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朗読に味を出す方法とは?
- 朗読の専門家ではない、あの「男はつらいよ」の渥美清さんや森繁久弥さんの朗読は、独特な味があります。感情豊かに表現するだけでなく、ユニークな読み方でも味を出すことができます。
- 例えば、昔の流行歌手である日吉ミミの投げやりな歌い方が人気を博しました。同様に、朗読でも独自のスタイルや読み方を取り入れることで、魅力的な味を作り出せる可能性があります。
- ただし、味のある朗読をするためには、個性を大切にしつつも、聴衆の感情やテーマに合わせた読み方をすることも重要です。感情豊かに表現するだけでなく、テクニックや練習にも時間をかけることで、より味わい深い朗読を実現することができます。
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質問者が選んだベストアンサー
奥さんはトレーニングを積んだのですか。 ご要望が少しづつ分かってきました。音訳図書館のせいもありますがご要望にとって初対面で声がいいですねはダメですね。おっしゃるようにはっきりしているという意味です。それこそ声量問題になります。カラオケで声楽みたくなる人ですか。 これは難しいかも。性格習慣みたいなところでしょう。無理っぽい気がします。つまり性格が声に出ているのでしょう、ご夫婦でその調子で。普段は関西弁ですか? 鼻濁音問題もうなずけます。 ご性格的にはご質問本題の正解は無理、じゃないですか。 ご自分の声に自信があるから今回の音訳ボランティアなわけですか?録音だし読書だから声量は要りませんからね。録音じゃなくてライヴで聞かせるの? 顔つきで人間を判断できますか?など再質問された方が前進するでしょう。そうした貴方の性格生活的な情報を過去投稿でもいいから伴わせて、私は声がはっきりしている、○○と言われたりしますが、味のある声を出したいです、という再質問ですね。朗読とは違う議論にした方がいいのではありませんか。味味では見当もつかず回答者は困りますから具体性のある質問で。カテゴリは他にも色々あります。ともかく貴方の性格的な情報を先に知らせないとかみあわないやりとりになります。 そのまんまを味でいいんじゃないの。声量のある人なら試行錯誤の一案として声量を落とす。シナトラよりペリーコモ。
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- TANUHACHI
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こんばんは、少しばかり学校に関わっている者です。 「朗読」の話を少し別な側面からとらえるなら、「読み聞かせ」に置き換えることもできますので、こうした切り口からお話ししてみます。 昨年の文科省全国学力調査、中学校の国語Bで類似する設問がありました。新美南吉さんの『二匹の蛙』という小篇を中学生が小学生に「読み聞かせする」との設定で、ある台詞をとりだして、それを「どの様に読むか、その工夫と理由」を説明して下さいとの設問でした。 ここにある「工夫の仕方」がご質問の「味」と類する要素であると僕は考えます。出題作品の趣旨は、二匹の蛙が冬も近いある日に畑の真ん中でパッタリと出会い、緑色の蛙が黄色の蛙を揶揄し、ケンカになってしまう。そしてケンカの最中に冬の訪れを知らせる風が吹いてくると「この続きは冬眠から目覚めたらにしよう」と緑の蛙が宣言し、一方の黄色い蛙は「その言葉を忘れるな」と釘を刺します。そして春になり冬眠から目覚めた両者はケンカの続きを始めようとするが、その前に身体に着いた泥を落とそうと、黄色の蛙は緑の蛙を池の畔へと誘い、水の中に飛び込む。 そして綺麗に泥を落とした互いの姿を見て、肌の色などのつまらないことで仲違いしたことなど忘れ仲直りする、との筋立てです。 この中で冒頭にある「やぁ、きみは黄色だね、汚い色だ」の部分と結末の「やぁ、きみは黄色だね。美しい!」の間にある気持ちの移り様をどう表現するかが課題です。 制限字数もありますので、工夫として必要な要素を挙げますと (1)「やぁ」で一拍おき、後の部分を勢いよく読む (2)「美しい!」の部分を語尾を上げることで感動しているかのように読む。 などがあります。 そしてこの時に注意する部分として「気持ちを込めて」「感情を込めて」などの表記は、加点要素から外れてもいました。なぜかって? この二つには具体性がないからです。 質問者様が引用に挙げられている森繁久弥さんは舞台でも、一つの台詞をゆっくりと読むことで知られていた方で、それが時として登場人物が独り語りする様にもなり、こちら側から「聞いてくれ」などとはいわない飄々とした語りがけの様にもきこえます。