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朗読に味を出す方法とは?
- 朗読の専門家ではない、あの「男はつらいよ」の渥美清さんや森繁久弥さんの朗読は、独特な味があります。感情豊かに表現するだけでなく、ユニークな読み方でも味を出すことができます。
- 例えば、昔の流行歌手である日吉ミミの投げやりな歌い方が人気を博しました。同様に、朗読でも独自のスタイルや読み方を取り入れることで、魅力的な味を作り出せる可能性があります。
- ただし、味のある朗読をするためには、個性を大切にしつつも、聴衆の感情やテーマに合わせた読み方をすることも重要です。感情豊かに表現するだけでなく、テクニックや練習にも時間をかけることで、より味わい深い朗読を実現することができます。
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質問者が選んだベストアンサー
奥さんはトレーニングを積んだのですか。 ご要望が少しづつ分かってきました。音訳図書館のせいもありますがご要望にとって初対面で声がいいですねはダメですね。おっしゃるようにはっきりしているという意味です。それこそ声量問題になります。カラオケで声楽みたくなる人ですか。 これは難しいかも。性格習慣みたいなところでしょう。無理っぽい気がします。つまり性格が声に出ているのでしょう、ご夫婦でその調子で。普段は関西弁ですか? 鼻濁音問題もうなずけます。 ご性格的にはご質問本題の正解は無理、じゃないですか。 ご自分の声に自信があるから今回の音訳ボランティアなわけですか?録音だし読書だから声量は要りませんからね。録音じゃなくてライヴで聞かせるの? 顔つきで人間を判断できますか?など再質問された方が前進するでしょう。そうした貴方の性格生活的な情報を過去投稿でもいいから伴わせて、私は声がはっきりしている、○○と言われたりしますが、味のある声を出したいです、という再質問ですね。朗読とは違う議論にした方がいいのではありませんか。味味では見当もつかず回答者は困りますから具体性のある質問で。カテゴリは他にも色々あります。ともかく貴方の性格的な情報を先に知らせないとかみあわないやりとりになります。 そのまんまを味でいいんじゃないの。声量のある人なら試行錯誤の一案として声量を落とす。シナトラよりペリーコモ。
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- TANUHACHI
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No.11の方へのお礼を読んでいる間に、何か嫌だなとの印象を受けました。 >私が優等生の声を嫌い、偏頗な声に引き付けられるのは、どうも私の過去からのコンプレックスに基因するようです。 若い頃です。私の撮った多数の写真をある友人に見せたことがあります。友人曰く「アンタらしい写真だね」と。実はこれは侮辱の言葉なんです。「皆、ソツのない写真だね。クセのない優等生的な写真だね。ユニークさも味もないね」という意味であることは、日頃の彼との付き合いから直ぐ分かりました。 だから、音訳朗読を進めて行っても、俺が俺らしくなったら、只、声量があって発音がきれいなだけで、味もユニークさもない朗読者なるんだろうなあ、という嫌な予感があるのです。 声量を落として読むと、「いきいきした気分」がなくなって、つまり、気分が滅入って来ますね。 音訳を始めたのは、前にも言いましたように、あくまで視覚障害者に奉仕するため。始めてみると、何事にも拘りが強いほうなので、同じ読むなら味のある読み方ができないものかと、模索を始めたわけです。 何かご自身を完璧な存在か何かと勘違いされていた時期が過去にあって、それをものの見事な言葉で友人に言い当てられたショックが引き金となり、逆に「視覚障害者に奉仕する」との一見美談にご自身を転嫁させてしまったのでしょう。 先日のコメントを読んでも、評論家ならば創作ができないのは当然、と僕は納得もいたしました。文芸評論の世界では未だに「別格扱い」されている小林秀雄も、殊創作ともなれば「目も当てられないほどの駄作作家」です。 今回の御題でいえば、「貴方がその作品をどう感じたか」をそのまま表現すれば良いのではありませんか。どこにも「味のある」の完璧な定義などありませんから。 その定義付けを問うているのでは、未だに学校秀才のコンプレックスから抜け出していないご様子ですから。過去は振り返らず、過去を薬にするほどで良いのではありませんか、固執し続けるとそれこそ取り返しの付かない状況に一家で追い込まれることも想像に難くありません。 失敗だらけの人生ですから、僕はあっけらかんとしています。
