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伊達政宗ってどのくらい強かった?
伊達政宗ってどのくらい戦が強かったんでしょうか?
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強いっていうと 1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼) 2:将校団の現場の力 3:個々の兵士の戦場経験値 4:装備 なんてのが必要条件かと思います。 #2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。 20年早く・・・という政宗への評価は確かにありますが、20年遅かったから、政宗は強いという評価が残ったという一面もあります。 条件で出した 1,2に関連するのですが、大阪の陣において大合戦を指揮官として経験した大名は、数少なくなっていました。世代交代で。 実際、関ヶ原体験者で、大阪の陣に参戦したのは 徳川家康 藤堂高虎 上杉景勝 立花宗茂 など数名、しかも高虎は、独立した大名というより、豊臣家の家臣としての大名だったり、宗茂も秀吉にヘッドハンティングされて大名になった・・・独立独歩で負けないで(景勝は負けているし)大名として生き残ったのは、実に家康と政宗だけですね。 実戦経験のない、半分徳川の部下から大名になった連中から見たら、歴戦の政宗は「権現様には敵わないが、つえ~~よなぁ」と 思ったし、実際 大阪の陣でも 激烈でしたね。
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- totan
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回答にならないかもしれませんが、 戦国武将にとっては 合戦が強いということと同等に 治世が上手いということも必須条件でした。 せっかく合戦に勝って領土を拡大しても、 そこから上手に年貢を取り立てることができなければ 何のための勝利であったか分かりません。 また、軍資金(=年貢)が集まらなければ次の苦戦は必至です。 ですから、武将が強いかどうかは、農政をみれば分かる、とも言えると思います。 伊達政宗はよく知りませんが、 名を残した信長、秀吉、家康はその点でも一流の人だったと思います。 前田利家や、二代目利長もそうです。 合戦はともかくとして、農政は加賀に習えと言われたほどの腕前でした。 徳川時代に入っても、大藩が次々と廃されていったのに、前田家は100万石を守り続けています。 この点でも、冷戦の名将と言えるのではないでしょうか。 あ、これは伊達政宗も同じですね。
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ご回答ありがとうございます。 治世の上手さと言えば北条早雲や武田信玄も有名ですね。 伊達政宗も開墾に精を出して仙台藩(実質)100万石の基礎を築いたのですから名将でしょう。
- wildcat
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戦には弱かったから天下人にはなれなかったのです。 (歴史に選ばれなかったということです。) しかし、人間としては強かったから、または運がよかったから生き残れたと思います。 個人的戦闘能力では前頭に上位というところではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます(朝早いですねぇ~)。 戦には弱かったけど人間としては強かったから生き残れたというのは面白い解釈ですね。
- gaow
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天下統一をしたからと言って必ずしも強かったと言われないことが多々あります。伊達政宗が有名なのは東北地方においてもっとも勢力を持ったことに由来します。そして、その最たる例が「人取橋の戦い」にあります。伊達氏は芦名・佐竹・相馬・二階堂の連合軍と東北の支配権をかけて、東北の覇者を決めるといった東北の関が原の戦いのような戦を行います。このとき、伊達8000(8千)に対し敵の連合軍は30000(3万)でした。しかし、政宗は、この激戦を制し、東北の覇者となりその名を残しました。このことからいっても伊達政宗という人物がいかに強かったということがわかるのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 4倍近い敵と戦ったなんてすごいですね。
- shishishishi
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伊達政宗はもちろん強いです。 どのくらい強いかという質問の直接の答えにはなりませんが、ではなぜ、その強い正宗が天下人になれなかったのかについての答えではいかがでしょう? 政宗が伊達家の頭領となったのは十八歳のときです。 この頃、中央では秀吉が柴田勝家を賤ヶ岳に破り、日本で覇権を確立していました。つまり、すでに戦国の動乱はほぼ沈静化し、全国統一に向かって歩みを始めたところでした。 政宗にとってこれが最大の不運であったと思います。 奥羽(東北地方)はまだ動乱期の只中であったので、この地方だけで考えるならそこの王者になることも、政宗の能力からすれば可能だったでしょう。しかし日本人は古来より、日本国内にそのような完全独立国を認めるほど寛容ではありません。かつて平将門の立てた東国独立国家も、平泉の藤原秀衡らの奥州国家も、共に中央政権によって攻め滅ぼされています。 伊達家を継いだ政宗が、畠山氏、二階堂氏らを倒し、芦名氏や佐竹氏を圧し、大崎氏を攻め、相馬氏の領内に押し出すというように、激しく領地を拡大し、勢力を伸ばし始めると、全国平定を進める秀吉はさっそく奥羽地方の「惣無事令」を発し、政宗らのこれ以上の戦闘を禁止することによって、彼の出鼻をくじきました。 しかしまだまだ動乱の地にあって、戦いに明け暮れていた政宗ら奥羽地方の大名たちにとっては、中央での秀吉の覇権確立の動きは、情報として伝わってはいましたが、その実態は実感として理解できるほどではなかったようです。したがって、まもなく秀吉が小田原征伐の兵を起こし、奥羽の諸大名に参陣を命じたときなども、秀吉の力を侮り、命に服しない小大名たちがかなりおり、彼らはみなその後、領地を没収されて取り潰しにあっています。 この時は、政宗もしばらく戦況をうかがっていたようですが、秀吉ならびに秀吉政権の強大さが次々と伝わってくるに及んで、目を開かれた政宗は、すぐさま小田原に急行しました。そこで政宗が見たものは、20万人以上の大軍団と、居並ぶ諸大名を従えて君臨する秀吉の姿でした。 もはや秀吉の力には抗すべきもなしと覚った政宗は、以後、隠忍自重の生活に入ります。とはいっても、本当におとなしくなったのではありません。戦国の世に育った政宗には、とてもこのまま戦乱が収まり、安定してしまうなどとは思えなかったのでしょう。とてつもない強大な奴が現れたから、ひとまずここは恭順の意を表したが、いずれチャンスがあれば・・・・、という気持ちだったろうと思われます。 だから、大崎、葛西地区に一揆が起これば、ひそかにこれをバックアップしたり、周辺の小大名と小競り合いをしたりと、じっとしてはいませんでした。 しかし、このような政宗の動きは、いずれも秀吉の知るところとなり、何度か伊達家滅亡の危機にさらされました。しかし、政宗も才気煥発、たとえば白装束、つまり死に装束に金張りのはりつけ柱を押し立てて、詫びるために秀吉の前に乗り込むなど、豪傑好みの秀吉の性格をたくみに突いだ演出で何とか難を逃れたのは有名な話ですね。 正宗の機知を称える話ではありますが、政宗はこんな演技までしなければならない我が身の不運をおそらく嘆いていたのではないでしょうか。あと20年早く生まれていれば天下を取れたという悔しさでいっぱいだったかもしれません。
お礼
詳細なご回答ありがとうございました。 「あと20年早く生まれていれば」ってところが現代人の想像力をかきたてる彼の魅力の一つなんでしょうね。
お礼
詳細なご回答ありがとうございます。 なるほど。近畿の軍のほうが装備が進んでいたと。。。