• 締切済み

支援があればできると支援がなければできないは同じ?

「~があればできる」と「~がなければできない」という言葉の意味は同じですか?ぱっと見受け取る印象がかなり違いますが、良く考えると同じ意味ですよね?

みんなの回答

  • customar
  • ベストアンサー率17% (68/392)
回答No.17

厳密には(論理的には)必要十分条件の提示だからというのが間違った回答だというのが質問者は分かっているのだろうか。提示してませんからね。詭弁ですよ。日頃から科学的にドライな言動を無視しているからいざというときに都合のいい詭弁に走るのです。 質問サイトは比較的正しい知識の提出が善です。 論理というのは好き嫌いで決まらないものです。 白黒つける二分法を原理主義的に嫌う者は論理好きを名乗るべきではありません。困ると二分法は良くないという人は恥ずかしくないんですかね。言い出しっぺが二分法なんじゃないの。 過程において白黒が着くように議論を進めるのが論理です。安易な多様性は詭弁です。幼稚園以下です。全員百点だし死んだ人も生きてる人で……話にならない宗教なんです。 つまり一貫性というか、だったら疑問に思うのがすでに矛盾なのです。何が悪いの?違っても同じでもどっちでもいいじゃん。 過程に間違いがあるのは認められない論説なんです。トンデモはそこの問題なんです。それが論理です。

  • customar
  • ベストアンサー率17% (68/392)
回答No.16

「裏」返しは同じ意味にならないんだって。裏返しが同じ意味にならない、それは日本語にも共通の論理です。文字通りにそういう意味になっていないのだから。 国語カテゴリが非論理的でいいというのは日本語への冒涜。論理的な日本語をわざわざ非論理的に説明したらいけません。

sabacan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 多分正解は1つじゃないんですよ

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.15

#13です。 もういちどおじゃまします。 たとえば、「支援があってもできない可能性がある」場合には、「支援があればできる」ではなく、「少なくとも支援が必要だ」のように必要条件として提示するべきですね。 「支援があればできる」は、厳密には(論理的には)あくまで必要十分条件の提示ですから、裏返しとしての「支援がなければできない」と結果的に同じ意味になります。 単に、意図が異なるというだけです。   

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.14

すごく難しい事で「支援が無ければできない」のははっきりしていて、支援があってもできない可能性もある、そういうことがありうるのでイコールではないですね。 「支援が無ければできないけれど、もし支援があるのなら実現の可能性は高くなる」、そういう場合は「支援があればできる」のとは違います。