渥美清さんのしゃべりは逆にテンポの良い下町の江戸言葉を彷彿とさせる要素も感じられ、それぞれに「芝居を演じる役者」ならではの身に染みついた要素ではないでしょうか、それも「リズムやテンポ」といった、実際に耳に聞こえる形で。 もし僕が「この人ならではの読み方ができる人」を選べといわれるのであれば、市原悦子さんや樹木希林さんそしてミュージシャンの中島みゆきさんなどを選びます。アナウンサーならば元NHKの加賀美幸子さんでしょう。群を抜く存在です。更に挙げるなら、ラジオ出身の北野武さんや森本レオさん、舞台出身の古谷一行さんもその中に入ってくるでしょう。 一つの台詞や文をどう読むか、によって作品に生命を吹き込むこともできれば、作品を台無しにしてしまうこともあります。 今のアナウンサーには「読む能力」は優れていても、「言葉を伝える」方が余りいらっしゃらないことを僕も残念に感じています。
お礼
回答ありがとうございます。 (1)「やぁ」で一拍おき、後の部分を勢いよく読む (2)「美しい!」の部分を語尾を上げることで感動しているかのように読む。 朗読技術だけ磨けば「味」が出て来るでしょうか? 自分が感じているものが、何なのか、まだよく分かっていません。
- priscreen
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真似です。選ばずに芸達者になるのが先です。九官鳥みたいに片っ端真似するのです。すると自分で好み声が出せます。自然に貴方に最適な甘い声になります。そして地声も変わってきます。関西人も関東人も口と耳は同じですから親の真似なんです。 男なら三船や仲代の物真似をしてもいいのです。威嚇する時に最適な声が出せるようになります。いい声を無理に出している声優はいないでしょう。楽に出せるんです。 貴方のおかゲで鼻濁音問題は気になっているので椿三十郎を見直しましたが予想以上の鼻濁音でした。虎のような侍を演じる二人の役者の発音を気持ち悪いと思われるのですか。私は意識して聞きましたからこれは聞き取りづらいはと気が付きました。結局、普段は、ガの音を追っかけていないのですね。 繰り返しますがンガという感じではありません。そこを勘違いというか調節できないのでは。鼻を詰めるのを先にしてガというのです。ンは存在しません。gが弱くなりnになるのです。貴方は絡んだタンを吐き出す時のようにgの準備をするからですよ。喉をガラガラさせないのです。そして詰めた鼻は開いて発音します。詰めたままだと鼻声です。先に詰めとくだけで音を出すときには詰まっていないのです。だから、前の音がある場合は前の音の出し終わりを詰める事で終える流れです。カガミはカァガァミィちゃうねん。最初のカで鼻を詰めてカで切るのです。貴方はカァちゃうの。ガの前のカァから違うのですよ。カァンガァミィでは気持ち悪い。カッガミに近いです。 マンガや(古い)映画の真似がいいと思います。映画では鼻濁音でもンガにまでなっていませんよね。マンガも映画も鼻濁音が多いんじゃないの。 朗読はするものであって真似る物にはなりません。有名な台詞を真似して覚えるのが芸事の基本です。
お礼
回答ありがとうございます。 「朗読」は自己表現であり芸術である。その芸術を鑑賞するのが視聴者である。朗読者が主役である。音訳は視覚障害者の代わりに文字を音声化するのが仕事である。どう感じるかは視覚障害者が決めることで、音訳者は極力主観を廃し、感情投入も避けなければならない。視覚障害者が主役である。と教えられます。 ということなら、話は簡単なんです。全ての文章を、感情を交えず、役所の広報を読むように読めばいいわけですから。 ところが、それではいけないと言うんです。1本調子ではいけないと。場面々々に合った読み方をしないといけないと。 子供や女性の声は高目で柔らかくとか・・・それでは一体、朗読とどこが違うんだい!?と怒りたくなります。 それなら、最初の建前なんかを説教するなと言いたくなりますよ。 まあ、朗読みたいに、余り感情投入するな、ちょっとだけしろ、ということかも知れません。 だから、音訳といえども、実際はある程度の感情投入、朗読的な読み方は許されているのです。 で、貴方の体験から言えることは「真似る」ことなんですね。「自然に貴方に最適な甘い声になります」とのことですが、こうなるまでには大分に年数がかかるでしょうね? しかし、ある時には三船で読んだり、ある時には渥美で読んだり、色々な読み方をする、一人で複数の読み方をするなんてことは出来ないのでしょうかね? また、気分を変えて読む、なんてのは出来るでしょうか? ある時は、人生を達観した仙人のような気分で読み、別の時には、渥美清のように軽快な気分で読む。