補足
>逆に「視覚障害者に奉仕する」との一見美談にご自身を転嫁させてしまったのでしょう。 これは断定でしょうか?推量文ではないし、疑問文でないですよね? だとすると、他人の人生はそうそう簡単には断定せぬ方がいいと思います。たった1つのエピソードを知っただけで、どうしてそれを簡短に視覚障害者に奉仕する行動に結び付けてしまうのか、その理由が分かりません。まあ、その理由を解ろうとすると、今度は私が貴方の心理を分析しないといけないようになります。それは今は面倒なのでやめておきます。 何故視覚障害者に奉仕したいのか?これは差し当たって、ここでの問題ではないし、これを説明しようとすると、私の思春期からの一代記を喋らないといけないことになります。 先の回答者さんも、私が何度も書いてるにも拘わらず、それは頭に入らないらしく、「声に自信があるから今回の音訳ボランティアなわけですか?」と盛んに邪推されます。 しかし、ムリもないのかも知れません。全国で音訳ボランティアをされている人の大半、というか多分98%くらいは女性で男はほとんどいないのです。男は基本的に視覚障害者のための音訳には興味がないようです。貴方もないのではありませんか?自己表現する「朗読」には興味を持つ男性は結構いるようですが。 私の住んでいる市で、今年7人の音訳ボランティアがありましたが、私と他の女性たちの動機は違いました。女性たちは奉仕したいと言うよりも、自分の好きな文芸書を読みたいという動機が強いようでした。その結果、全国の音訳図書の50%が文芸書に偏ってしまっています。 貴方が男性で2%に属していないのなら、私の動機を知ることは難しいかも知れません。「純粋に視覚障害者に奉仕したいのだ」。貴方が、私と全く同じ気持ちを持っておられないなら、邪推することになってしまうでしょう。 >、「貴方がその作品をどう感じたか」をそのまま表現すれば良いのではありませんか。どこにも「味のある」の完璧な定義などありませんから。 要するに、ないから諦めろ、ということですね。過去も捨てろと。何とも素っ気ない冷酷な回答ですな。要するに何も回答していないということです。 「味」の定義を求めている質問ではありませんね?「味」を出すヒントを求めている質問には見えませんか? 過去のコンプレックスがあるから現在の拘りがあるわけで、その拘りが新しいものを生む可能性はないですか?拘ったら破滅するって、他人の人生を断定しない方がいいと思いますよ。コンプレックスがしばしば、良い意味で人生の起爆剤になることはご存知でしょ? 疲れて来ましたので、そろそろ質問を閉じますね。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
いまさらインド人にはなれません。 でも好きで好きで研究すればどこかしらインド人の雰囲気を身に付けることはできると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 そうでしょうね。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
8です。 味を作れないかということですか。 前の方の人が言っている物真似で最初は練習するのは良いのかもしれないですね。 落語も師匠のを聞いておぼえるのだし、ジャズのインプロビゼーションも耳からおぼえて自分なりに工夫するのだし。声の音色のバリエーションとかは練習で開発・習得可能のような気はします。 でもだとしても最終的には自分の持ち味を生かすということではないですかね。 クセが無いとか聴きやすいとかは立派に持ち味のように思います。それに逆らう発想からは離れた方が良いと思います。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >クセが無いとか聴きやすいとかは立派に持ち味のように思います。 ありがとうございます。一応は持ち味でしょうね。それすら無い人に比べたら。 北杜夫が「ドクトルマンボー航海記」で、彼が見た一番の美人はインド美女だったと書いてますね。 私も若い頃世界を回っていますから、この意味がよく分かるんです。 西洋の白人も美人は美人なんですが「味」がないのです。 インド美人は神秘的で何十分見続けても飽きないのです。ぐっと抑えたというか、秘めたというか、何かを持ってるんです。封建的な社会で育ったせいで、ぐっと、自分を抑えて来たせいで、ああいう神秘的な目になっているのでしょうか? 味がなくてキレイなだけ、というのにどうも抵抗があります。
