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なぜ鄧小平は完全抹殺まではされなかったのか?
鄧小平について教えてください。 文革期の失脚時の党籍留保の温情処分は 毛沢東の意向が働いてのことのようですが、 第一次天安門事件での失脚時に、 なぜ職務剥奪に留まる中途半端(と思える)処分で済み、 党籍剥奪や逮捕といった完全抹殺までされずに済んだのでしょうか。 権力闘争相手の四人組が非情ではなかったからなのか、 このときも晩年の毛沢東の意向が働いたのか、 調べてもいまひとつわからず、モヤモヤしています。 教えていただけますと幸いです。 宜しくお願い致します。
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>なぜ鄧小平は完全抹殺まではされなかったのか? 先ず結論から申し上げますが、最初の失脚時同様、鄧小平を温存しようという毛沢東の思惑が明確に働いていた、そう考えるのが妥当であろうかと思われます。 そもそも鄧小平は革命第二世代に当たり、つまりは毛沢東の地位を脅かす存在ではなく、そして何より当時の中国共産党には、思想家は掃いて捨てるほど存在したが、実務に堪能な人材が誠に少なかった。 その稀少な人物の筆頭が周恩来でありましたが、実のところ毛沢東は周恩来をこそ、粛清したかったようです。 但し賢明な周恩来は粛清される口実を与えなかった、加えて当時の中国共産党には、彼に代わる実務者・人材が見当たらず、更には民意の圧倒的支持は、文化大革命に一定の距離を置いていた周恩来にありましたから、自らの保身の観点からみても断念せざるを得なかった。 依って周恩来への数少ない対抗馬として鄧小平を温存した、最初の失脚に際して鄧小平への不完全な処分はその構図であり、第一次天安門事件での失脚時もその延長線上にあった、そう考えるのが合理的な推測かと思われますが・・。 四人組の存在もまた然り、彼らのレゾンデートルは周恩来への牽制にこそあった訳で、毛沢東の意志を無視して、鄧小平を完全抹殺出来るほどの権限の委譲が無かった、そう考えるのが妥当なのでしょう。 但し一方に於いて、第一次天安門事件は、「周恩来追悼=四人組批判(その実毛沢東批判)」といった意味合いを含んでおり、それを沈静化させる為のスケープ・ゴートも必用であった訳で、その全責任を被らせる事が可能な、周恩来派を象徴する大物という事で、粛清の槍玉に挙げられたのが鄧小平、そういう事であろうかと思われます。 世に周恩来の取り巻きとの印象が強い鄧小平ですが、実のところ毛沢東・周恩来・鄧小平の間には、微妙な距離感があった、少なくとも毛沢東が見る鄧小平は、思想性が希薄なテクノクラートであり、周恩来べったりの人物ではなかった、私としてはそう考えますが・・。
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- trajaa
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鄧小平も江青らに第一次天安門事件で失脚させられていることから、 走資派ナンバー2だった鄧小平も江青の目の敵にされたはずで、 それでも文革期に抹殺はされなかったあたりに、モヤモヤが残ります。 -------------------------- 劉少奇夫人の王光美さんに触れてみましょう もう、名前からして良い名前ですね 親が政府高官で大学に進み語学に堪能、とても美人だし言わば才色兼備 劉少奇が第二代の主席に就任して、言わば中国のファーストレディとして脚光を浴びる輝かしい経歴をお持ちです 一方の江青さんは、元は映画女優ですからソレなりの美貌は持っていたようですが、後世聞かれる話だと自分の身体を武器に役を取っていたと噂されるような人ですから当然苦労したんでしょうねぇ で、毛沢東と知り合い様々な経緯の後に毛と結婚する際に、政治活動をしない毛夫人として前面に出ないなど様々な制約を掛けられたことで毛夫人とは言ってもずっと日陰で暮らしてきました こう見てみると、毛沢東を主席の座から追いやった政敵とその妻が、自分が望んでも適えられなかったスポットライトを浴びる姿を見て 劉少奇主席を追い落とすこと=王光美の不幸=復讐の完遂という図式になったと思われます そう言う意味では、文革というのは毛沢東の思惑と江青の思惑とがぐちゃぐちゃに絡みあった政治活動だったのです。 毛一人でも、江青や四人組だけではあのような規模や範囲にはならなかったのでは無いかと思っています 文革期に関する様々な階層や立場の人々の回想録や調査資料などを多方面から突き合わせないと 何でそうなるのかな~という謎が深まるだけの摩訶不思議な出来事です
