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伊達政宗について教えて下さい。

伊達政宗について教えて下さい。 慶長の役に出兵はしていたのでしょうか? 出兵していたら何人の兵と家臣は誰が行ったのか? 陣を何処に張ったのか? 分かる範囲で結構です。よろしくお願いします。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家です。 >>慶長の役に出兵はしていたのでしょうか?出兵していたら何人の兵と家臣は誰が行ったのか? 陣を何処に張ったのか? 回答から先に述べますと、 「慶長の役」には、正宗は出陣していません。 それ以前の「文禄の役」には出陣しています。 すでにお調べとは思いますが、「文禄の役」について述べてみます。 (1)文禄元年(1592)1月5日、伊達政宗に朝鮮出兵の命が下さた。秀吉からは500の兵で良い、と言われていたが3000人の軍勢を従えて陸奥の居城岩出山城を出立し、まずは、京都の伊達屋敷に入る。 (2)同年3月、京都の伊達屋敷を出立。この時、自らの馬には豹の毛皮の鞍を付け、兵士たちには具足の前後には、金の星といういでたちで、濃い紫の地に金の日の丸をあしらった幟を30本を掲げていた。続く鉄砲隊、弓隊、槍隊の足軽は全員朱塗りの太刀に銀箔の脇差頭、そして、金のトンガリ笠。騎馬揃えは30騎、いずれも黒鎧で、兜は金に輝く、と派手な隊列であったため、京都の人々のド肝をぬき、一躍有名となる。肥前の名護屋城に入る。肥前名護屋に入ったのは1500人。京都の留守部隊1500人と言われている。 (3)その頃、3月12日には、第一陣が釜山浦に入港し、13日釜山鎮城を攻め落とす。伊達政宗は、後続留守部隊として名護屋城で待機する。 (4)文禄2年(1593)3月、伊達政宗、第三陣として出撃命令で名護屋城から出陣。 しかし、伊達政宗が渡海した時には、日本水軍は李舜臣の朝鮮水軍によって敗れ、制海権を奪われ、政宗自身が船に事欠く状況でした。政宗は釜山に上陸して蔚山に進み、この後、梁山に駐屯していますが、秀吉は政宗を晋州城攻撃に参加させています。釜山と漢城の間の「つなぎの城」だった梁山も、日本軍が漢城から南下せざるをえなかったために、その意味がなくなり、梁山にいた政宗も晋州城攻撃に加わらせた。それだけ、戦いが泥沼化していた証拠だというわけです。 政宗は秀吉から兵糧を支給されるはずでしたが、浅野長政の兵站がうまくいかず、結局自分で調達せざるをえませんでした。政宗が後に浅野長政と不和になった原因は、この問題も要因の一つであったと言われています。 7月から伊達政宗が取り掛かった倭城築城は、金海竹島倭城だったと推定されています。この城は鍋島直茂が普請を担当していましたが、政宗も石垣普請に参加していたと述べています。政宗が帰国したのは9月であり半年の渡海でしたが、帰国命令が下りたのは、和議の条件が秀吉側から示され、日本軍は釜山周辺の倭城に守備兵を残して後は日本に戻るようにとの指示が出たからでした。 (5)随行した重臣は、詳細は分かりかねますが、常に正宗と行動を共にし、一番の信頼のあった伊達成実 (しげざね・ 藤五郎)伊達の獅子と称される伊達軍団最強の武将 。片倉景網(小十朗)常に大局を読み取る伊達家の名参謀。原田宗時(左馬助・重実)景網と並び、伊達家の中心人物であったと考えられます。 (6)4年後の「慶長の役」(1597~1598)では、正宗は、陸奥から連れてきていた3000人と共に、京都留守部隊で京都に駐在していました。

DATEYUKI
質問者

お礼

御返事が遅くなってすみませんでした。 凄くわかりやすくて、詳しい内容でした。調べ方が悪かったのか、ここまで詳しくは分からなかったので助かりました。 ありがとうございます!