- priscreen
- ベストアンサー率20% (8/39)
中島みゆきは読みました。 おっしゃいたい事は分かります。好み問題もありますが難しいのはメジャー化することをどう考えるか。イチローも中島みゆきもメジャー化しています。賞を辞退したかもですがヤンキースに行ったわけです。勿体つけが一枚上手なだけでしょう。 味の議論ですが、音楽でなさるなら、カバーで比較するのがいいでしょう。誰の曲のカバーか。こぶくろはカラオケですからね。 デモになったキムテヒの(僕と彼女の、何とかいう)ドラマのテーマ曲は時間旅行でしたか。スピッツとオリジナルどちらがいいかですが。私はすいません、スピッツですね(苦味より香味)。質問者さんはオリジナルでしょうか。 娯楽ですから軽さも大事です。どぶろくより清酒は江戸時代からの上方文化です。酒造り同様に文化活動なんてごくつぶしですから。文系の学者みたいに真剣に重々しくされてもね。黒沢の用心棒は悪役の仲代がスカーフ巻いてんだが誰も異議を唱えないわけです。違和感ないのです。 味というか雰囲気に引き込まれてしまうかでしょう、鑑賞者が。リアルにされるかどうかではなく聞き入るかですね。かがみさちこだとどうでも良くなって来ますよね。立松や渥美の場合は心配になってきます。だいじょうぶやろかと。たすけよかと。 私は大阪のニューミュージックが全部ダメですね。飲んで~飲んで~飲まれて~飲んで~でしたかあるでしょゲロなんです。やっぱ好きやねんも。反動もたいがいにせいやのオカマ声でしょ。 ドギツクやれば良しということもないですよね。ジャズでもゴージャスにやらないペリーコモのささやき歌唱が良いとも感じますし。質問者さんにはナメクジになりますかね。 私もだからもう音楽自体聞きません。ないんですよ。 寅さんのテーマ曲はいいですよ(笑)哀愁ありますよ。笑い涙です。演者が泣くべきときに泣いたらダメなわけで。笑いで泣かせるというか。 私は雰囲気と性質が対照的なんですが活字なると一致しますね。声でもてるようです。鳥じゃなくても声の資産価値は高いですね。私は騙すとか酔わせるとか利益目的の下心なく自分の声色に気を使うだけです。男を意識しない自分のための女らしさと同じ存在です。 質問者さんは魅力あります。やはりお声にも出てるんじゃないですか。ガラッパチだと朗読目的には合わないでしょうが。総じて押しより引きでしょう。三船の声も聞き取りにくいから良いのです。
補足
イチローに関してですが、結論から言いますと、彼の「顔付き」はスッキリしていますから、「勿体つけが一枚上手」ということではないと思います。コレを説明すると非常に長くなってしまいます。以前に私が質問して補足したのがありますから、よかったら読んで下さい。 →http://okwave.jp/qa/q5844658.html 非常に残念なんですが、世界広しと雖も、「顔付き」から人間を判断している人は、他に一人もいないのです。 でも、この種の素地のない人には、なかなか受け入れにくい論理だろうとは思います。でも、私や妻にとっては、地球が円いのと同じほど当たり前の自然なことなんですけどね。 盲人が時間を正確に当てることはご存知ですか?時計の針を見ることが出来ないから、時間に対する感覚が研ぎ澄まされて発達したのだろうと思います。 私の妻も特殊な環境で育ったせいで、人の顔付き、かもし出す雰囲気から、瞬時に人の性格を判断する第六感を身に付けました。私も遅ればせながら妻の特訓で数十年、何とか妻の3割くらいの能力は身に付けた次第です。 先の村上春樹の件も、エルサレムでの演説内容と、プラス顔による判断です。 音楽(楽器ではなく、歌唱ですが)に関しては、実は、私はなかなかウルサイのです。 YouTubeで世界中の感動する音楽を探した時もありました。 「日本のアーティストのレベルは何故低いのか?」の質問もその時のものです。 紹介下さったオリジナルの原田真二もスピッツも聴くに耐えないレベルです。日本の歌手全般に言えることですが、声にセクシーさ、ツヤがない。声量がないのにボリュームをムリに上げて発声しておりますから、聞き苦しいのです。 二、三ヶ月前話題になってた「東京島」という映画を観ました。これ以上の駄作はないという映画ですが、黒澤の映画の方が素晴らしいと言うと、黒澤を好むのも所詮は「好みの差」「古きよき映画に対する郷愁さ」なんて言われたら、「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょ? これは、映画の価値に上下はない、という主張です。