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境界線には近づくな

境界線はある様でないのが普通ではないでしょうか。 生死の境すら医学の進歩によってあいまいになりました。 思うに現実には境界線というべき境はなく、どこまで行ってもグレーのままではないでしょうか。 長くそのグレーにとどまっていると元の色まで忘れてしまい何でもアリな無節操さがはびこるのでしょう。 ならばあいまいな境界線に近づいて無益に論じ合ったり自己弁護などせず、境界線になるべく遠いところで生活するのがシンプルであり利巧というものではないでしょうか?

みんなの回答

回答No.11

回答No.5、krya1998です。お礼欄を拝読。 質問文から、竹島とかの国境の話と受け取ることもできるでしょうが、哲学のカテであり、境界一般を取り上げていると存じました。 生死も生物と非生物との事項も、そして存在と非存在、更には物質と非物質の境界などもだんだんなくなってきております。 そして創造界の境界は更になくなり、中心等というものは全てが中心となってきております。 しかし人間界の国家権力を正当化する一要素としての武力や国力での決定という国境は曖昧は許容されないことになっています。 そういう中で国境という境界についての論争をしないで、それから遠くにいてシンプルということは生活の選択でしょうが、悧巧でも小賢しくもない、と存じます。 世間の問題の全てにかかわり合うなんてことはそれこそ、愚かなことでしょうが、やはり共に生きる界に居る以上、心の隅のどこかに意識しているべきでしょう。 とりわけ、戦争とか歴史と社会に対して影響して来ているのは国境なんです。 国の要素とは領土領空領海と国民、そして統治権です。 もう一つ境界で重要なのは人と自分との境界です。 これは現象経験世界での関り合いでは、決して認識できないでしょう。つまり共通と同一という反面の個という存在の問題となります。 蛙。実は私もアイコンを変えたくなかったし、快く使用を認諾してくれた果樹園様のURLも残して置きたかった。 しかし、私の投稿のためにつまらぬ迷惑を掛けたくなかったので、当面この羅漢様のアイコンをお借りしました。 いつかは蛙か河童にもどりたいです。 妖気のある河童は困りますね。清水こんとかいう漫画家とか、熊本などは河童が有名ですね。 いろんな河童がいるそうです。私は小さい時、何度か溺れるのを河童に助けられた思い出があります。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >生死も生物と非生物との事項も、そして存在と非存在、更には物質と非物質の境界などもだんだんなくなってきております。 そして創造界の境界は更になくなり、中心等というものは全てが中心となってきております。 >しかし人間界の国家権力を正当化する一要素としての武力や国力での決定という国境は曖昧は許容されないことになっています。 krya1998さんの中でこのこと(自分が日本人であることと、人知を超えた宗教的な生き方)との境界線をどうするのか。 それが一つのお題になりそうですね。 境界線を引くのか、あいまいにするのか、近づかないのか、境界をなくすのか・・・・

  • alphaXXX
  • ベストアンサー率40% (108/264)
回答No.10

>ミソは境界線には近づかないということのメリットを両者が理解するということだと思います。 >政治家と大多数の国民がそのことを理解していればOKなわけです。 これが一番難しいところでしょうね。片方(尖閣問題に関して言えば日本人)はそのことを理解していたとしてももう片方(中国側)にそれを理解させられるかどうか。 日本人には理解しがたい独自の価値観から尖閣問題を明確にすることに彼らなりの意義やメリットを見出しているとすればどうにもなりません。 特にこの件に関しては一般大衆よりも中国政府というトップの側がこだわっているように思いますので日本のように一部の右翼なりなんなりを封殺すれば解決するような問題ではないでしょうし。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私の印象では中国の中央政府は馬鹿ではないと思います。 地方政府は村長、町長の集まりみたいな感じですが。 尖閣問題を何らかの形で利用しているんだろうなとは思いますがいざ領土奪還という風には動かないでしょう。 橋本氏の発言に対してアメリカが釘を刺すあたりは境界線に近づきすぎていることを警告しているんだろうなと思います。