お礼
trajaaさま 再びありがとうございます。 文革というのは毛沢東の思惑と江青の思惑とがぐちゃぐちゃに絡みあった政治活動だった... 鄧小平が毛沢東や江青の猜疑心や嫉妬心から逃れることができたのは、 運やタイミングだけでなく、やはりその立ち位置や実務能力・軍歴による ところが大きいのでしょうね。 鄧小平が完全抹殺・粛清されずに、 復権できる程度の(中途半端な?)失脚で済んだことが どうしてもわからずモヤモヤしておりましたが、 ずいぶんとスッキリしてきました。 いろいろ勉強になります。
- tanuki4u
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1971年 林彪失脚 1972年 ニクソン会談・田中会談 1973年 鄧小平復活 ※ このへんから毛沢東・周恩来ともに、病床から指示を行うようになる 1976年 1月8日 周恩来死去 1976年 4月5日 第一次天安門事件 1976年 9月9日 毛沢東死去 1976年 10月6日 四人組逮捕 参考 http://www.cctb.net/topic/jd90/dfile/shida/201103/t20110304_26356.htm http://d.hatena.ne.jp/kahnn/20110801/1312208723 参考に上げたのは、「生身を晒すことの重要性」です。 文化大革命を起こすにあたって、毛沢東は「揚子江を泳ぐ俺」を見せることから始めています。 林彪事件の時は、1973年の党大会に出席できるように「生身」を見せることができたが、第一次天安門事件の時には、毛沢東は生身を晒すことができなくなっていた。 「毛沢東主席が言っている」 というのと、毛沢東本人が 「おいらは、こう思うよ」 というのでは、影響力が違います
お礼
tanuki4uさま 再びありがとうございます。 そうですね、たしかに本人が生で言うことの影響力は理解できます。 文革期の失脚時は「毛沢東の」意向がダイレクトに発せられたおかげで、 第一次天安門事件での失脚時は「毛沢東の」意向が確認できなかったおかげで、 鄧小平は止めを刺されずに助かったということでしょうか。 ただ、「毛沢東の」意向が直接伝わらない・わからない状況下で、 さらに高い能力・秀でた軍歴があったにもかかわらず、 なぜ第一次天安門事件でデモの首謀者とされてしまい、 全ての職務を剥奪され失脚してしまったのか... とか、 党籍剥奪や逮捕といった完全抹殺の回避だけでなく、 そもそも失脚処置の回避も、軍事力発動を背景に回避できたのでは... といったあたりにモヤモヤが残ります。 いろいろ勉強になります。
- tanuki4u
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理解の肝は 1 銃口から政権が生まれる. 毛沢東の言葉より 2 中国軍は軍閥の集合体 これであると考えます。 四人組や華国鋒に無くて、鄧小平にあったものは、軍歴です。 1921年生まれの華国鋒は、1949年の段階で28歳で、直接の軍歴はありません。 四人組においても然り。 その軍事力の背景は、警察権力までであり警察は基本的には「官僚としての忠誠」つまり個人的な忠誠心ではなく職務上の忠誠心です。 これに対して、中国の各軍は第二次世界大戦前から国共内戦を通じて、 鄧小平は第二野戦軍の政治局員であり、事実上のトップでした。 その時の軍トップが劉伯承であり、十大元帥の一人、1977年段階で、現役であり中央軍事委員会の副主席 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%85%83%E5%B8%A5 また1977年段階で、北京軍区司令官陳錫聯は第二野戦軍 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E9%87%8E%E6%88%A6%E8%BB%8D の3つの兵団の一つの指令員 中途半端でない処置をしたら、軍事力発動の危険もあったわけです。
