ネコです、お久しぶりございです。
だからと言って、
ネコは馴れ合いは嫌いです。哲学カテでのネコは、他のカテゴリーとは違って、キバと爪を立てます、容赦ないです、本気です。
「拝んではなりませぬ。願ってはなりませぬ。」
わたしは、これに対して異存はありませぬ。これは《信仰》の最終形態なので、まったく異存はありませぬ。信長ではありませぬが、
「神仏は敬うべき、頼るべからず」というのは、諸手をあげて賛成します。
なぜならば、
神仏を頼ることは、みずからの主体性の放棄であり、それは行為主体である《みずから》の否定につながりますので。《自由意志》に基づく行為の選択や決定の責任は、みずからが追わなくてはならないからです。みずからの力が及ばないからといって、それを超越的な存在の責任に転嫁してはなりませぬ、それに甘えてはなりませぬ。
なのですが、
《信》は違うのではないですか?
hitonomichiさんがこの質問を投げかけることとは、他者への《信》頼に基づいているのでないですか?
たとえ、
hitonomichiさんが「アルケー(αρχη)教○◇」と呼ばれようが、
わたしは、
hitonomichiさんの、《信》じる真理・道を追い求めようとするその姿と、
他者を《信》頼する姿勢に共感し、
時に茶々を入れながらも、
───茶々や皮肉を込める時でも、《哲学カテ》でのわたしは常に真剣です、本気です───
hitonomichiさんの質問に対して真摯に答えてきました。
こうした《信》じる気持ちを、否定しては、いけませぬよ。
これは、この質問を投げかける自身への背《信》行為であるとともに、
hitonomichiさんの《信》じる道と自身に対する裏切りです。
なのですが、
この質問が、
既成宗教や思想のお仕着せの神さまや教義、そして、自身のドグマ・独断に対する不《信》という意味であるならば、賛成です。
これは、みずからが常に問いかける問題ですから。
そのために、哲学があり、この《哲学カテ》の存在意義があると思います。
しかし、
NO1さんのおっしゃるとおり、非《信》でとどまってはいけませぬよ、もったいない、と思います。
《信》じるとは何なのか、《信》じるに足るものは何なのか、
それを追求しなければ、その思索を深めなければ、いけませぬよ。
もっとも、
《非信》が「いわゆる《信》に非ず、相待の《信》に非ず、絶待の《信》なり」という深いお考えがあるならば、話は別です。
それでこそ、《南無・namo》という言葉が光りますが、
そかまで、お考えが及びですか?
と、問題提起します。
いつになく厳しすぎますかね~、わたし?
それだけhitonomochiさんを《信》じてるんですって。
アルケ~本願に多少なりとも関係していますんでね、わたし(ポリポリ)。
お礼
>《非信》が「いわゆる《信》に非ず、相待の《信》に非ず、絶待の《信》なり」という深いお考えがあるならば、話は別です。 それでこそ、《南無・namo》という言葉が光りますが、 そかまで、お考えが及びですか? 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神が存在することは信じることではありません。 それは信じるを超越しているのであり、感じるのです。 有瑠慶非信非拝非願、これで完璧であると思っている、何一つ修正する必要はない。 その確信に至ったから有瑠慶本願が生まれたのです。 そしてあなたがそれを手伝ってくれた。 ありがとう。