  • alphaXXX
  • ベストアンサー率40% (108/264)
回答No.9

境界をあえて決めない,曖昧なままにしておく,というのが必要だったり,有益な場合は確かに多々あるかと思います。流動的で明確に決めようがないことを無理やりはっきりさせようとして,やむを得ず言葉で明確化した結果,非現実的で不合理だったり不便になることも多々あります。 ただ,そういう曖昧なままにしておくべきことを曖昧なままにするというのはそこに関わる(関わらざるを得ない)人間たちの共通認識(曖昧なままにしておいた方が都合がいい)に頼らざるを得ないかと思います。 そして,必ずしもすべての人間がその共通認識を持っているとは限らないし,逆にその曖昧さを利用することで自分の利益を得ようとする人もいることでしょう。尖閣などの領土問題であれば政府関係者における政治的な利権が発生します。地雷原でタップダンス,なんていうジョークもありますが,曖昧にされている境界をどこまで踏み込めるかを楽しむ人たち,法律で曖昧になっている穴をついて違法ではないが他者の権利を明確に踏みにじって金銭的利益を得る人たちもいます。世代が違ったり外国人など考えや文化が違う方々であればそういう曖昧さが存在することを知らない場合もあるでしょう。 そうした曖昧さを悪用したり,曖昧さを認識できない人たちが現れた場合,曖昧さによるメリットを捨てざるを得ない場合も出るかと思いますし,場合によっては極めて強硬な手段に出たり,問題が発生する前から曖昧な部分をつぶさざるを得ないことも多々あります。 >ならばあいまいな境界線に近づいて無益に論じ合ったり自己弁護などせず、境界線になるべく遠いところで生活するのがシンプルであり利巧というものではないでしょうか? 全くそう思いますが現実世界においてはなかなか難しい。自分(あるいは自分が所属する共同体)を守るためにグレーの中に,あるいは白や黒の中にすら明確なラインを自らひかざるを得ない状況というのが多々あります。 自分が境界に近づかなくても悪意を持って(あるいは悪意はなくても)境界に突撃して問題を起こす人も世の中にはいるのですから。 いくら「明確に領土を決めるのはお互い面倒だから曖昧にしておこう」となあなあで済まそうとしても,猛獣が襲ってきたらはっきりとした防壁を立てざるを得ないのです。 あと,個人的には,この世の中には白も黒もグレーも存在せず,人間が自分たちの認識で白黒グレーを定義し,現実のいろいろな事象に状況次第で適用しているだけかなと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 あいまいにするということと近づかないという事は必ずしも同じではないでしょう。 利害が反する両者は互いに己の理屈によってはっきりとした線引きはしているのです あいまいだと思っているのは第三者だけです。 ミソは境界線には近づかないということのメリットを両者が理解するということだと思います。 政治家と大多数の国民がそのことを理解していればOKなわけです。 右翼がいくら騒ごうと軍隊(自衛隊)のそれとは比較にならないのですから。 不満分子の数は正常範囲内に収まるでしょう 「万人を納得させる必要はない」これもある意味で境界線に近づかないということですね。

回答No.8

 尖閣諸島の問題で、境界をはっきりさせないということは、以前両国がいっていた「問題を棚上げにする」ということだと思いますが、棚上げにすることで避けられる問題と、棚上げにすることで生じる問題があるようにも思います。その上で物事を白黒はっきりさせるかどうかは、確かに何かと難しさを含みますが、それでも一度噴出してしまった問題にまたふたをして遠ざけるというやり方が現実に通用するかどうかですね。浮気を見ちゃった場合とか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 形式的かつ定期的に両者が自国の領土を主張していればいいんですよ。 ただし、それ以上のことはしない それが境界線を意識しつつ近づかないということです それが利巧というものではないでしょうか

shift-2007
質問者

補足

何を持って浮気とするかは男と女ではその認識は違いますよね。 つまり境界線はあいまいなのです。 だから李下で冠を正さずがお互いにとって良いのです。 私も男ですから浮気するメリットも否定しませんけど利巧とは言えませんね。

noname#194996
noname#194996
回答No.7

>ならばあいまいな境界線に近づいて無益に論じ合ったり自己弁護などせず、境界線になるべく遠いところで生活するのがシンプルであり利巧というものではないでしょうか? 仰るまでもなくほとんどの人間、能天気な無責任人間は大抵そうしています。中には貴方のように悟った人もいるかもですが、まじめに社会で生きるためには実利的に境界線を決めねばならないことが多いのですよ。 たとえばこの人は死んでいるのか、まだ生きているのか、これを決めなければ遺産を欲しい人間どもは生殺しにあっている状況から抜け出せません。尖閣初頭は中国領か日本領か?これも決めなければ血が流れるといきり立っている吝嗇な人間が双方少なからず居ます。裁定を預けられた人間は地獄ですね。 境界線で悩むのがが人間の本性なのです。 >くそのグレーにとどまっていると元の色まで忘れてしまい何でもアリな無節操さがはびこるのでしょう。 それを貴方が推奨しているのではないのですか。とどまりたくないからこそ悩むのでしょう。誰かが決めねばならないのです。それに無関心で、他人事のようにして見ざるいわざるで生きられる立場の人間は幸せだということでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 必ずしも決める必要はないということを図らずも尖閣諸島は示しているのではないでしょうか。 白黒つかない現況でも私たち(大部分の日本人と大部分の中国人)の生活は成立しているのですから。