sabacan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.13

#12です。 #9さんがおっしゃっている内容が興味深かったです。 質問者さんのご理解を深める参考になりそうですので、これに若干絡める形で補足させていただきたいと思います。 #9さんには、引用させていただいたお礼を申し上げておきます。 > 「100円あればオランジーナが買える」は、一見必ず成り立ちそうですが、「オランジーナが売り切れていた」「自販機が壊れていた」「店が閉まっていた」などの理由で買えないこともあります。従って、「AならばBである」になっていないのです。 : これは、「オランジーナが売り切れてない」「自販機が壊れてない」「店が閉まっていない」ことを前提とすることを許容範囲と認めていることになります。 しかし、論理的に厳密に表現する場合、 「売り切れがなく、自販機も壊れておらず、店が閉まっていなければ、100円あればオランジーナが買える」が(取り合えず)ましな表現、ということになります。 しかし、「オランジーナが売り切れていた」「自販機が壊れていた」「店が閉まっていた」という状態は殆んどないことをわたしたちは知っているので、あえて条件として明記しない、という暗黙の了解に基づいて表現をするのでしょう。 これが、砂漠の真ん中で朝晩の寒暖の差が激しく、年に数回しか補充が無く、また店主が怠け者で一週間のうち2日ぐらいしか開店していないようなコンビに向かうときであれば、「100円あればオランジーナが買える」とだけ言うことはないはずです。 それは、「オランジーナが売り切れてない」「自販機が壊れてない」「店が閉まっていない」ことを暗黙の前提とすることが難しいからでしょう。 そのほかにも、「途中で落としたり、ひったくりに遭ったりなど、お金を失うことがなければ、」という条件が(結果的に)必要になる場合もあるでしょうし、「100円あれば」には「1000円も可」という意味が含まれますが、その自販機が紙幣に対応していない可能性もありますから、「札の場合は、自販機が札に対応していれば」という条件を(結果的に)付与する必要が出てくる場合もあると思います。 「100円あれば」という言葉を信じて、千円札を持って砂漠の真ん中まで丸一日歩いた結果、札不対応の自販機だった、などという場合は、文句を言われるでしょう。 むろん、現実問題としては「札も使える?」と事前確認をすれば良いわけですが、そのような確認が必要であるということ自体が、条件としては厳密には不十分である、ということも言えます。 しかし、 「100円あればオランジーナが買える」という断定を、文法どおり、「100円あればオランジーナが買える(と思う)」という意味に正しく解釈できれば、 そう言った人の「思った範囲」を類推する必要があることに気がつくでしょう。 どのように類推するかは、聞いた個人の力量に左右されることになります。 全ての可能性を含めて条件として列挙することは無理なので、あえて厳密に言おうとすれば、「想定外の事態に遭遇さえしなければ、100円あればオランジーナが買える」のように表現するのが親切なのかもしれませんが、そこまで言わなくとも、「~だ=~と思う」ということさえ把握しておけば特に問題は生じない、つまり、あくまで自己責任、ということになるかと思います。 たとえ、この場合でも「想定外の事態」について推測する必要性が(聞いた本人に)生じるわけですから。 しかし、オランジーナ って一体、何?^^;    

sabacan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

#11です。 >「支援があればできる」「支援がなければできない」という未来の事を、論理的に検証する際には(信じるといった)感覚は排除する必要があるが、実際は、排除することは不可能ということでしょうかねぇ。 : そうですね。 論理的に考えるということは、わたしたち人間にはまだ完全になじんでいない方法論なのでしょう。 どのような世界でも言えることですが、政治などの場合でも、「~だ」という断定は、所詮「~と思う」という意味にすぎないのだという論理を理解していれば、受け取り方もかなり違ってくるはずです。 結果として、論点のずれにくい対話が可能になると思います。 「正しいと信じて疑わないこと」に関してですが、立場や状況が異なればそれは変わらざるを得ないもののように思います。 ですから具体的事象について言うことはなかなか難しいかもしれません。 色々ありそうですが、ひとつ挙げれば、表があれば必然的に裏もある、といったあたりでしょうか。 まあ、バランスの問題ということなのですが、どちらか一方だけより無いと頑なに捉えてしまうと真実を見失うように思うわけです。

