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仏陀の思想について
レポートの参考にしたいので、仏陀の思想について記述をお願いします。
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- kurinal
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こんにちは。 「「~あれ!」と思うから、苦しい」 そういうことだと思います。
- abc2008
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ブッダの思想というか、なぜ仏教というものを説き興したのかといえば、仏教とは本来、誰をも幸福にするために説かれたものですが、それで、その真意とは極めて簡単なことであり、それは誰の中にもすばらしく価値ある存在、能力があり、それを活用しさえすれば、誰でも大いなる幸福を満喫することができるというもので、このことを万民に教えんがためのものが仏教なのですが、結局、その祖師である釈迦がその自身の生命の中にすばらしく卓越した能力があることを見出し、その特性は勇気(何事をも克服する)、希望(未来への確かな展望)、活力(前向きなやる気)等に満ち溢れ、それを発揮さえすれば、現状がたとえ不幸のどん底であっても、たちまちに好転の軌道へと変革できるという、まさに革命的パワーが自身に内在していることを発見し、しかもそれは万人誰もが持ち得るもので、ただ単に人々は、そのことに気付かず、当然、それを使うこともなく不幸に打ちひしがれているだけで、誰にでも元々あるこの素晴らしい存在を示し、その活用方途さえ教えれば、誰も不幸に甘んじることもなくなるだろうと説き教えたものが『法華経』なのです。 ただ、『法華経』をいきなり説いても、当時のように、当然ではありますが、仏教のぶの字もまだない時代においては、いきなり真意である法華経を説いても理解できない状況だったために、一つの方便として種々諸々に様々な比喩や架空の話等を用いて、『いろは』のいの字の初歩的段階から当時の人々に噛んで含ませるように種々に説いて行ったのです。これはちょうど、子供にいきなり大学講義の内容を説いてもチンプンカンプンであり、やはり、堅苦しくないおとぎ話や童話等から始めれば難なく受け入れてもらえるようなものかと思われます。そして、そのように解りやすいものから説いて行き、少しづつ人々の理解度、受け入れる能力を高めるようにしていったのです。これがいわゆる化導という形で、手を変え、品を変えて様々な形で導いて、数十年掛けて仏教の何たるかを民衆の中に浸透させていったのです。 そして、最終的には法華経を説いたのですが、釈迦の本意としては法華経のみを説いて後世へと伝えていきたかったのですが、当然、方便としての経典(華厳経、阿弥陀経、無量寿経、大日経、般若心経等々)類も残ることを見越して、法華経以外は、あくまで方便として一時的に仮に説いたものであるから、それらは決して用いず捨て去るようにと言い残したのですが、後世の人師、論師と呼ばれる者たちが、私見、我見で勝手にどの経典が優れているとか決め付けて、それを拠り所として立宗して、今のような宗派乱立となったのですが、結局は木を見て森を見ずじまいで、仏教の大綱を把握せずにそれらの経典の役割や位置付け等が理解できてなく、ただ単に自己満足や名聞名利で教祖、開祖になって方便教経を世間に広めてしまったのですが、結局、それらの宗派の信者たちにしてみれば、とんだトバッチリであり、本来、仏教徒なら法華経を拠り所としなければならないのに、そのことを知らず、また知らされずに良かれと思って悪因を積む結果になってしまっているのです。 もちろん、各宗派の坊主たちの中にも法華経が最勝最第一であることを知りつつも、生活の糧、あるいは僧侶としての地位名声等に執着して、今更、寝た子を起こすこともなく、その真実を信者たちに語ろうとは決してしないのです。早い話が、万民に内在する大変価値ある存在に気付かせ、それを発揮させる手立てを教えてしまえば、それによって後は信者自らどんどん幸福境涯へと突き進んで行けるようになり、坊主や宗教家の存在意義が喪失してしまうことになるから、その法理法門を理解しがたく難解のままにして、釈迦の真意を明かそうとはしないのです。 結局、釈迦は結果的には膨大な経典を残すことになりましたが、それは説法する相手の機根(きこん=理解度、受け入れる力)に合わせて、種々に説いていった為で、それらの様々な人々も最終的には法華経に至らしめるのですが、つまり、法華経に至らしめるまでに説かれた数々の経典類は、法華経を受け入れさせるための下地作りのためだったということで、法華経以外はすべて法華経へと至らせるために一時的に説いた仮の教えに過ぎず、もし当時の人々の機根がそれなりに高ければ法華経のみ説かれて後世へと伝えられ、現状のような宗派乱立とはならず、小乗大乗とかの宗派間の論争や、単に擬人化した架空の仏である阿弥陀如来や大日如来、何々菩薩、何々観音等を崇めたり、頼ることもなかったかと思われます。つまり、自力本願こそが仏教の本筋なのです。 ともかく、仏教の原点とは、誰もが本来持つすばらしい能力、特性の自己開発の一点に尽きるのであって、その方途を解き明かしたものが法華経であって、では一体、法華経には何が説かれているかと言えば、簡単に言ってしまえば、前述しましたが誰にも内在するすばらしい能力の存在とそのすさまじい価値を示唆し、並びにその開発方途を教えているのです。それで、その根源的な潜在能力を仏教では仏性(仏の生命)とか功徳聚(くどくじゅ=功徳の集まり)とか宝蔵などと呼び、我々の内奥にあるこの仏性を誰もが湧現させてその力を思う存分活用することによって悲嘆が歓喜に、愚鈍が聡明に、臆病が豪気に、ともかく、暗から明へ、マイナスからプラスへとその一個の人間の内部において革命的変革がもたらされるのです。 これはちょうど中世の僧侶や為政者による圧政等に対して、自身の持つ力や権利に目覚めた民衆が蜂起して、権勢を奪取して自由や幸福を手に入れるのに似ています。このような革命が我々の内奥でも起こりうることを釈迦は伝えたかったのです。それによって我々は本来持っているすばらしい価値を見出すのです。 例えば、石油が見つかる以前の中東諸国は、ほとんどが砂漠地帯で目ぼしい産業も無く、細々とした漁業や遊牧、交易等で成り立っていたかと思われますが、その後の油田開発により大いに国は富み、民衆もそれ以前に比べればはるかに幸福境涯になったかと思われます。これも元々持っていたところの埋もれた資源に気付き、それを引っぱり出して活用した結果であり、もし、いまだに気付かないままであったとしたら、その眠れる資源はそのままで、大変に勿体ないこととなり、その国民の豊かさは天地雲泥の差だったでしょう。結局、我々も同じことで本来持っている仏性という眠れる資源に気付かず、手付かずのままでその人生を送り、宝の持ち腐れ状態で終えて大変に勿体ないこととなってしまっているのです。 それで、この点について簡単に誰にでも解り易いようにと『衣裏珠の譬え(えりじゅのたとえ)』や『長者窮子の譬え(ちょうじゃぐうじのたとえ)』で物語風にして残しているのですが、よかったら参照されると良いかと思われます。 ともかくも、釈迦の思いはただ一つであり、すべての者が自身の持つすばらしい力に目覚めて幸福境涯を満喫せよ、ということかと思われます。