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もっとも影の長い日
ピラミッドやストーンヘンジ、モアイ、立石環状列石などの遺跡・巨石群が、星や月など天体、時に太陽の動きと関係していて、東西南北の方角や夏至や冬至を示しているとする見地が、歴史・史跡研究者などの間で伝えられていますが・・ 意味不明な質問ですみません。 太陽暦で示される現在の冬至日が、太陰暦でも冬至ではないですよね。? ※巨石を運搬するのに海や川、運河、船が使われていた事や、巨石を加工するのに、更に硬い石が使われている場合や、鉄が使われている時代などで、その地域の慣習から、設置の意味や時代を予測したいのですが・・
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- chiha2525
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暦に関係なく同じ日が冬至の日、というのは理解されたでしょうか?少し心配ですが。 その日が一番短くなる冬至の日を、何月何日にするのかというのは、各暦が1年の始まりをどこにし各月をどのように決めているか、によって変わってくるものです。 ストーンヘンジなどは、その文明がどのような暦を使用していたかによらず、太陽の運行など天体運動を直接的に神聖視していたものだと思いますので、質問者さまの言われるような、各文明がどのような暦を使用していたかがストーンヘンジなどの遺跡に何らかの違いをもたらしている可能性は低い(あったとしてもあまり意味は無い)と私は思います。 とまれ暦に関してもう少し知っていることを書いておきます。ただ私は暦に関しては専門家でも何でもないので間違いが含まれている可能性もあると思います、ご容赦を。 暦というと、約29.5日で満ち欠けする天体の月にちなんだ月(という時間単位)と、太陽の運行に関連する1年という期間をどのように合わせるかというのが、一大問題だったでしょう。 中国(東洋)の太陰暦ですが、簡単にいうと、冬至・夏至・春分・秋分を基準に一年を12等分し、さらにそれぞれの中間点を求めます。その12個の中間点がある月を順に1月2月…と数えるわけです。12等分のさらに各中間点を求めるので、1年を24等分していることになりますが、つまりこれが二十四節気です。1年の始まりは春なので、冬が冬至の前後同じ期間、春が春分の前後同じ期間と考えると、冬至と春分のちょうど中間が冬から春に変わるところとなります(これが二十四節気の立春です)。ですからこの日を含む月を一年の始まりである1月にして、あとは順に“12等分の中間点”のある月を2月3月…とします。 ここで1年の1/12は30.4日くらいですが、月の満ち欠けは29.5日くらいですので、時々一月のなかに“12等分の中間点”が無い月が出てきます。それを閏月として、9月の次がそのような月であれば閏9月などとして、1年とのすり合わせをしたわけです。 月の始まりは新月の日(朔)ですので、太陽の運行の1年とはあまり関係なく毎年の1月1日が決まることになります。 古代中国で冬至が年始云々というのは、少し調べたところ前漢の頃に使われていた顓頊暦(せんぎょくれき)というのが、その話の元となっているようですが、この暦も「正月は立春の月であり、二十四節気の起点とした」とあるように、1年の始まりの月は二十四節気の立春が基準であり、閏月による調整を冬至の前の月で行っていたというだけで、「冬至を1年の始まり」という説明がどれほど正しいものか、個人的には疑問を感じるところです。 話が横にずれますが、陰陽五行をすこしかじっていれば、冬至は陰の極であり、十二支の子、方位なら真北。1年の閏月の調整を行うには、陰陽五行的には良いところに思われます。 ちなみに年始である立春は十二支で丑と寅の間、つまり丑寅であり、鬼を懲らしめた門との寓話から鬼門と言われますが、年末年始は1年で一番変化の大きい時であり、それ故これらが大きな変化がある=大きな災いがある方位などと連想されて伝わっているという話を聞いたことがあります。 暦にもどして西暦(西洋)ですが、ご存知のとおり2月を少なくし(4年ごとに閏日を入れて)1年の長さをすり合わせをしています。2月に調整するのは、もともとは今の3月が年始(1月)であり2月が年末の月であったからだと聞いています。詳細は知りませんが、やはり春を一年の始まりとしていたのではないかと思います。
- chiha2525