気分を変えたら随分読み方が変わって来ると思いますがね。 誰もやってないようなので、実験してみようかと思います。 黒澤の椿三十郎は観てませんが、7人の侍と羅生門は観ました。無骨な侍たちが出て来ますが、鼻濁音は全く感じませんでしたね。 多分、鼻濁音といっても「んが~(NGA~)」ではなく、実際は「が(GA)」と「NGA~」との中間音なんではありませんか? それが濁音圏の人間には、濁音に聞こえるということ。聞こえるから違和感を感じない。 YouTubeでやってた「美しい日本語を話す教室」などでは、殊更に鼻濁音を強調して発音するので、ナメクジに聞こえてしまうのでしょう。あんな鼻濁音なら要りません。
- kyo-mogu
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私は桑島法子さんの宮澤賢治作品の朗読が好きなのですが、基本的にその作品が好きであることが多いかな。 役者独特の演技とテンポが有る場合と、アナウンサー独自のしゃべり方と。基本的に語りかける事もあるかと。 ちなみに桑島さんは声優の方で、銀河鉄道の夜を一人で演じ分ける事も。生まれ育った故郷ということもあり、風景なども分かっているのです。その情景を伝えようという感じがあります。 昔はラジオで朗読作品も結構多くありました。それぞれ独特の持ち味がありますね。NHKのアーカイブに色々有るようですが。 今はCDで提供されていますが、声優さんの朗読作品も多くあります。 朗読ではないですが、ナレーションも同じように味がありますね。その人が持っているテンポが味を生み出していると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 初めて桑島法子さんの朗読を聞きました。YouTubeで「雨にも負けず」を聞きました。 他には全く聞いてないのでまだ、断定は禁物ですが、これを聞いた限りでは、感動しませんでした。立松和平あたりが朗読したほうがずっと味が出るのではないかと感じました。 全然味の無い朗読者もいますよね。これは生来の才能があるかないかの違いなんでしょうかね? いくら頑張っても、味が出ないということも考えられるのでしょうか?
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お礼
>奥さんはトレーニングを積んだのですか。 リンク先読まれなかったですか? 17才まで両親の暴力虐待を受け続けたのです。親戚も隣人も誰一人助けてくれる者がいなかったとのこと。家に出入りする人が、親と同じく残酷な人か、それとも多少は自分の味方をしてくれる優しい人かを、常に伺っていたと言います。喋らずにちらった一瞥するだけで分かるようになったと言います。生きるために必要だったということでしょう。 >顔つきで人間を判断できますか?など再質問された方が前進するでしょう。 これはもう質問するまでもなく答えは分かっているんです。 普通の人は出来ないのです。私の妻とその特訓を受けた私や娘だけが例外的に出来るのです。こう書くとまた、そうじゃない、という人が出て来るのも分かっているのです。 「持ち味」という言葉もあるように、「味」を人工的に創り出すという私のような発想をする人はどうもいないようだし、考えもしないようですね。今回の質問に対する回答でそれが分かったような気がします。 貴方の言われたように、先ず「真似る」こと。その中から味が出て来るかも、というのが結論のようです。 私が優等生の声を嫌い、偏頗な声に引き付けられるのは、どうも私の過去からのコンプレックスに基因するようです。 若い頃です。私の撮った多数の写真をある友人に見せたことがあります。友人曰く「アンタらしい写真だね」と。実はこれは侮辱の言葉なんです。「皆、ソツのない写真だね。クセのない優等生的な写真だね。ユニークさも味もないね」という意味であることは、日頃の彼との付き合いから直ぐ分かりました。 だから、音訳朗読を進めて行っても、俺が俺らしくなったら、只、声量があって発音がきれいなだけで、味もユニークさもない朗読者なるんだろうなあ、という嫌な予感があるのです。 声量を落として読むと、「いきいきした気分」がなくなって、つまり、気分が滅入って来ますね。 音訳を始めたのは、前にも言いましたように、あくまで視覚障害者に奉仕するため。始めてみると、何事にも拘りが強いほうなので、同じ読むなら味のある読み方ができないものかと、模索を始めたわけです。 まだ、書き込まれますか?次回に質問を閉じましょうかね?