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既刊作品中の『視点のズレ』を引用してください。

初版の視点移動の間違いを直してという実例もありますか。 司馬遼太郎あたりでもありますか。 できれば文章力があるとされる作家の作品で(引用や情報を)お願いします。 作家非難が目的ではありません。間違い方やその傾向、そして判断基準を、実際の作品で教えて欲しいです。

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  • kine-ore
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回答No.2

およそ連載小説形式においては当初からの視点移動はあり得ることでしょう。 その場合は、読者の反応によって変化や修正・訂正も多々あります。 森鴎外の新聞小説の連載中での井伏鱒二との遣り取りなどはもはや伝説的です。 刊行物の初版を後版で修正することも大いにあります。 主に字句の校正に関わるものが多く、司馬遼太郎「箱根の坂」の文庫化に当って、担当編集者が「広辞苑」ごときを根拠にルビをかってに弄って詫び状を入れる羽目になった例など、枚挙に遑ないでしょう。 結末を初版と替えた著名な例としては井伏鱒二「山椒魚」が挙げられます。 高村薫「リヴィエラを撃て」では、単行本と文庫本の記載の変更が150か所以上あり、当時イチイチ読み較べたことがあります。その後「わが手に拳銃を」の場合は全面的書き直しでとうとう題名さえ「李歐」と別物に変身してしまった例もあります。

customar
質問者

お礼

なるほど。いつもお世話になります。 具体的にご教示頂いた事は面白そうなので私も調べてみようと思います(ただいつもそうなんですが回答者さんのように資料が集まらなかったり基礎がなかったりで難儀します)。 初版と結末が変わるというのがあるんですね。別の本にすべきですよね(^^;) 今回は、個々の読者が決めていいのですが、この視点移動は下手だろうなどを引用してもらいたいのです。一番分かりやすいのは、主語と述語の関係がおかしいみたいな引用になります。あるいはその登場人物の心理描写はおかしいだろとか。 司馬の本でも(格好)が使われるのですがそういう誤魔化しからこぼれた視点の過失みたいな。 それを読者の好みや読解力次第にされると非建設的なのです。 有名作家の作品から(文章力の)過失を集めた本とかないんですかね。すごい面白いしそれをしないから出版不況でラノベになったのだと思いますよ。日本はしない。しないからこうなるのは必然。文系による自業自得です。批判的に実力を残せない自滅民族なんでしょうね。 主題は視点のズレについての情報です。ずらしたくないのにズレてるカツラを教えてください、です。

その他の回答 (2)

  • kine-ore
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回答No.3

#2です。 >初版と結末が変わるというのがあるんですね。  : 「山椒魚」「結末の削除をめぐって」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A4%92%E9%AD%9A_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)#.E7.B5.90.E6.9C.AB.E3.81.AE.E5.89.8A.E9.99.A4.E3.82.92.E3.82.81.E3.81.90.E3.81.A3.E3.81.A6 「仮名遣いのこと─「山椒魚」の結末部の「やう」について(1)(2)」 http://ameblo.jp/muridai80/entry-11541468134.html 「漂流 本から本へ」筒井康隆(作家) http://book.asahi.com/hyoryu/TKY200910130160.html 「「山椒魚の真実」岸波通信その61」 http://www5f.biglobe.ne.jp/~daddy8/y/61/61k.htm 「発表から半世紀を経てなぜ名作は改稿されたのか」 http://minami13.blog79.fc2.com/blog-entry-1325.html

customar
質問者

お礼

それは面白そうです。相手に合ういいのを教えてくれる人が先生ですよね。有り難いことです。二週間以内に読みます。 三人称は難しいんでしょうかね。原稿段階は知りませんが司馬は上手いということなんですかね。私の読んだ範囲ですが他の三人称の本は登場人物が読書の気持ちから離れた存在になりやすいと思うのですが。 有名作家の読みにくい作品でそれは視点が動きすぎみたいのないですかね。(視点の整合性が)明らかにおかしい文は校正されて残っていないのですかね。そうなるとますます見つけたくなるタチなんです(^^;)ヘマに魅力というか人間味を感じます。 私の予言ですが十数年以内に理科は虫の息になって活字時代になると思います。ネット時代に理科はめんどくさいから。

  • bgm38489
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回答No.1

質問の意図するところがつかみにくいが、歴史認識の誤りという点では、司馬遼太郎なら、国盗り物語における斉藤道三の生い立ちなどがある。 松波家の一族であるという庄九郎(道三は名前をころころ変えている)を、実は金を出して系図の端に書き加えてもらっただけだ、としているが、近年の研究では、松波家の一族であることは事実であるとされている。 油屋を乗っ取り、松波庄九郎から山崎屋庄九郎と名を変え、更に美濃を乗っ取るために土岐頼芸に仕えた…というのも俗説で、本当は松波家の者として普通に土岐家に仕え、普通に(?)下剋上した、というのが近年の研究だ。 司馬遼太郎は、単なる歴史的事実の描写にとどまらず、随筆めいた文調で語りかけてくるので、本当のことだと信じてしましがちである。実際に、俗説を否定しているところが数多くみられる。しかし、司馬遼太郎の執筆当時は最新の研究で書き上げたものであり、後からみれば、間違いだったということは、歴史に限らずどの世界でも見られるもの。例えば、天動説と地動説。 作家自身が、認識の誤りを訂正した、という例はあまり聞きませんね。 桶狭間の合戦、墨俣の一夜城、本能寺の変など、舞台や演劇・映画などになることが多く、俗説が浸透しているものは、誤りが多い。江戸時代になって歴史を脚色した書物が書かれたことも、俗説を産むことになった一つの要因である。 それが俗説で誤りだとわかっている今日においては、俗説の書物としてはあまり出版されませんね。逆説の方が人気は高い。テレビでは相変わらずですが、逆説は一般の視聴者には受け入れられにくいでしょう。

customar
質問者

お礼

ありがとうございます。勉強になります。作家本人はともかく他の人がしないから困りますよね、この国は。 質問は、事実誤認ではなくて、文章力の議論です。文脈上、主語が混乱しているような拙さがあるかです。各文において語り手が作家視点なのか登場人物なのかというような。