一時期を除き)。 守護大名の連合政権といえる。 ※ 時代が大きく変わる(現在和風と日本人が感じる物の多くは室町時代から) そのスタート地点で誰も決定的な権力をもたない時代だから尊氏もダメ。 天皇や公家の権威が失墜するがそれにかわる権威を武家はまだもたない。
お礼
(1) 伏見天皇暗殺未遂事件などありました。兄弟同志、その子孫の争い、親子、叔父、甥での殺し合いはよくありましたね。 (2) やはり、自分を殺そうとした天皇にとどめを刺すまでの強引さは無かった。 (3) この頃から(応仁の乱あたり)戦国大名と言われる武将が出てきて、中央幕府とは一線を画すようになってきたのでしょうか。 (4) 平氏⇒源氏⇒北条⇒足利⇒織田⇒豊臣⇒徳川と段々と強力な幕府(中央政権)となっていったので、 足利政権の頃はまだ、未成熟だったのですね。 (追伸) そもそも、天皇家の分裂を統制できなかった、北条の責任でもあるように思えます。承久の乱により皇位継承も管理するようになった幕府にも関わらず、調整能力の無さからそれ以降約100年に亘って皇室の争いがあったわけですから。 たまたま、その時代にいた尊氏はそこまでの統制力・政治力は無かった。 ありがとうございました。
- oska
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>尊氏討伐を命じた後醍醐に対し、尊氏は何故後醍醐にとどめを刺さなかったのでしょう。 尊氏の子孫である「阿波公方家」では・・・。 ※10代将軍の子であり+11代将軍の養子であり+12代将軍の兄であり+14代将軍の父である足利義冬が阿波公方家初代。幕末から、一族は京都に移住。現在に至る。 先ず、後醍醐天皇は「中継ぎ天皇」(後宇多上皇の命令)だったのです。 つまり、後二条天皇の子供(邦良親王)が即位するまでの中継ぎですね。 ところが、後醍醐天皇は「自分の子供を天皇にしたい」との野望を抱きます。 邦良親王は、鎌倉幕府に応援を頼み。幕府も、邦良親王を次期天皇として応援をします。 「いつ、幕府から皇位交代の使者が来るのか?」不安になりますよね。 結果、後醍醐天皇は幕府に反感を抱き「倒幕運動」を起こすのです。 第一回倒幕は、失敗。「正中の変」となります。 益々、後醍醐天皇へ「譲位」の圧力が強くなります。 が、後醍醐天皇としては「自分の息子を次期天皇にしたい」と望みます。 第二回倒幕も失敗。 失意のうちに、奈良へ逃亡します。が、捕まり京都に戻ります。(元弘の乱) 後醍醐天皇は追放され、隠岐に島流し。北朝側の光厳天皇が即位。 後醍醐天皇が隠岐から「第三回倒幕」を計画した時点で、足利高氏が表舞台に登場します。 この時点では、北朝側天皇と高氏は無関係。 第三回倒幕時に、高氏も倒幕に参戦。幕府崩壊後「後醍醐天皇から、尊の名を賜り尊氏と改名」します。 ※後醍醐天皇は、北朝側光厳天皇を廃します。 それ程、後醍醐天皇と尊氏は信頼関係があったのです。 ですから、とどめを刺す事はありません。 尊氏討伐令も、後醍醐天皇でなく息子の護良親王です。 征夷代将軍となった護良親王に対して、後醍醐天皇も逆らう事が出来なかったのです。 後醍醐天皇側と尊氏側の戦いは、尊氏の弟である直義が中心です。 尊氏は後醍醐天皇と、和議を結んでいますよね。 ※尊氏は、後醍醐天皇を弔う目的で「天竜寺」を建立しています。 南北朝と言いますが、「文保の御和談(1317年)」に従って持明院・大覚寺両系が互いに即位したに過ぎません。 >一説によりますと、カリスマ性はあるが、政治的能力はそうでもなかったとか。 歴史は、勝者が作るのです。 江戸時代は、足利家は徳川家からも尊敬されていました。 紀州徳川家では、明治以降も(阿波公方家に対して)資金援助を行っています。 