自分が感動したものをけなされたと感じ、反発して「好みの違い」を主張して「価値の差」を否定しようとするのです。 価値あるものは残り、後世まで万民に愛され続けますが、じゃあ今あるものの中で価値のあるものは何だろう、コレは価値があってコレはないんじゃないかと言うと、途端に反発が起こり、「単なる好みの差」というセリフで逃げようとします。先に紹介した中島みゆきファンという方も、盛んに「主観の差」とか「好みの差」を連発されていましたね。 「好みの差」を言うなら、両者甲乙付けがたい場合だけでしょう。黒澤の映画と溝口の映画、確かに甲乙付けがたいし、どちらを好むかは「好みの差」と言ってもいいでしょう。 しかし、「東京島」や「春との旅」と比べて「好みの差」と言ってしまうのは間違っています。私のような素人が観ても、それらの映画の客観的な低級さがいっぱい見えているからです。 貴方も声が良い方なんですか?私も数カ所の音訳図書館に電話した時、2ヶ所の人に「いい声ですね」と言われました。 音訳に向いているという意味らしいですが、私が自分の声を内側から聞いている限りでは、いい声には聞こえません。 言葉がはっきりしているとも言われました。 要するに、アナウンサーのようなスッキリハッキリした声らしいですが、自分としてはそういう声は嫌いなのです。 何度も例に出すように、渥美とか立松とか、三船のような、ちょっとシワガレ声で、ちょっとドスが聞いていたり、飄々とした調子があったり、とに角、癖のある調子に非常に「味」というものを感じるのです。アナウンサーのような優等生の声は嫌いなのです。さて、どういう声で読めばいいのか、今、悩んでいます。 当時の四巨匠は何れも「本物」に拘ったようですね。羅生門では、土砂降りを本物以上に本物に見せるために、雨に墨汁を混ぜたそうです。 女形の早乙女太一が本物の女性よりナマメカシイということです。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
フラメンコがお好きならば、フラメンコの話でいきます。 カルロス・サウラ監督の作品『カルメン』は主役にフラメンコダンサーとして知られるアントニオ・ガデスを配しています。 作品中にガデスの演ずるドン・ホセがカルメンの間男とサパテアドで対決するシーンがありますが、このシーンを観ていて、僕には「迸る恋と嫉妬の炎」を感じました。ダンスでそれを表現するのは映画ならではの手法ですが、メリメの原作には文字としてそれが記されている。 それをサウラなりガデスは映像あるいはダンスで表現したと解釈する限り、朗読の場合は言葉しか武器はないことになります。その「言葉」で何が表現できるかとの本筋に戻るなら、技巧としての強弱やイントネーションそして単語と単語の区切りにある間合いといった「要素」しか拾いようがありません。 日吉ミミの作品で言えば『世迷い言』は阿久悠さんの詩に中島みゆきさんが曲を着けた作品で、中島みゆきさん自身も『夜会Vol.4 金環蝕』で「変なくせだよ 男にふられたその後は なぜだかきまって 風邪をひく 真夜中 世の中 世迷い言 上から読んでも下から読んでも ヨノナカバカナノヨ」と文字どおりに「投げつける様に」演唱しています。 感情豊かにや気持ちを込めるなどとの生易しいものでもなく、一人女が自嘲笑い(かなしみ笑い)している光景を彷彿とさせるに余りあるともいえましょう。 ついでに宮澤賢治の「永訣の朝」で、(Ora Orade Shitori egumo)の部分をどう読めば雰囲気を出すことが可能かと考えるなら、 (1)Oraの後に少し間を置き、尚且つこの単語は語尾を上げ気味にする (2)Oradeの後も少し間を空けるが、単語の語尾を下げ気味にする (3)すると岩手訛りに近い雰囲気を出すことが可能になる (4)Shitori egumoの部分は平坦かつゆっくりと読む もしこの作品を大阪言葉や播州訛りで読んだなら、作品は台無しです。 忘れていましたが、朗読ならば長岡輝子さんや北林谷栄さん、そして奈良岡朋子さん白石加代子さんあたりも、貴方好みの「味のある読み方」ができる俳優さんです。
お礼
回答ありがとうございます。 私の好きなのはフラメンコの歌のほうです。 例えば昔の有名な歌手でこんな歌に感動します。 →http://www.youtube.com/watch?v=vALYn1Ba7CM シャンソン歌手の中で唯一好きになったのがマシアスだったのは、彼がアラブの哀愁を漂わせる音楽であったからだと思います。 ご紹介頂いた方たちの朗読を機会あれば聴いてみたいと思います。私はなかなか辛口の批評家なので、どうでしょうか?