お礼
詳細に教えていただきまして、ありがとうございます。 鄧小平の軍歴が肝ということでしょうか。 そうしますと、 林彪の場合は鄧小平以上の軍歴があったにもかかわらず 粛清されてしまったのは、相手が毛沢東だったから軍歴が通じず、 鄧小平の場合は「毛沢東からは」排除対象とはされなかったことが幸いして 毛沢東を除く相手にはその軍歴が通じたというわけですね。 しかし、第一次天安門事件での失脚時には、 四人組の後ろ盾として中央軍事委員会主席の毛沢東は存命であり、 副主席である劉伯承でも軍事力発動は難しかったのでは... とモヤモヤしています。 いろいろ勉強になります。
- ithi
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ssnagoyaさん、こんにちわ。 彼は有能であったことは間違いはないでしょう。だから、失脚するたびに周恩来や許政友という人たちが助けていました。また、たぶんですが、晩年の毛沢東の意向もあったのではないでしょうか。権力闘争相手の四人組では太刀打ちができないほど彼は有能だったのです。林彪事件後はますますこれからの中国は自分に追従している人間ではかじ取りはできないのではないかということを考えるようになったと思います。 詳細は下記のURLを参照してください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc7/deng-xiao.htm
お礼
詳細に教えていただきまして、ありがとうございます。 権力闘争相手の四人組では太刀打ちができないほど彼は有能だった... ことに加えて、「毛沢東が」その能力を認めていたことが肝なのでしょうか。 しかし、「毛沢東も」認めていたほどの高い能力であれば、 毛沢東存命時にもかかわらず、なぜ第一次天安門事件で デモの首謀者とされてしまい、全ての職務を剥奪され 失脚してしまったのか、といったあたりにモヤモヤが残ります。 いろいろ勉強になります。
- trajaa
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周恩来が可能な限り庇ったし、毛沢東の方にも8億9億の人民に飯を食わせる実務能力を持つ人間を抹殺することの影響を考慮した節がある 政治的な実権を失わせれば、自らの地位に危険を及ぼさない 劉少奇さんの悲運は、奥さんがあまりにも目立ちすぎたことがある その為に江青女子の目の敵にされてしまい、周恩来も庇いきれなかったし 毛沢東も自分を追い込んで主席の座を奪った劉少奇には何の庇護も与えなかった 鄧小平を、自分の地位を脅かさずに実務だけに専念させ、第二の周恩来のようにさせたかったのだと思われる なので復権と失脚を繰り返した 周恩来は、当初から徹底的に毛沢東の意向に従うイエスマン(少なくとも表立って批判はしなかった)なのに対して 鄧小平は直接的ではないが、間接的に毛批判を行ったと受け取ったのだろう
お礼
詳細に教えていただきまして、ありがとうございます。 第二の周恩来のようにさせたかった... と「毛沢東が」考えていたことが肝ということでしょうか。 江青の目の敵にされた劉少奇さんの悲運...とのことですが、 鄧小平も江青らに第一次天安門事件で失脚させられていることから、 走資派ナンバー2だった鄧小平も江青の目の敵にされたはずで、 それでも文革期に抹殺はされなかったあたりに、モヤモヤが残ります。 いろいろ勉強になります。
お礼
詳細に教えていただきまして、ありがとうございます。 文革期の失脚時だけでなく第一次天安門事件での失脚時も 「鄧小平を温存しようという毛沢東の思惑が明確に働いていた」 と理解するとずいぶんとスッキリします。 四人組の影響力も、「毛沢東の意志を無視して、 鄧小平を完全抹殺出来るほどの権限の委譲が無かった」 ということは、やはり第一次天安門事件のときも 毛沢東の意向が働いて、不完全な失脚に止まり、 完全抹殺まではいかなかった...なるほどスッキリしました。 鄧小平という大物の運命をも決定づけてしまうわけで、 晩年とはいえ毛沢東の影響力は最後までとてつもないですね。 ご回答くださいました皆さまからは ご親切に詳細に教えていただきました。 とても勉強になりました。 ありがとうございました。