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神棚に「天照皇大神宮」を中心に納めるは何故ですか?

神棚の「天照皇大神宮」を中心に納めるのが何時代に始り、その理由が何か教えて下さい。 神社庁の祀り方説明では、三社造りは真ん中に、一社造りは手前にと説明が有りますが。八百万の神の中で、これをNo.1に納める理由を教えてください

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  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.4

実は大昔から天照大神を祀る風習があったわけではありません。それぞれの神社がそれぞれの祭神の大麻を配布していました。 その中で「御師」という人々が伊勢の大麻を持って日本中を巡り、伊勢講(神宮に詣でる会員のようなもの)の人々にお祓いと大麻を授けて廻っていました。この頃はまだ伊勢が総鎮守という認識は余りなかった筈ですが、やはりご祭神ですから伊勢講の数はかなり多かったと思います。 明治になり、国が神社を管理するようになると御師という制度は政令で廃止させられます。コレに対し、明治天皇は各神社に神宮大麻を配布させようとご提案になったのです。(という事になっていますけど、実は神宮の方から配布させてくれと新税されたのが事実) コレにより神宮大麻を各地の神社を通じてその氏子に配布する制度が出来上がりました。(明治4年12月) その後明治政府は神道による教務(簡単に言えば情操教育)を辞め、その際に教義を持っている神道の多くが国の手を離れたので、現在これらが神宮大麻を配布しているかはわかりません。 天照大神は高天原を治める神です。そして葦原中国を収めるのはニニギノミコトの子孫でもある天皇です。 立憲君主制というのをご存知でしょうか?「君主は君臨すれども統治せず」という英国の国の仕組みですね。そして日本もコレに倣い立憲君主制になりました。 しかし実はこの原型といえるのが天照大神と天皇、そして天皇を大国主命の間に築かれていたのです。 つまりアマテラスは世界に君臨しますが統治はニニギノミコトに任せた。またニニギノミコトは大国主に対し「天孫が葦原中国を君臨し大国主が統治するという構図を造ったのです。 なので恩師制度も当初は出雲派と神宮派に分かれて権力争いをしました。しかし出雲大社が国の管理を外れたことで神宮大麻だけが配布されるようになったのです。 そしてアマテラスは世界に君臨することから天照大神を真ん中に祀るようになりました。 実は神宮大麻を前にするか後にするかは両方ともあったのです。どうして前になったかのいきさつは私には判りません。 例えば偉い人は後からやってきますよね、普通。大名行列だってそうです。天孫降臨のときもまずタケミカヅチを降ろして交渉させましたし、実際に降りてくるときもサルタヒコが先達です。 そう考えれば一番偉いアマテラスは当然最後だっていいはずです。 しかしなぜか神社本庁は天照を先頭に持ってきた。そう決めたのだからそうなんだとしか言いようがありません。 最初のほうで申し上げたように神道は神社本庁が統括する神社神道だけではありません。それ以外の神道も幾つもあります。教派神道だけでも13を数えます。従ってそれぞれの神道にはそれぞれの祀り方があるかもしれません。 神社本庁は明治時代の流れから神宮を占有しているような形になっていますが、規模は大きいですが、あくまでも一宗教法人に過ぎません。よって神社本庁=神道と考えるのは間違いです。

8ye
質問者

お礼

有難うございました。

  • chiha2525
  • ベストアンサー率10% (245/2384)
回答No.3

すこし泥くさい話としては、wikipediaの天照大神の近代の節 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E#E8.BF.91.E4.BB.A3 に面白い話があります。 もちろんwikiの神棚も参照ください。 よく天照は皇祖神だからという説明があるが、それなら伊邪那岐がなどという話になる。どちらかというと太陽神として身近な存在だったというところが大きいのだと私は思います。

8ye
質問者

お礼

有難うございました。

  • PopoAmin
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回答No.2

「天照皇大神宮というのは伊勢神宮の内宮のことです。 ここには三種の神器の一つである八咫鏡が安置され、 天照大御神(アマテラスオオミカミ)が祀られています。 この天照大御神は天皇家の祖神であり日本国の総氏神になります。 つまり一番偉い神様ですね。 天照大御神の孫が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、 この神が高天原から天下り 豊芦原の瑞穂の国である日本を治めることになりました。 その曾孫が神武天皇です。 伊勢神宮がいつごろか祀られているのかと言うと 天武天皇14年(685年)から式年遷宮が始まっているので、 それ以前であることは間違いないようです。 日本書紀では雄略天皇の22年に伊勢の地に移したとされていますが 雄略天皇は「宋書 夷蛮伝」に記述されている倭王「武」に比定する説があります。 宋書の記載は477年なので雄略天皇22年は5世紀末になります つまりその頃には皇室の祖先神として伊勢に祀られていた可能性はあります。 天皇家の祖先神ですから当然貴族階級には信仰されていたはずですが 伊勢信仰が庶民にも広まったのはもっと後と思います。 伊勢のお札を配り歩く伊勢の御師(おんし)が鎌倉時代以降活躍を始めてからでしょう。 総氏神として神棚の中央に納められるようになったのもその頃ではないでしょうか? 神仏習合による本地垂迹説が鎌倉時代以降大流行していますが その説によれば天照大御神は大日如来の化身となります 大日如来はキリスト教が伝来したとき唯一神を大日と訳したように仏の中では 最も中心的存在ですから天照大御神もまた神々の中で中心的存在とみなされた 可能性は高いと思われます。 とにかく江戸時代には何度も伊勢参りが大流行していますから、 江戸時代にはもう総氏神の地位は確立していたようです。

8ye
質問者

お礼

有難うございました。

回答No.1

そりゃ日本人にとっての神様の頂点は天照大神だからです

8ye
質問者

お礼

御回答、有難うございます。ところで、下記はどう思われますか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1053733360

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