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
たびたびすみません。 質問から離れてしまったので、質問に沿ったことに戻しますと。 味というのはその人の元々持っている物だと思います。これはなかなか変えられない物です。 それに合った作品や役が選ばれた時持ち味が発揮されて心に残るのだと思うのです。 これが私の意見の骨子です。 良い役者さんというのはそれを出すのが上手いのだと思います。演ずるということとは矛盾しますから。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 >味というのはその人の元々持っている物だと思います でも、複数の人の朗読を聞いていると、味がない人もいます。自分もない人間では?という悲観があるのです。で、「味」は作り出せないかと思って質問しているわけです。
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
ANo.4です。 朗読家という人は良く知りませんが、たいてい役者さんがやってますよね。でなければアナウンサー。 元々自分の発声やスタイルに合った物(作品)が好いという面があるのではないですか? 個性に頼らないではっきりわかりやすく読む技術が求められる場合はアナウンサーの方が良いのでしょうね。 日吉ミミは「男と女のお話」の場合はなるほど投げやりな感じを出していますね。真面目なプロ意識のある歌手だったら投げやりになんか歌えないからなかなかできなかったのは納得できるように思います。 本当に退廃的な気分になってしまったら歌うどころではないので、それを表現衝動として自分の物にできてなおかつ歌の形にするという操作が必要でしょう。どういう芸術でもそういう面はあります。そこに芸や術が入ってくる。(日吉ミミのヒット曲などもそうでしょう) だから深く傷ついたり絶望的な経験を芸術を借りてカタルシスにする事ができるのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 参考にさせていただきます。
- priscreen
- ベストアンサー率20% (8/39)
貴方のおっしゃる通りです。それが素直な意見であり正論でもあります。日本では正論の方が通りません。日本は偽善的でいわば厚化粧文化なのです。たいていの文化は厚化粧と形容できる代物です。その反動なのか和食というのは正直な食い物です。しかし和食もまた厚化粧をほどこされ高級化されます。フランスチックな滝川クリステルが言ったか知りませんが東京には五つ星が多いとか。元来の江戸っ子ならばしゃらくせいなのですが薩摩長州東北と流入してくるにつれ厚化粧を好むのが東京人になったように思います。江戸弁というか江戸文化は華美を好まない野暮ったさが味だったように感じます。 文芸を音訳する場合は朗読文化の作法に従うという事になると思います。 朗読者の朗読を直接真似るのは退屈なのです。朗読者の声を真似て好きな時に使うのです。今晩はかがみさちこですを真似るんです、小バカにしながら。その声が上手く出せればその声で桃太郎をそらんじるのです。むかしむかしおじいさんとおばあさんが、かがみさちこです。 立松和平の物真似をしていますか。私はしたことありますよ。さっきから登場している全ての有名人を物真似したことがあります。 楽しむものです。カラオケの好き嫌いです。一人歌う分には楽しいというのもあります。朗読に関しては文化なんだから貴方が改革者になるのは大変で物真似として楽しむしかなくそれが嫌ならご当地では他の音訳ボランティアにするしかありません。他のグループとか。 こうした批判精神は有益です。差別反対キチがイは障がいを無くすと言いながら貴方の発音を差別しているのです。つまり差別反対の前提が偽善であり厚化粧なのです。 前のご質問から私も指摘していますがンガではありません。中間音というのはそうだと思います。ガの発音が発音しにくくて嫌だからンを濁点ガわりにするのです。ンの発音ではなくンを発音するように鼻を詰めてンを発音せずカ行を発音しガ行として聞き取るのです。質問者さんはその聞き取りが出来ているがその発音をなさらないからという展開です。 これまた前から指摘していますが、関西発音との違いはガの一音ではないのです。だからガの前の音からのつながりがおかしく聞こえて貴方は鼻濁音が足りないと評価され行き着くところナメクジ音なら文句ないやろなのです。