sabacan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.11

#6、#7です。 >「支援があれば多分出来る、支援がなければ多分できない」 この程度に言ってる人のほうが自信ないように聞こえるかもしれないが、未来の事なんて誰もわからないので、こちらの人の方が実は信用出来ると思う。 : それは言えるかもしれませんね。 これは、極めて正確な表現、というより親切な表現になるかと思います。 ただ、ここには、参考URLにも関連して申し上げれば、そもそも「断言」とは何か、という問題があります。 つまり、このように正確に言わなくとも同じ意味を表現していることになる、ということをわたしは言おうとしています。 以下に、順を追って述べます。 辞書では「断言=確信をもってきっぱりと言いきること」となっています。 では、「確信」とは何か。 辞書では「確信=固く信じて疑わないこと」となっています。 さらには、「断定=物事にはっきりした判断をくだすこと」です。 この場合の、「判断=物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること」です。 つまり、 「断言=固く信じて疑わず、きっぱりと言いきること」 「断定=物事の真偽・善悪などを見極め、それについて定めた自分の考えをはっきりと表明すること」 「信じる」「自分の考え」がキーワードです。 要するに、 断言も断定も、あくまで自分が信じること、あるいは自分の考えに基づいていることであるのは、最初から担保されていることになります。 いくら「できる」と断言・断定しても、それは、あくまで「できると思う」という意味にしかなり得ないわけです。 「思う」という意味が含まれる以上、あくまで不確定要素であるはずなのに、断言・断定と異なる結果が生じると相手が腹を立てるのは、「なぜ真実と違うことを信じて良いと思ったのか」と責めていることになるでしょう。 しかし、信じるというのは、あくまで個人の経験に基づくしかないわけで、それを責めても意味はありませんし、何の解決ももたらさないと思います。 文法を正しく解釈していれば、このようなことにはならないはずです。 ガリレオ以前は、「地球は回っている」と世界中の人間が断定・断言していました。 しかし、天動説が発見されたからといって、その人たちに腹を立てた人はおそらくいない、または極めて稀であったと思います。 確信をもってそう(地球は回っていると)思っている人が殆んどだったわけですから、「なぜ真実と違うことを信じて良いと思ったのか」と責めることは不合理と認定されざるを得ないからです。 しかし、ただ1人でも「地球は回っていない。天が回っているのだ」と一貫して唱え続けた人がいたとすれば、その人には責める権利、というか必然性が自ずと生じることでしょう。 文法をさておき、人間の感覚を重視した場合の話ですが、断定した内容と異なる結果が非難されても良いのは、ある事柄に関して人々がどのように信じているのかという、そのバランスにあるのではないでしょうか。 あまりに極端な信じ方をしていれば、それは信じ方を非難されても止むを得ないのかもしれません。 天動説以前、ガリレオは非難されました。 この場合、「間違ったことを言っていること」というよりは、「間違ったことを信じていること」が非難の対象になったはずです。 しかし、「ガリレオは間違ったことを言っている」と信じている人々が、そのような非難をするわけで、信じるという意味では同列であることに彼らは気づいていなかったことでしょう。 このように、所詮、人間の言うことですから、絶対はあり得ず、断定・断言ですら真実という意味にはなり得ない、というのが究極の真実であろうとわたしは思っています。 また、「信じ方」などコロコロと簡単に変わってしまうものであることは、すでに歴史が証明しているでしょう。 何を断言・断定したとしても、あくまで「・・・と思う」でしかないのです。 前掲いたしましたように、辞書の規定からも、それは明らかです。 ただ、人間は確固たるものにすがりたいという性質を有している生き物ですから、断定・断言と言えば、絶対に間違いのないことだと(文法定義を無視してまでも)解釈したがってしまう。 断定・断言に腹を立てることの本質は、こういったことだと思います。 「支援があれば多分出来る、支援がなければ多分できない」を「親切な表現」と評したのは、こういったわけでした。 人間というものにとっては、論理より感覚がまだまだ優勢ですが、その感覚にも一目置いてやろうじゃないか、という一種の優しさと言っても良いかもしれません。 ただ、論理的に検証する際には(信じるといった)感覚は排除する必要があるかと思います。     

sabacan
質問者

お礼

長文回答ありがとうございます。 「支援があればできる」「支援がなければできない」という未来の事を、論理的に検証する際には(信じるといった)感覚は排除する必要があるが、実際は、排除することは不可能ということでしょうかねぇ。 >「断言=固く信じて疑わず、きっぱりと言いきること」 私は以前こんな質問もしてます参考までに、、 あなたが正しいと信じて疑わないことを教えてください http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8175890.html?pg=1&isShow=open

  • customar
  • ベストアンサー率17% (68/392)
回答No.10

ぜんぜん論理好きとは思えませんが。好きなのは論理じゃないんじゃないの。 エクセルの回答は論理的ですか?プログラム言語が論理的っぽいだけでは。 まず意味は真でなければ意味にならないでしょう。用法の話してんじゃん。 お金と免許と国語の点数と論理学の点数の4つがそれぞれ必要条件であった時にお金がなければできないだろうが。 論理好きにとって、 意味が、同じに、なるかー!? 論理好きなら論理的に考えると思うんだけど。

sabacan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • Tann3
  • ベストアンサー率51% (708/1381)
回答No.9