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>太陽暦で示される現在の冬至日が、太陰暦でも冬至ではないですよね。? 簡単に。 冬至は一番日の短くなる日で、1年に1回『暦に関係なく』同じ日が冬至の日になります。 暦は人が人為的につくったもので、年の初めをいつにするか月の初めをいつにするかなどは各暦でいろいろ 変わりますが、天体現象である冬至日はどの暦を使おうとも同じ日が冬至日になります。 古代中国で冬至の翌日が一年の始まりという回答がありますが、出所が少しあやしいと感じます。冬至を知る文化レベルであれば春分も知っており、一年の始まりをその中間点(節分)にすると考えるのが自然だと考えられます。というのも、世の東西を問わず一年の始まりは春であると考えていたようですので。
お礼
二十四節気には正確な日付は設定されていないようですので、冬至日には、地球規模で、地域偏差的なズレは無いということですよね~。 今も生かされてる考え方、12月で1年が終わり1月から新しい年が始まりますけど、年度末は3月で、新年度は4月からという感じでしょうか。 そういえば入学シーズンを、9月か10月にするという方向性があるらしいです。ブランクはどうするのか(汗;)、聞いてるとデフォルトの準備かと思えてきます。 >一年の始まりをその中間点(節分)にすると考えるのが自然だと・・ 20年以上前に他界した祖母から、子供の頃、聞かされたことがありますけど、正直、いまだに意味は分かっていません(汗;)。農耕、いわゆる春を有意義にするためには、直前の冬が重要だったのは間違いない事で、何かの目的で余った種で遊んでいたとか ?! ・・回答有難う御座いました。
- ithi
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bettybanana さん、こんばんわ。 ピラミッドがつくられた古代エジプトは太陰暦ではなく、太陽暦を使用していました。太陰暦は太陽暦と違って、1年が354日なので、一年で11日の誤差が出ます。だから、閏月を入れて、修正していました。季節的にはこれでは不正確になるので、冬至や夏至は大体太陽暦に基づいていたと思います。古代から、種まきや刈り取りの時期が一定でないと困ることになるので、春分の秋分の時期に基づいて農耕がおこなわれていました。だから、公式的には太陰暦を採用していた地域も民間で使用する生活暦では24節気という形でも使用していました。 一方太陰暦の利点は潮の満ち引きです。これは月に関係しますので、こちらの方が正確です。 24節気 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97 暦注 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E6%B3%A8 太陰暦 http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/24sekki.htm
お礼
回答、有難う御座います。 ・・教科書ですよね。 古代エジプト、閏日が無かったと聞いていますけど、実用的に問題は無かったのだとか、今から比べると、人の一生にしても、建設技術にしても、誤差が大きかった程度の事でしょうか。農耕が主立っていた理由だと思います。しかし30日で区切られていれば、それは天体(月)を観測していたということで、現実、1日ずつ時の経過を押さえはじめた頃には、冬至よりは、夏至に注目していた可能性もあるはずですし、夜も活動していたはずですし、そこには太陰暦の考え方も無くては暦は成り立ちませんよね~。 それから当時も、種を蒔く時期というのは、もっとも重要なポイントだったのでしょうか・・ 一方、東洋の太陰暦では、3年に一度、1ヶ月多くなるのが通常で、閏月が必要になったとか、中国にしても日本にしても、時代の経過から言いますと、最近ですよね~。太陽暦は、それほど必要としていなかった節ありますけど・・ 本題ですが、巨石のモニュメントと太陽の通る道との精度は、地殻変動や地盤沈下、水位上昇などで、大きな天変地異ごとに、変化はあったと思うのですけど、・・立ち位置が決まっていない以上、そんなことにも左右されますから、こうだと言われると、なんとも妙な気分でして(汗;) 生活の中で、太陽や月を意識していたという事は、日数から1年、1ケ月を求めると同時に、時間の経過を定めていたのだという部分に、今、着目しています。
NO2です 補足を頂戴いしましたのでご参考までに書籍を紹介させて頂きます。 補足に >文明が出来上がる頃にはそういう図式もあり、それは、人々の生活と暦と、 深い関連性があるはずなのだと思い至りってまして・・・・ >人工的なものか、或はひとつの時代が変わる時に、取り残された歴史の忘れ物なのかなぁとその詳細さえが、まだ不明瞭で・・・ とありますが、ストーンヘンジにはやや遠回りですが暦の歴史や成り立ちについて一度目を通されては如何と思います。 暦と占いの科学 永田 久 著 新潮選書 ヨーロッパや中国の暦に対する古代の考え方が紹介されています。
お礼
有難う御座います。 書籍見つけています。 チャンスがあったら読んでみたいです。