音のつながりで行鼻音が判定されていると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >日本は偽善的でいわば厚化粧文化なのです。 >江戸文化は華美を好まない野暮ったさが味だったように感じます これなら私に合いますね。華美が大嫌いで、野暮ったいのが好きですから。 しっかりと、目を背けず批判が出来る人は少ないので、貴方の見方は貴重だと思います。 絶大な人気があって、日本と日本文化を代表すると思われているが、実は偽善の仮面を被っている人をご存知ですか? 厚化粧をして正体を隠しています。 歌手の中島みゆきと作家の村上春樹です。中島みゆきに関しては以前私が出した質問に突っかかって来た人がいます。 ヒマがあれば読んで下さい。長いですよ。 →http://okwave.jp/qa/q5499798_3.html?by=datetime&order=ASC#answer 村上春樹ですが、実は彼の本は一冊も読んでいません。 彼のエルサレムでのイスラエル賞受賞演説を聞いて、彼の正体が分かり反吐が出ました。政治家以下の品性下劣な顔をしています。彼はノーベル賞が欲しくてたまらないのです。 ここでのお礼に相応しい内容ではないので、ここまでにしておきますが、厚化粧日本人の代表として注意しておられたら生きる上での参考になるでしょう。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
No.3です。一つ書き忘れていたことがありました。 質問者様はシャンソンをお聴きになったことがありますか? シャンソンは別な表現をすれば「詩を唄う」とも呼ばれ、シャンソニエの中にはイブ・モンタンの様に「手で唄う」などの形容をされる歌い手もいるほどです。 彼等は感情や情感などの表現をしません。1曲の中でドラマを演じるだけとコメントするだけの素っ気ない話です。 「感情を出す」「情感豊かに」などでは何も伝えることなどできないのは、浄瑠璃やオペラでも同じです。ドン・ジョバンニの終幕で、墓場から蘇った司令官が「もし感情を込めて歌ったら」どうなるでしょう。 あれは重層低音の様に低く響くから効果的な場面です。それを鶏が首を絞められたような甲高い声で歌ったら、それこそ爆笑の渦に包まれてしまいます。 感情豊かに、などはその程度の話でしかありません。その場面をどう語るかとの「光景を想像し、言葉に乗せる」ことが大切ではありませんか?
お礼
再度の回答ありがとうございます。 「感情豊かに」というのは広い意味で使っております。悲痛な場面では、人は何も喋れない。これも重苦しい感情を豊かに表現しているのだと思います。 余りシャンソンは聴いてないのですが、エンリコマシアスの歌だけが例外的に大好きでした。1~2曲聴いて感動しなければ無視しますから、何も知りません。一曲聴いて感動したら他の曲をどんどん聞いて行きますから、マシアスだけはかなり聴きました。彼の歌には哀愁がこもっているので感動しました。 >彼等は感情や情感などの表現をしません。 貴方の言うシャンソンの良さが分かりません。私は感情表現をたっぷりする、昔のフラメンコが大好きです。 こう言っては失礼かも知れませんが、非常に上手な朗読をされる方たちですが、場面に合わせて非常に感情豊かに読まれますが、どうも、浪花節の語り口と重なってしまうのです。 無声音を多用したり、緩急つけたり、丸で歌っているように読まれます。感動的に読んでやろうというある種の下心を感じるのです。いや、絶対にあるはずです、浪曲家のように。 渥美清や立松和平の語り口には、そういう意図的なものを感じないのです。洗練された喋り方ではないが、「味」を感じるのです。この「味」の正体が何なのか、それは、彼らの人生に対する姿勢なのかも知れません。彼らの語り口に身を委ねていると、彼らの生き方、風貌が浮かび上がって来ます。 加賀美幸子さんは実際の顔や姿を知ってしまっていますが、もし知らなかったとして、彼女の朗読を聴いただけで、彼女の人生観や風貌が浮かび上がって来るでしょうか?多分来ないと思います。 ま、私の求めている「味」は朗読からすれば、邪道なのかも知れませんが・・・
- Postizos
- ベストアンサー率52% (1786/3423)