回答No.6

境界線を形成する有限的性質(Aと非Aを分別する)は、 究極的には不確定性原理の確率性をベースとする。 たとえば、存在性の最も基本的な性質である、位置、時点、 運動量、質量は、空間的に位置(S)を確定しようとすると、 その変化である運動量の値(St)は無限不確定に発散し、 一方、時点(T)を確定しようとすると、その時間軸的な 運動量(超弦の光速に還元される内部運動量の潜在化に よる非光速性=時間経過&静止質量)である質量の値(Ts) は無限不確定に発散する。 つまり、我々が「存在」にイメージする、時空的な位置と 有限な性質を兼備したもの、というのが、時・空軸の相補的 な不確定性により兼備できない=階層現象を表面的に 捉える事によってのみ可能な、非本質的なものとなるのだ。 量子論的世界像において、有限的存在性は認識される 事によって派生するのであり、あらゆる境界は、肉体 (物)としての自己と、宇宙(心)としての自己の間の、 心の中の自己矛盾(認識の限界)としてある。 それを超えた時、肉体の有限の哀しみも超えられる。 あなたが描いた円の外側もまた円であり(球面上の円を 想像して欲しい)、あなたもまた閉じ込められているのだ。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 話はずれますが、 >究極的には不確定性原理の確率性をベースとする。 現時点での「最新」であって「究極」ではないんじゃないでしょうか?

回答No.5

通りすぎることのできない質問だと思ったら、shift-2007 さんだったか。 生きるって現場、自己を存在させようとしている現場って、常に自分は境界にいるんではなく、自分であろうとしている中に居るといしか思えません。 だから私には境界という知的というか、冷えた他者の意識はありません。 そしていつの間にか境界に立っていることもありましょうし、移動していることもありましょう。そして自己の外に立っているときもそこが自己自体であってきましたし、そうしか生きられませんでした。 それがシンプルかどうか、それも私には無用な比較相対の次亜の世界です。 しかし、聖域に足を入れるのは無関係の仕事の職人でしょう。 聖域に対する対し方は、入ったり自己の思考や概念に取り込む事ではないでしょう。 判断や取り込みは慎むことをしないのは、もう境界をなくしたすべてが外なる他者の世界でしょう。 そこには価値というヒエラルキーの構造がない、何でも所有し蔵の中に財物を蓄える蟻の世界でしょう。 そうはなりたくない。だから境界はない。そして聖域には足を入れない慎みを持つ。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 おや、アイコンが変わりましたね カエルの方が私は好きですね。 それほど崇高な話をしているつもりはないんですよ 竹島問題あたりの話です。 境界がないなら国境もないですよね?

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

”思うに現実には境界線というべき境はなく、どこまで行ってもグレーのままではないでしょうか。”      ↑ 全部ではないでしょうが、多くの場合、境界線は 境界「帯」ですね。 ”思うに現実には境界線というべき境はなく、どこまで行ってもグレーのままではないでしょうか。”      ↑ どこまで行ってもグレーだと思って歩いていくと いつの間にやら、黒になっていた、ということ だと思います。 遠くから見ると、白と黒との境は明確に存在する。 しかし、近寄ると延々とグレーが続いているように 見える。 ”長くそのグレーにとどまっていると元の色まで忘れてしまい  何でもアリな無節操さがはびこるのでしょう。”      ↑ その可能性は大いにあると思います。 でも、一律に白黒はっきりさせるのが良いとも 言えないでしょう。 グレーはグレーで良いところもあります。 ”ならばあいまいな境界線に近づいて無益に論じ合ったり自己弁護などせず、境界線に  なるべく遠いところで生活するのがシンプルであり利巧というものではないでしょうか?”        ↑ 鎖国とか隠遁生活ですか? そうすれば平和な生活が送れるでしょうね。 その代わり、境界線での切磋琢磨が無くなりますから レベルが落ちるてくると思います。 人間、得るモノがあれば失うモノもあるのです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >境界線での切磋琢磨が無くなりますからレベルが落ちるてくると思います。 何のためのレベルアップでしょう?

回答No.3

>シンプルであり利巧というものではないでしょうか?  シンプルであるか複雑であるか、利口なのか馬鹿なのか、そんな境界線からなるべく遠いところで生活してみたらどうですか。  そして、無益に論じあったり、自己弁護することなんかやめちゃいなさい。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました

回答No.2

 世渡り上手、という言葉を思い出します。  事なかれ主義、という言葉も思い出しました。  確かに“生きる”ためだけならば利口と言えるでしょうが、人としての「進歩」が得られるんでしょうか。  見えない「境界線」を見ようとした先人たちの努力によって、今日の“日本”があるように思います。  境界線はグレーでも範囲は狭く、でも曖昧だからはっきりさせようという努力が必要で、また先人たちはそうしてきたのだと思います。  無節操、は曖昧のままで良しとする考えの人たちの取る行動ではないでしょうか。  日本の社会に秩序があるのは人々が、グレーだけれどもそうした境界線を持っているからと、・・・   こんなことを考えてみましたが?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 人としての進歩・・・・ 何のための進歩なのでしょうか?

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