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自己主張ってそんなにわるいことですか?
1. 自己主張でない自己表現は ありますか? 2. 自己表現して生きる人間は 自己の利益を求めてのほかに どういう目的や場合がありますか? 3. 自己表現は 自己顕示欲を満たすことと関係ない場合がありますか? 4. 自己を思惟や行為の中心におくのではない――つまりその意味で自己中心的ではない――自己表現はありますか? 5. いちど問いましたが では 利他って何ですか? 6. 自己中で利己的で自己顕示欲をともなうのではない自己表現が 《社会貢献》を成すことがありますか? 7. 《社会貢献》を目指す自己表現が 自己主張を持たないということはあり得ますか?
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お礼
にゃん_にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 《利他》というなら その内容をそのように判定するのは 自己ないしその主観である。 ★ 自分とは超越したところには、利他は存しないと考えられます。 《社会的利益、社会貢献》という場合にも 同じくだというご見解。 そして ★ もし、”客観”なるものが存在するならば、その存在を証明をすべきかと考えます。何分、ここは哲学カテですので。 これで 議論は足りていると思います。議論は終わっていると思います。 (というよりも このような主題が議論を経なければならないというのが おかしな話だったのだと思います。でも しておかなければならないと思いました)。 マザー・テレサの場合が 問題として残りましょうか。 ★ ~~~~~~~ > 3. 自己表現は 自己顕示欲を満たすことと関係ない場合がありますか? ↓↓↓ マザーテレサの場合は少々異なるかもしれませんが、ですが、彼女自身も主張は持っていました。これが自己顕示欲かどうかは判断しかねますが・・・ この資本主義に身を置く以上は、ほぼ99%は「自己顕示欲」とは無関係ではないでしょう。 これは、科学のみならず、どの分野でもそうだと思います。 ~~~~~~~~ ☆ 《自己を主張すること》が 自己顕示欲から離れているというのは まづないでしょうね。とにもかくにも《うったえる》のですから。 では 世間の知るところとならず 人びとの福祉のためにはたらいたという場合は どうでしょう。 わたしがここまでで述べて来たことは 贈与や援助を申し出るとき 相手が よろこんでお受けしますと答えたそのとき もうこちらの《利他》を目指したこころざしは消えるということです。 互いの意志行為のまじわるところとなった。それだけのことだという意味です。 そしてもしその結果 一方の側が何らかの利益を受けたとするならば それは 意志行為のマジワリとしては 相互利己の行為として成り立っている。こう捉えます。 すなわち 初めに確認したとおり 《利他》なる志は おのれの主観の内にとどまる。これです。 いかに贈与や援助をおこなうにしても その行為は 双方の意志のマジワリであり互いの自己の主張の受け容れあいである。そのように成り立っている。利他として 成り立つものではない。せいぜい意志による同意を実現させようというのならば それは むしろ利己なる行為である。 結果として 相手側に便益が得られたのであり こちら側に《利他》なる心が 主観としては 持たれている。という恰好である。 マザー・テレサの場合にも まったく同じだと考えますが いかがでしょう。