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足利尊氏
建武の新政において、尊氏討伐を命じた後醍醐に対し、尊氏は何故後醍醐にとどめを刺さなかったのでしょう。 その後60年にわたって天皇が二人存在するという南北朝時代といわれる混乱した世の中になるのは解っていたはずです。 これまでに至る経緯は省いていますが、尊氏の人物像に鍵があるように思われます。 一説によりますと、カリスマ性はあるが、政治的能力はそうでもなかったとか。 皆さまはどう思われますか。私にとってこの時代の不思議です。
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お礼
直義が護良親王を殺害していたのは知りませんでした。 元征夷大将軍を殺害したのにその後お咎めは無かったようですね。ただその辺のトラウマがあったのですかね。 また、足利氏も本姓は源氏、しかも本流清和天皇の流れを組む武家ですから、天皇を殺害することはできなかったのかもしれませんね。 一説には、「尊氏が後醍醐天皇の怨霊に悩まされていた」ことから、大覚寺統ゆかりの地に天龍寺を建設したと。書いてありました。 「文保の和談」による「両統迭立」は「承久の乱」以降、幕府が朝廷を管理するようになったのにも関わらず、管理できなかったのが要因の思えます。 朝廷も幕府もまだ力が無かったということっでしょうね。 天龍寺にはよく行きました。北側の竹林の道もいいですね。 今度行ったときは、南北朝時代のことを思い出しながら、また違った天龍寺が見えるかもしれません。 ありがとうございました。