>太陽暦で示される現在の冬至日が、太陰暦でも冬至ではないですよね。? 太陽暦、太陰暦、新暦、旧暦と分けて考えませんと話が混乱します。 回答者NO1さんが提示され質問者様が読まれたサイトの記述が判り難いには、「冬至を含む月を11月にします」という文章です。 カレンダー(新暦)の月は30日と31日のように月によって日数が変わりますが、旧暦は30日のみです。 当然カレンダー(新暦)と旧暦とはズレてきます。これを溜めてほぼ30日ぐらいズレたところで閏月という月を差し込みます。 例えば六月と七月との間に挿しこめば閏六月と呼びます。 この閏月を一年の何処へ挿しこむかという計算をする際に、11月に冬至があるように調整するという意味です。 この閏月は、場合によっては一年に二回あることもあります。 古代中国では、冬至の翌日を一年の初めとしていましたが、後に農耕の感覚から春分を一年の初めとするように変わりました。これが今も旧暦に受け継がれています。 二十四節季という言葉を聞かれたことはありませんでしょうか。1年を季節の移り変わりを基準にして24に分けたものです。これも一種の暦です。冬至とか立春という言葉はこの二十四節季で使われている言葉です。 旧暦はあくまでも、お月さまが基準ですから、春夏秋冬の移り変わりとズレが生じます。 江戸時代の人々もこのズレには悩まされたようです。 太陽暦と太陰暦は、ご承知の通り、太陽の運行(地球の公転)を基準にした暦か、月の満ち欠けを基準にした暦かという区別です。 古代にはどこの国の人も月の満ち欠けを基準にして、暦としていました。 当然太陽の運行に従った春夏秋冬の季節とズレが起きてしまいます。放っておくと、一年の初めが冬から、春へ夏へとどんどん変わってしまいます。 これを一生懸命調整して作り上げたのが今のカレンダーです。 ということで、カレンダーと旧暦と二十四節季は取り決め方が違いますので、ズレがでます。 ピッタリ合う年もあれば、大幅にズレル年もあります。 >※巨石を運搬するのに・・・・ 暦の話とこの文章との繋がりが良く解りません。 再度、補足をお願いします。
補足
今、比較的身近にあり、名も知れず存在している石のモニュメントに注目していまして・・ 暦との関係を模索しているところで、行き詰まり、まだ漠然としてますが、ちょっと質問に至りました。 現代の建設・建築には工程表というスケジュールが作られ何事も計画的に進められますけど、文明が出来上がる頃にはそういう図式もあり、それは、人々の生活と暦と、深い関連性があるはずなのだと思い至りってまして、ぶっちゃけまだ何もですが・・\(笑;)/ ・・ご説明感謝いたします。 暦が出来上がった頃には、冬至を1年のスタート、或はおっしゃられるように、1月前とする考えが多かったという事ですけど・・ 狩猟の時代、特に海草・魚介類を獲るようになり、月の動きと満ち引きに注目され生活が営まれ、更に農耕の時代には、太陽の動きから、二十四節季が作られたとの予測から、何か見えてくるものはないかと・・ ~3年に1度なんですね。月単位のズレがあることは、以前、聞いたことがありましたが、恐らく理解度の関係からか、すっかり忘れてました(汗;)。 おかげ様で、すっきりと思い出してます。 自然のものか、人工的なものか、或はひとつの時代が変わる時に、取り残された歴史の忘れ物なのかなぁとその詳細さえが、まだ不明瞭で、歴史背景の薄い海域に住んでいますが、水没しているものまで含めると不思議なものが、結構、身近には存在している事に気づかつされている最中です。 暫くかかりそうですが、改めてお礼しなおします。 情報感謝いたします。
お礼
質問前に読んでたページです。 参考にはなりますが・・(汗;) 要するには、手っ取り早く、もっと簡単にならないものかと・・(爆;) 回答、ありがとう御座いました。
補足
回答有難うございます。 冒頭の件、現実、微妙までにも至ってない程とだけお伝えします(汗;)。 検討課題をフォローしてくれる都合の良い文献は、探せばいくらでも出てくるともだと思います。著名なものとかでなければですけどね。地域や時代背景をあわせていても、異なる事を主張する論客はいつの時代もいるものです。 50年ほど前までは、自分の住む島も、旧暦を使ってましたが、もちろん普通のカレンダーも一緒ですけど、地域行事も農業や漁業も旧暦で動いたようです。 今は、冬至は12月末ですけど、旧暦では11月にあった(10月だった頃もある)ようです。冬至が1年のスタート(※ラスト)というのは、今のカレンダーの年末年始の事です。 しかし、1日~2日の誤差は考えないものとして、天文学的に同じ日かどうかは、疑問ということですよね。? 二十四節気も(24ポイント全部ですが・・)、その日がある基点と言う事だけで、特定している分けではないですよね。? それを文化毎に、また時代ごとに、理解しないと、その光の祭典とでも良いますか、その巨石モニュメントの意味なども・・