明治政府は、「万世一系の天皇政策」では問題が生じますから「尊氏悪人説」を唱えました。 足利家は、爵位も受ける事が出来ませんでした。 時代祭りでも、室町時代が登場したのは最近です。 まぁ、いつの世も「政治は、ナンバー2以降の裏方が行う」ものです。 現在の自民創価学会連立政権でも、安倍ちゃんが独自に政治をしていませんよね。 主役が表舞台にでると、民主党政権時代の様に世の中が乱れます。^^; 実際の尊氏がどうだったのか? 実は、誰にも分かりません。 今まで「尊氏肖像画」とされていた乗馬の絵も「実は、他人」との説が有力になっていますよね。^^;
お礼
成程ですね。 古代~中世において、王位継承争いで天皇の暗殺や暗殺未遂がありますよね。 そんな時代、いくら恩義があっても自分を殺そうとした相手(親子共々)に対し、入京後和解したり、崩御後は弔いのため天龍寺を建てたり、歴史には出てこない何か重いものがあったのでしょうか。 政略としては、後醍醐を廃すれば大覚寺系の諸大名(この頃は未だ大名とは言わなかったかな)を敵にまわすことになることから、これを避けたという見方もできますね。 ただ、そうは言っても結局は南北で戦闘を行っている訳ですが。 なんか、そもそも、「承久の乱」以降、皇位継承まで管理していた幕府が統制しきれず「文保の和談」で双方順番になんてやり方を実施したのがそれ以降をややこしくした原因かな、と思いました。 たまたま、こういった時代に鎌倉幕府を倒した尊氏は運が悪かったのか。はたまたこの時代だったから将軍になれたのか。 詳しい情報有難うございました。
江戸幕府は日本の3分の1ほどを直轄統治し、強大な政治基盤を築きました。 しかし、足利尊氏はそれほど広大な領地は支配していませんでした。 その差が如実にあらわれたのでは?
お礼
う~む。 質問に対する回答が良く解りません。
- あずき なな(@azuki-7)
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ゴダイゴ天皇に利用価値があると思ったからです ましてや相手は天皇 自分がこれから幕府の将軍としてやっていく上で天皇を排除したというレッテルを貼られると それこそ幕府の基盤が揺るぎかねません 尊氏に政治能力がなかったのは事実でしょう だからこそ高師氏(師直)を側近に置いて幕府の政治を任せています
お礼
2度も廃位させられている後醍醐天皇をどう利用しようとしたのでしょうねぇ。 我々では知るよしもありませんが。 それより、光明天皇を新天皇に擁立せず、戦略としては後醍醐をそのまま天皇に据え置いた方が、幕府としても2つの朝廷を相手にするより、統制し易いと思うのですが。 素人の考えですかね。後になれば何とでも言えますが。 やはり、いい組織にはいい参謀がいるということですね。いつの時代も。 ありがとうございました。
お礼
直義が護良親王を殺害していたのは知りませんでした。 元征夷大将軍を殺害したのにその後お咎めは無かったようですね。ただその辺のトラウマがあったのですかね。 また、足利氏も本姓は源氏、しかも本流清和天皇の流れを組む武家ですから、天皇を殺害することはできなかったのかもしれませんね。 一説には、「尊氏が後醍醐天皇の怨霊に悩まされていた」ことから、大覚寺統ゆかりの地に天龍寺を建設したと。書いてありました。 「文保の和談」による「両統迭立」は「承久の乱」以降、幕府が朝廷を管理するようになったのにも関わらず、管理できなかったのが要因の思えます。 朝廷も幕府もまだ力が無かったということっでしょうね。 天龍寺にはよく行きました。北側の竹林の道もいいですね。 今度行ったときは、南北朝時代のことを思い出しながら、また違った天龍寺が見えるかもしれません。 ありがとうございました。