 No.2 & No.4 です。何度もすみません。  No.4が少しグダグダだったので、もう少し「論理」的に書いてみます。  No.2の「お礼」に書かれた >「100円あればオランジーナが買える」の裏には、「100円があるからオランジーナが買える」ものと、「100円がなくともオランジーナが買える」ものもあると読めますので、「100円がなければ買えない」とは必ずしも言えない、というのが答です。 っとなりますよね、おかしくないですか? は明らかにおかしいです。どこがおかしいのか、をきちんと説明しないといけないですよね。  「100円あればオランジーナが買える」を、「AならばBである」の形にするとき、    Aは「100円ある」、Bは「オランジーナが買える」 でしょうか。実はそうでないのです。  「AならばBである」は、日本語の文章ではあいまいですが、論理学では「Aであれば、必ず(例外なしに)Bである」でなければならないのです。  「100円あればオランジーナが買える」は、一見必ず成り立ちそうですが、「オランジーナが売り切れていた」「自販機が壊れていた」「店が閉まっていた」などの理由で買えないこともあります。従って、「AならばBである」になっていないのです。  では、どうすれば「AならばBである」になるかといえば、この場合には、「オランジーナが買えたなら、100円あったということだ」ということになります。「オランジーナが買えた」ということは、店が開いていたのか、あるいは自販機があって、オランジーナが売り切れていなくて、という条件はいろいろあり得るものの、ただ間違いなく(必ず、例外なく)100円はあった、ということです。  つまり、この場合の「AならばBである」は、    Aは「オランジーナが買える」、Bは「100円ある」 ということなのでした。こう書けば、私がNo.2に書いたような書き方は、「オランジーナが買えたなら、100円あったということだ」という場合も、「オランジーナは買えなかったが、100円はあった」という場合もあり得る、ということになります。    「Aであれば、(必ず例外なしに)Bである」という形に上手く書けるか、ということが大切なのです。  理屈ばかりで、どうもすみません。というか、こんな質問があるから、こんな複雑なことになってしまいました。  でも、頭の体操になって楽しかったですよ。

sabacan
質問者

お礼

何度も回答ありがとうございます。 「オランジーナが買えたのなら100円あったということだ」 という事ですねなるほどー 論理学な考えで現実な事に当てはめると、本来は未来形の言葉ではこの言葉を使ってはいけないといことでしょうね。 しかし、現実では未来形の言葉を使いながらこのようなこと言う事が多々ある、、ということでしょうかねぇ、、 支援があれば必ず出来るはずだったけど、未来の事は誰にもわかりませんからねぇ。

  • Quattro99
  • ベストアンサー率32% (1034/3212)
回答No.8

日常会話では同じ意味で使う場面の方が多いだろうと思います。 「1,000円あれば買える」は、厳密にはその商品が1,000円以下であることを示しているだけで、500円かも知れませんし100円かも知れません。つまり、1,000円なくても買える場合も含まれます。 また、「1,000円なければ買えない」は、その商品が1,000円以上であることを示しているだけで、1,000円あっても買えない場合も含まれます。 しかし、日常会話では「1,000円あれば買える」は、その商品が1,000円以下で、ほぼ1,000円であることを意味していると思います。例えば980円の商品についてこのように表現することはあると思いますので、たしかに1,000円未満しか持っていなくても買える場合が含まれますが、100円の商品に対して1,000円あれば買えるとは通常は言わないでしょう。 「1,000円なければ買えない」はなおさらで、3,000円の商品に対してこのように言うことは、嘘ではないとは言え、通常はまずあり得ません。 論理学上の話なのか、日常の慣用表現としての話なのかで違ってくると思います。

sabacan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日常会話、国語としては、980円の商品があったのなら、「1000円あれば買える」とも「1000円なければ買えない」とも、どちらも言うでしょうね、同じ商品に対して。 論理学上か日常の慣用表現か、、、

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