これはむずかしいですね。 「感情を表わす」だとかは、意識してしまうとやり過ぎていやらしい感じになる可能性大ですね。 “朗”読というぐらいですからまずは良い声を出して音楽として聴かせることではないでしょうか。朗読のうまい国語の先生が居ましたが、今おぼえているのは体が小さかったのに良く響く、歌のような声であったことです。特に詩とか短歌の場合はこれだと思います。 それと何を言っているのかはっきりわかることも必要ですよね。元の文章はリズムを持っていますからそれは崩さない方が良いと思います。(演劇などでわざとものすごいスピードでセリフを言うという手法もありますが) ただし、「朗読」ばかりが読み聞かせる方法ではないとも思います。 内容に合った発声だとかスタイルもあるのではないでしょうか。 日吉ミミをあらためて聞いてみましたが、日本民謡の地声の発声法で、良くとおる声で高音が特徴的ではある物の、歌唱は決して退廃的ではないですね。退廃的な印象は歌詞や曲調による演出だと思います。 渥美清も歌であってもセリフであっても常に「渥美清」であって変わらないタイプだったと思います。持ち味みたいな物には逆らってはいけないのでしょうね。自分の持ち味を生かす題材を見つけるのが大事なのでは。 森繁の朗読はかなり聴いた憶えがあるのですが、後年はいやらしい感じの物もけっこうあったと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね。朗読の音楽性も無視できない要素ですね。 >内容に合った発声だとかスタイルもあるのではないでしょうか。 こういうことは、有名な朗読家はやってるのでしょうかね? 日吉ミミが何故ああいう歌い方をしているかについての、裏話をドキュメンタリーか何かで聞いたことがあるのですが、 何度歌ってもOKが出ず、ふてくされてしまって、どうにでもなれっていう気持ちで歌ったら「それがいい!」とOKになったそうです。退廃的というより、投げやりな気持ちです。 「カスバの女」という歌を色んな女性歌手が歌っていますが、誰が一番退廃的に歌っているでしょうか?実際に自分の心に退廃的な気分を十分に持って歌った歌手が、一番人々を感動させたハズです。
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お礼
>奥さんはトレーニングを積んだのですか。 リンク先読まれなかったですか? 17才まで両親の暴力虐待を受け続けたのです。親戚も隣人も誰一人助けてくれる者がいなかったとのこと。家に出入りする人が、親と同じく残酷な人か、それとも多少は自分の味方をしてくれる優しい人かを、常に伺っていたと言います。喋らずにちらった一瞥するだけで分かるようになったと言います。生きるために必要だったということでしょう。 >顔つきで人間を判断できますか?など再質問された方が前進するでしょう。 これはもう質問するまでもなく答えは分かっているんです。 普通の人は出来ないのです。私の妻とその特訓を受けた私や娘だけが例外的に出来るのです。こう書くとまた、そうじゃない、という人が出て来るのも分かっているのです。 「持ち味」という言葉もあるように、「味」を人工的に創り出すという私のような発想をする人はどうもいないようだし、考えもしないようですね。今回の質問に対する回答でそれが分かったような気がします。 貴方の言われたように、先ず「真似る」こと。その中から味が出て来るかも、というのが結論のようです。 私が優等生の声を嫌い、偏頗な声に引き付けられるのは、どうも私の過去からのコンプレックスに基因するようです。 若い頃です。私の撮った多数の写真をある友人に見せたことがあります。友人曰く「アンタらしい写真だね」と。実はこれは侮辱の言葉なんです。「皆、ソツのない写真だね。クセのない優等生的な写真だね。ユニークさも味もないね」という意味であることは、日頃の彼との付き合いから直ぐ分かりました。 だから、音訳朗読を進めて行っても、俺が俺らしくなったら、只、声量があって発音がきれいなだけで、味もユニークさもない朗読者なるんだろうなあ、という嫌な予感があるのです。 声量を落として読むと、「いきいきした気分」がなくなって、つまり、気分が滅入って来ますね。 音訳を始めたのは、前にも言いましたように、あくまで視覚障害者に奉仕するため。始めてみると、何事にも拘りが強いほうなので、同じ読むなら味のある読み方ができないものかと、模索を始めたわけです。 まだ、書き込まれますか?次回に質問を閉じましょうかね?